第十六章 消えた村
天候に恵まれたおかげで船酔いすることも無く、無事に上陸することができた。日頃の行いが良かったのだろう。「はぁ〜、やっと着いたぁ」
数日ぶりに揺れない地面に立って、は心底ほっとしたように伸びをした。船酔いしなかったとはいえ、四六時中揺れる船の中は、やはり快適とは言い難い。
この後は、別行動をしている斎藤の部下と落ち合うことになっている。その報告次第でこのまま京都に向かうか、寄り道をすることになるか決まるのだ。
としては、一刻も早く京都に向かいたい。蒼紫はもう京都に着いていることだろう。彼は今も一人でいるのだろうか。京都にも御庭番衆の仲間がいるはずだが、今の蒼紫が身を寄せることは無いと思う。
「遅いな………」
パチン、と懐中時計の蓋を閉め、斎藤が呟いた。
まだ約束の時間を五分ほど過ぎたばかりだ。時間ぴったりの行動が密偵の原則だが、何かの都合で遅れているのかもしれない。
「道が混んでるんじゃないの? せっかちねぇ」
東京ほどではないとはいえ、此処も大きな町である。しかも今日は休日だから、馬車で移動しているとしたら多少の遅れは仕方がない。
が、暢気なとは反対に、斎藤は深刻そうに眉間に皺を寄せている。まだ五分の遅れだが、最悪の事態を考えているようだ。
部下が潜入しているのは志々雄の手に落ちた集落だ。志々雄たちが湯治に来ているというのが最後の報告だった。その後、正体を見破られて捕らえられたか消されたか―――――あり得ない話ではない。
「―――――行くか」
「………は?」
一人で勝手に決めると、斎藤はさっさと歩き始める。は慌ててその後を追った。
「待ってなくていいの?」
「時間の無駄だ」
部下は来ないと判断したらしい。斎藤はきっぱりと言い切った。
ということは、寄り道決定ということか。京都に向かいたい気持ちは山々であるが、単独行動は許されない。は仕方なく斎藤の後に付いていった。
途中で地図を買ったが、目的地の新月村があるはずの位置はただの山林になっている。志々雄の支配下に置かれている集落は“存在しない”のだ。
このような集落は日本各地にあるらしい。志々雄は少しずつ、しかし確実に勢力を拡大している。
「本当にこっちで合ってるの?」
腰まで届くような草を掻き分けながら、は苛立った声で尋ねる。
地図になくても近くの集落で訊けばすぐに分かると斎藤は軽く言っていたが、こんな獣道を歩いていると遭難したのではないかと疑いたくなってくる。そもそも最後には言った集落からの距離が離れすぎだ。山村というのはこんなものなのかもしれないが、地図が無いだけに不安が募る。
「方角はこれで合っているはずだ」
斎藤は自信を持っているようだが、肝心の村が見えないようでは何の説得力も無い。
はっきり言って、には新月村などどうなってもいいのだ。そんな小さな村にかまけるよりも、京都に行きたい。京都に行って、蒼紫を捜したい。
「もう新月村なんてどうでもいいじゃん。国も見捨てたんだしさ。さっさと京都に行こうよ」
心底面倒くさそうには訴える。
「まだ志々雄がいるかもしれないんだ。どうでもよくはない」
「京都で待ってたらそのうち来るって。だからさあ―――――」
「志々雄を仕留めるのが俺たちの任務だ」
背を向けたままだが、斎藤が苛立っているのは伝わってきた。
新月村を見捨てるような発言が気に障ったのかもしれないが、これがの本音なのだから仕方がない。縁もゆかりも無い山村なんかより、蒼紫を捜すことの方が、には重大なことなのだ。
「そんなの、京都に行ってからでもいいじゃん」
「………村を解放してやろうとか思わんのか、お前は」
「割とどうでもいい」
一瞬の躊躇いも無くは応える。
斎藤だって、志々雄が目的であって、村の開放は二の次に決まっているのだ。のことをどうこう言えるような人間ではない。
呆れたのか諦めたのか判らないが、斎藤は何も言わない。の存在を意識から外すように、黙々と草を掻き分けて進んでいく。
さすがに一寸言い過ぎたかと思ったが、こちらから話しかけるのは癪な気がして、も黙っている。
