第十五章 出航
の様子がおかしい。あんなことがあった後だからおかしくて当たり前なのだろうが、それを差し引いても普通ではない。ぼんやりと考えごとをしているかと思いきや、急に陽気になったり、そうかと思うと次は塞ぎ込んだり、ひどく情緒不安定なのだ。これで無事に京都ま辿り着けるのだろうかと、斎藤は心配になる。
がこうなったのは、蒼紫の部下たちの墓参りに行ってからだ。多分、あの時に何かあったのだろう。出発前にどうしても行きたいと言うから許可したのだが、斎藤も一緒に行っておけば良かったと思う。
「おい」
甲板の手摺りに寄りかかって海を眺めているに、斎藤は声をかけた。
「何?」
は斎藤の方を見ようともしない。心此処にあらずといった様子だ。
「墓参りはどうだった?」
「どうって……別に」
の返事は素っ気無い。御庭番衆のことは斎藤に触れられたくない部分なのだろう。
以前なら斎藤もあえて話題にしようとはしなかったのだが、今回ばかりは違う。任務に差し支えるほどのものがあれば、そこに踏み込むのも仕事のうちだ。
「“別に”じゃないだろう。お前、あれからおかしいぞ」
「………そうかな」
とぼけているのか、本当に自覚が無いのか判らないが、は淡々としている。そんな反応も、いつもの彼女らしくない。
は何か重大なことを隠している。今もそのことについて考えているのだろう。何となく上の空な時は大体そうだ。
「何があったのか知らんが、そんな具合じゃ次の港で下りてもらうぞ。足手纏いを連れて行く余裕は無いんだ」
突き放すようなその言葉に、は初めて斎藤を見た。
「斎藤さんに守ってもらおうなんて思ってない! 自分の身くらい自分で守るわ!」
足手纏いという言葉が、余程癇に障ったのだろう。怒りを露わにして、は必死に訴える。
はそう言うが、今回はいつもの彼女でどうにか自分を守れるくらいの相手だ。今の状態ではすぐに志々雄の餌食になってしまうだろう。が志々雄に捕らえられでもしたら、斎藤も思うように動けなくなってしまう。
「そんなヤワな相手じゃないことは、お前も解っていると思っていたが。そんなことすら判断できないようなら―――――」
「解ってるよ! 斎藤さんより解ってる!」
癇癪を起こしたようには叫んだ。こんな過剰反応を見せるとは、触れられたくない部分に触れてしまったらしい。それはがずっと考えていたことに関係しているのだろう。
興奮しすぎたと思ったらしく、の表情が急に大人しくなった。そして作ったような静かな声で話し始める。
「志々雄の部下っていうのに会ったの」
「ああ………」
その一言で、斎藤はすべてを納得した。と同時に、志々雄の手がそこまで伸びていたのかと驚く。
は斎藤と共に行動しているが、形式上は書類に名前が載らないような末端だ。そんな人間にまで接触してくるとは、志々雄たちはこちらの人員構成をどこまで把握しているのか。
他の部下が志々雄の手下と接触したという話は聞かないから、おそらく向こうはに的を絞ってきたのだろう。不安定な彼女が一番切り崩しやすいと判断したのだと思われる。しかもは、今回の指揮官である斎藤と行動を共にする人間だ。志々雄側引き込めば何かと都合が良い。
予想以上には厄介な存在になってしまったらしい。志々雄が彼女についてどれだけの情報を持っているのか解らないが、このまま連れて行っても、次の港で置いていっても、斎藤には都合の悪いことになりそうだ。
「その人、蒼紫に会わせてくれるって言ったの。蒼紫は絶対自分たちと合流するから、って」
「………………」
平静を装っているが、斎藤は内心焦っている。蒼紫についても調べているということは、おそらく彼にも同じように接触しているはずだ。御庭番衆御頭が敵に回ったら、これほど厄介なものはない。
神谷道場で見付けた時に捕獲しておくべきだったか。味方にすることはできなくても、敵に回らなければそれだけでこちらに有利に動いたかもしれない。今更言っても仕方の無いことだが。
