第二章 鍵
観柳邸に来客の無い日は殆ど無い。来客が無くても夜会が催され、その場で飲み物を配るのもの仕事だ。暇だろうとたかを括っていた仕事であるが、思いの外忙しい。おまけに観柳が屋敷にいる時は彼に付き添い、周りに不足は無いか常に気配りをしなければいけないのだから、大変だ。彼の中には細かい決まりごとが幾つもあって、それから少しでも外れるとたちまち機嫌を損ねて周りに当り散らすのだ。
にはまだそれほどでもないが、気の弱い使用人などには容赦が無い。だからが細心の注意を払っていないと駄目なのだ。
気は遣うし体力もいるしで、華やかな見かけによらず、メイドというのは重労働である。派手な制服と破格の給金の割に人が続かないのは、こういう事情のせいらしい。だからこそ、でも簡単に採用されたのだろうが。
しかし大変ながら、興味深いことも判ってきた。武田観柳の“華やかな”人脈と裏の顔だ。
昼間に観柳邸にやって来るのは、貿易商や取引先など、所謂表の人脈に関わる人間たちだ。彼らは政治家や財界人と共に夜会に招待されることもある。そしてもう一つ、これは本当はにも知られてはいけない種類の客であると思うのだが、裏口から出入りする胡散臭い人間がいるのだ。彼らは夜会に招待されることは無い。
胡散臭い輩は、その殆どを執事が相手をしている。大抵は裏口で追い返されるのだが、その際に幾許かの金を渡していることもあるようだ。口だけで帰すか金を渡して帰すかは、執事の判断に任されているらしい。
極稀に、客間に通されて観柳が相手をすることもあるが、そういう選ばれた人間は胡散臭いながら実業家風でもある。多分そういうのは裏の取引相手なのだろう。そして観柳の無尽蔵の資金は、その取り引きで支えられているらしい。
何を取り引きしているのかまでは、には判らない。蒼紫にもそれとなく訊いてみたが、適当にはぐらかされてしまった。どうやら蒼紫は観柳の裏の顔も全部知っているらしい。
そしてもう一つ、には奇妙に思うことがある。観柳邸の何処かに、隠された部屋があるようなのだ。
屋敷にある鍵の全ては、家政婦が管理することになっている。ところが、彼女が持っていない型の鍵を観柳と蒼紫が持っているのだ。全ての鍵を管理するというのが家政婦の一番の仕事であるはずなのに、彼女が持たずに蒼紫が持っている鍵が存在するというのがおかしい。
秘密の部屋が存在しようがには関係無いことなのだが、この鍵の件については気になって仕方が無い。この部屋にはきっと、とんでもない秘密が隠されているはずなのだ。秘密を知ったところでには何の得も無いだろうが、何となく引っかかる。
「いつも持ち歩いている鍵………あれ、何?」
ベッドに寝そべっていたが、唐突に訊ねた。
夜会も観柳の外出も無い夜は、蒼紫がの部屋を訪れるのが習慣になっている。普段は接点が全く無い二人にとって、ゆっくりと話せる貴重な時間だ。
「他人の持ち物を探るとは、悪趣味だな」
コートを羽織ながら、蒼紫は咎めるようにを見た。
が、は悪びれもせずにくすっと笑って、
「家政婦も持ってない鍵をあなたが持ってるなんて、変じゃない? 何の鍵なのかなぁ、って気になっちゃって」
媚を含んだ甘い声を出してみるが、蒼紫の表情は硬いままだ。肌を合わせた直後なら、多少は気が緩んで口の滑りが良くなるかと思ったが、全く変わらない。
かつての仲間といえど、今はもう外部の人間。昔に戻った気になっても、蒼紫が職務上の秘密をに話すわけがないのだ。
どんなに抱き合っても、完全には心を許してもらえない。蒼紫の仕事は特殊なのだから当然のことなのだが、昔なら話してくれたはずだ。そういう関係にしてしまったのはなのだが、寂しさを感じてしまう。
「屋敷を探っているようだが、観柳に気付かれる前に手を引け」