それにしても村らしいものはまだ見えない。歩き続けて喉も渇いてきて、もう最悪だ。
「どうしたの?」
それまでとは違う張りつめた空気を察して、もつられるように緊張する。
斎藤の視線の先に集落らしきものが見えた。どうやらあれが新月村らしい。
今のところ、辺りに人の気配は無い。まだ村人は住んでいるはずなのに、不気味なほど静まり返っている。
「………此処なの?」
位置的に此処が新月村なのは間違い無い。しかし村人は勿論、志々雄の部下の気配も無いというのはどういうことなのだろう。
志々雄たちはもう村を離れてしまったのか。彼らは各地を転々としているというからあり得ないことではないが、だとしたら村人たちはどうしたのだろう。
「行くぞ」
疑問は幾つも沸き上がるが、の質問を拒否するように斎藤は歩き始めた。
真っ昼間だというのに人の往来が全く無い。民家は荒れた様子は無いから住人はいるのだろう。家の中で息を潜めてこちらを伺っているような、何とも厭な感じがする。
この様子では、志々雄はまだ村にいるようだ。こちらの様子を伺っているのも、余所からやって来た二人の警官が妙なことをしないか見張っているような気もする。
恐怖で支配されている村人にとっては、たちは余計なことをしようとする“敵”なのかもしれない。志々雄の機嫌さえ損なわなければ、とりあえず生きてはいけるのだ。
政府は志々雄から新月村を守らなかった。それどころか、村が志々雄の手に落ちた後はその存在を地図から消し去ってしまった。村を見捨てた明治政府は村人にとって、志々雄より憎い敵なのかもしれない。
陰湿な視線を感じながら歩いていると、漸く人影が見えた。といっても、二人とも子供のようだ。
しゃがみ込んでいる少年は本当にまだ子供で、弥彦と同じくらいか。立っている少女は、薫よりいくらか年下のように見える。
姉弟かと思うような組み合わせだが、二人は明らかに他人だ。少年は村の子供だと思うが、少女の方は余所の人間だろう。
「………なんで………」
少女の姿を見て、は血の気が引く思いがした。
の持っているものとは違うが、少女が着ているのは御庭番衆の忍装束だ。明治の世に、しかもあの歳であんな格好をしているなんて、一体何者なのだろう。
何だかとても厭なことが起こるような予感がする。漠然とした不安に立ちすくんでいると、少女の背後から槍を持った男が襲いかかってきた。
「よそ者には死あるのみ!」
「あっ………!」
間一髪のところで、少女が少年を抱えるようにして攻撃をかわした。すぐに体勢を整え、少女は苦無を構える。
の扱いが手慣れている。子供だが、それなりの訓練を受けているのだろう。やはり御庭番衆の人間なのだ。
「よそ者には死ある―――――」
馬鹿の一つ覚えのように同じ台詞を繰り返しながら襲いかかる男だっがが、その言葉が終わる前に首から口へ一気に日本刀に貫かれた。
「えっ?!」
いつの間にか追いついた斎藤が、男を貫いたのだ。
は勿論驚いたが、それ以上に少女も驚いているらしい。当然である。幕末の頃なら兎も角、いくら自分を殺そうとした相手とはいえ、目の前であんな殺され方をして驚かないわけがない。
「あ……あんた、だれ………?」
真っ青な顔で腰を抜かしている少女が、震える声で尋ねた。
殺人気を見るような少女の存在など気付かないように、斎藤は辺りを睥睨する。そして、此処にいるはずのない男の姿を認めると、忌々しげに舌打ちした。
「あの野郎、京都へ向かっているとばかり思っていたら………。こんなところで何油売ってやがる!」
斎藤の視線の先にいたのは、先に京都に向かっていたはずの緋村剣心。もまさかこんな所で鉢合うとは思っていなかった。
斎藤と剣心、そして志々雄真実―――――早くも役者はそろってしまったらしい。京都行きを待たずして此処で決着が付いてしまうのか。
否、それよりも気になるのは、忍装束の少女の正体だ。この少女は一体何者なのだろう。
山歩きの疲れも忘れ、は瞬きもできずに立ち尽くしてしまうのだった。