蒼紫を釣るためにに接触してきたのか、蒼紫でを釣ってこちらの切り崩しを計っているのか。今の蒼紫がに釣られることは無いと思うが、にはある程度の効果があったようだ。今すぐ寝返るには迷いが残っていそうだが、今後も引き続き接触してくるようであれば、どうなるか解らない。
「あの男が、志々雄と手を組むと思うか?」
の言い方では、まだ蒼紫は志々雄に付いていない。蒼紫がの言うような男であれば、志々雄に付くはずは無いと斎藤は判断している。志々雄に付くことがあれば、それはもうの知っている蒼紫とは別の男だ。
はじっと考え込む。以前の彼女であれば、そんなことはないと即答しただろうに、最後に見た蒼紫の姿を見て何か感じるものがあったのだろう。
「組まない………と思いたい。でも―――――」
「“でも”?」
「あの人、凄く自信あるみたいだった。もしかしたら、蒼紫と話してるのかもしれない」
「“あの人”?」
の言い方が、斎藤に妙に引っかかった。敵だというのに、の言い方は柔らかい。まるで古い知り合いについて語っているようだ。
もそのことに気付いたらしく、驚いたように口を押さえた。そしてきまり悪そうに苦笑する。
「沖田さんにね、似てる人だったの。見た目もそうだけど、声も雰囲気も。沖田さんが帰ってきたのかと思ったくらい」
「沖田君は死んだ。生きてたとしても、俺より年上だぞ。あの頃と同じ姿じゃない」
「そうなんだけどね。解ってるんだけど………沖田さんと話してるみたいだった。沖田さんに“僕ならあなたを解ってあげられる”って言われたら―――――」
「そいつは沖田君じゃない! そいつに何が解る?!」
の腕を掴んで強引にこちらを向かせ、斎藤は怒鳴りつけた。
の中で、過去と現在の境が曖昧になっているように感じる。それを狙って、志々雄が沖田に似た男を差し向けたとしたら、大した策士だ。
沖田とに接触した男は別人だ。沖田がのことを解ってやれると言うなら兎も角、その男が言うのは口から出任せに決まっている。そんなことも判らないくらい、の判断力は低下しているのか。
は驚いたように一瞬硬直したが、その目がみるみる冷ややかになっていく。
「斎藤さんにだって解らないじゃない。蒼紫を捜してっていつもお願いしていたのに、ずっと無視してたくせに」
「………………」
それを言われると、斎藤は返す言葉が無い。
蒼紫の件での信頼が一気に失われたことは、斎藤も感じている。けれどあの蒼紫に会わせて、にとって良い方に転ぶとは思えない。この件に関しては、自分の判断は常に正しかったと、斎藤は思っている。
「あいつはもう、昔のあいつじゃない。お前も解ってるだろう?」
感情的にならぬよう、斎藤は静かに言う。
「それは………」
の顔が泣きそうに歪む。最後に見た蒼紫の姿を思い出したのかもしれない。
まずい、と斎藤が思った瞬間、の目がキッと吊り上がった。
「それでも蒼紫は蒼紫だもんっ! どんなになっても蒼紫なのは変わらないもん!」
そう叫ぶと、は斎藤を乱暴に突き飛ばして走り去った。
どんなになっても蒼紫なのは変わらない―――――今はああでも、いつかきっと昔の蒼紫に戻ると、は信じているのだろう。苦しんで悲鳴を上げるような声だった。
蒼紫を信じたいという気持ちは解る。斎藤も、時尾が別人のように変わってしまったとしても、いつかは元の時尾に戻ると信じようとするだろう。大切な人間が変わってしまうのは、たとえどんな姿になったとしても受け入れられないものだ。
だが今回は、四乃森蒼紫という一個人の問題ではない。下手をすると国がひっくり返るのだから、希望的観測を差し挟む余裕など無いのだ。にはそんな割り切りができるだろうか。
もしもが志々雄側に取り込まれることになったら、自分は彼女を斬ることができるだろうか、と斎藤は考えてみる。それが自分の正義に反するとあれば、相手が誰であろうと斬らねばならぬと思う。けれど―――――
「俺もまだまだ、か………」
を斬るところを想像すると、手が冷えていくのを感じる。想像だけでこの調子なら、現実になったら刀を抜くことさえ難しいかもしれない。