「見てたのね」
薄々予想はしていたが、は息を呑んだ。
僅かな空き時間を使って屋敷の内部を探っていると、たまに視線を感じることはあった。その時は大人しく引っ込んでいたが、気配を感じない時も見られていたのか。監視に気付かないなんて、も随分鈍くなったものだ。
だが、探りを入れていても何もされなかったというのは、どういうことなのだろう。本気で止める気があったのなら、もっと早い時期に何らかの形で警告があったはずだ。
蒼紫の考えが解らない。鍵のことは知られたくないはずなのに、無用心にに気付かせているし、屋敷を探っても今まで何も言わなかった。鍵の件は油断していたにしても度が過ぎる。まるで最初からに教えるつもりだったかのようだ。
「この鍵のことは、表の使用人には関係無いものだ。だが―――――」
そこまで言って、蒼紫は一旦言葉を切った。そして思い切ったように再び口を開く。
「俺たちのところに戻って来ないか?」
「………え?」
思いも寄らぬ誘いに、は軽く目を見開いた。
昔に戻れたら、とは何度も思っていたけれど、本当に御庭番衆の仲間のところに戻るのは躊躇われる。ずっと蒼紫の傍にいられるなら良いけれど、他の者と一緒なのは嫌だ。
が大人になったとはいえ、子供時代の扱いと大きく変わるとは思えない。それどころか、一度出て行った人間なのだから、風当たりは昔よりも更に強くなるだろう。蒼紫に求められるのは嬉しいが、それを考えると簡単に彼の誘いには応じられない。
目を伏せてじっと考え込むを安心させるように、蒼紫は言葉を続ける。
「あの頃いた人間は般若だけだ。あいつもお前が戻るのを楽しみにしている」
「般若もいるんだ………」
懐かしい名前を聞いて、の表情が少しだけ和む。
蒼紫の腹心だった般若は、が心を許せる数少ない人間だった。屋敷では姿を見たことが無いが、今でも蒼紫と共にいるのか。
此処にいるのなら顔を見せに来てくれても良さそうなものだが、般若も忙しいのだろう。あるいは蒼紫との時間を過ごさせるために、遠慮しているのかもしれない。そんな必要は無いのだが、昔からそういうところに気を遣う男なのだ。
「般若に、私が会いたがってるって伝えて。どんな風になってるのかなぁ」
大人になった般若の姿を想像してみるがうまくいかなくて、は可笑しそうにくすくす笑う。彼女にとっての般若は、いつまでも蒼紫が拾ってきた頃の子供のままなのだ。
笑うを見て、蒼紫は少し複雑な顔をする。
「随分会ってないからな。久し振りに会ったら驚くかもしれない」
「そうよね。いつまでもあのままじゃないわ」
この十年では外見は勿論、中身も大きく変わった。蒼紫もそうだ。般若だって変わらないわけがない。どういう風に変わったのかは想像もつかないが、蒼紫が「驚くかもしれない」と言うくらいだから、相当変わっているのだろう。今から会うのが楽しみだ。
にやにや笑うに、蒼紫は付け足すように言う。
「姿は変わっても、中身は変わっていない。だから―――――いや、それはまあいい。
とりあえずさっきの話、前向きに考えてくれ」
本題を思い出し、それまで笑っていたの表情に影が差す。
“あちら側”には蒼紫がいて、般若もいる。昔のを知っている者もいないという。昔のなら迷わずそこへ飛び込んだだろうが、今は―――――
「そうね………考えとく」
今のにはもう、蒼紫の望む返事はできないだろう。その理由は彼女の中にある。蒼紫に話しても、きっと理解されない理由だ。
けれど完全に断っていまう勇気も無い。断ってしまえば蒼紫との繋がりが完全に切れてしまいそうで、それがには何よりも恐ろしいことなのだ。
の曖昧な返答に、蒼紫も察するところがあったのだろう。それ以上は何も言わず、黙ってを見下ろしていた。