志々雄からの揺さぶりは確実に効いている。京都に着くまでに何か手を打たなければ、と斎藤は考えた。
経費の関係で、船室は二人同室になってしまった。男女で同室など、警視庁も考え無しにも程がある。
「此処からこっちにきたら、舌噛み切って死ぬからね!」
兼定を二人の布団の間に置いて、はきつく宣言する。
舌を噛み切って死ぬとは穏やかではないが、当然の反応だろう。若い女がこの状態で平然としていたら、そっちの方が問題だ。
「下らんことを心配してる暇があったら、さっさと寝ろ。港に着くのは早朝だぞ」
過剰に警戒されていても、斎藤は全く相手にしてない。そんな気になる余裕も無いのだから、まともに相手にするのも馬鹿馬鹿しいと思っているのだろう。心底どうでもいいような様子で布団に入った。
何も起こらないに越したことはないが、どうでもいいようにあしらわれるのも、それはそれで面白くない。は不機嫌な顔で布団に入る。
起きている時は気にならなかったが、こうやって横になっていると揺れているのがよく判る。どんな環境でもすぐに眠れるのがの特技なのだが、今夜はやけに揺れが気になった。
けれど揺れてはいても、は暖かい布団で眠ることができる。蒼紫は今頃どうしているのだろう。今の季節なら野宿も寒くはないだろうが、屋根も布団もないところで寝ているかもしれないと思うと、は悲しくなった。
「斎藤さん、起きてる?」
背を向けて寝ている斎藤に声をかけてみる。
「………ああ」
こちらを向かないが、斎藤は低い声で返事をした。
「昼間の話だけどさ、蒼紫は本当は何も変わってないと思うんだ」
あれからずっと考えていたけれど、蒼紫が変わってしまったのは表面上のことだけだと思いたい。剣心との対決しか目に入っていないのも、般若たち四人のことを何よりも大切に思っているからだ。部下を大切に思う心は、全く変わっていない。
剣心を倒すことができれば、きっと蒼紫は元に戻ってくれる。その時にはが傍にいて、彼の新しい人生を支えたい。
「お前がそう思うなら、それで良いんじゃないか」
斎藤の反応は冷ややかだ。もう何を言っても無駄だと呆れているのだろう。
端から見れば馬鹿だと思われるだろうことは、も解っている。これが他人事だったら、も馬鹿な女だと思っただろう。けれど、馬鹿だと思われても、だけは蒼紫を信じたいのだ。
「だから、もしも蒼紫が志々雄に付いたら、私―――――」
今回の任務が、この国の行く末を決めることになることは解っている。のような小さな存在がどちらに付くかで流れを大きく変えてしまいかねないくらい、微妙な均衡の上に“今”が保たれていることも。
それを全て理解していてもなお、は迷い続けている。どちらに正義があるのか解っていても、蒼紫がいる場所がのいるべき場所ではないかと思ってしまうのだ。
だから、はいつも不安になる。いつか斎藤を裏切ることになるかもしれないと、漠然と思う。
斎藤がのことを考えてくれていることは解っている。蒼紫よりも考えてくれているかもしれない。そんな彼を裏切るなんてできないと理解しているのだが、蒼紫のことを思うと、そんな斎藤のことさえ平気で裏切ってしまいそうな気がするのだ。
自分は何と愚かな人間なのだろうと思う。そうやって本当に大切にしてくれる人よりも、手に入らない人を追い続けて、自分だけでなく周りも巻き込んで傷つけていく。昔からずっとそうだった。今回もまた同じことを繰り返してしまうかもしれない。だから―――――
「もしも私が斎藤さんを裏切ることがあったら、斎藤さんの手で殺してください」
自分の不始末まで斎藤に始末させようというのは図々しいが、蒼紫を目の前にして自分の身を処せるほど、は強くはない。結局は、斎藤がいなければ何もできないのかもしれない。
斎藤は何も応えない。けれどきっと、自分の正義のためなら躊躇い無くを斬ってくれるだろう。斎藤は誰よりも強い男なのだ。
「………おやすみなさい」
呟くように言うと、も斎藤に背を向けた。