序章 夢
長い夢を見ていたような気がする。大人になって、知らない街で暮らす夢―――――きっとそれはの願望なのだろう。御庭番衆から抜けて、自分のことを知る人間にない世界で暮らすこと。もしも一つだけ願いが叶うなら、新しい世界で全部やり直したい。
はもうすぐ十三になる。御庭番衆の一員として育てられ、自分の親のことは知らない。親の無い者は御庭番衆では珍しくないが、の場合は“判らない”。
母親は、今のに似た面差しをしていた、らしい。男から情報を取ってくるのが巧かったとも聞く。幼い頃に死んだから、周りの大人に聞いた話だ。
一番古い記憶にある母親は、顔も身体も徹底的に破壊されていた。敵に捕まって、拷問を受けたのだろう。町外れに捨てられていたらしい。あれが“母親”だと言われても、には分からない。
父親は、誰も知らない。母親は最後まで誰にも言わなかったのだそうだ。
きっと本人にも誰が父親か分からなかったのだろう、と誰かに言われたことがある。言われた時はどういう意味か解らなかったが、今なら解る。母親は任務のためなら誰彼構わず男と寝るような女だったのだろう。
懐柔したり情報を引っ張ったりするには、女なら体を使うのが一番手っ取り早い。そんなことを繰り返しているうちに、を身籠ったのだろう。
手っ取り早い方法で任務を果たして妊娠して、誰の子とも知れぬ赤ん坊を生むなんて、最低だ。しかも、父親が誰にしろ、御庭番衆の敵になる男なのは間違いない。隠密としても、女としても最低だと、は思う。
あんな隠密にはなりたくない。あんな女にはなりたくない。ずっとそう思ってきた。あんな方法を使わずとも任務を果たせるように、他人の倍も修練を重ねてきた。
そして今、大奥の中で働いている。寝起きするのも食事も大奥の中で、もう長いこと外に出ていないが、それを辛いと思ったことは無い。たとえ一生外に出ることが無くても、母親のように働くよりはずっとマシだ。
女ばかりの狭い世界は嫌なことも沢山あるけれど、慣れてしまえばどうということはない。御庭番衆の中で好奇の視線を感じながら生活するよりは気楽なものだ。
けれどやはり、此処ではない何処かへ行きたい。広い世界で自由に生きてみたい。好きな男と“家族”というものを作ってみたい。
あの女の子供として生まれなければ、きっと容易く手に入れることができたものなのだろう。隠密として生きることは避けられなくても、御庭番衆の中で家族を作ることはできたと思う。数は少ないが、隠密同士で所帯を持っている者はいるのだ。
には好きな少年がいる。できることなら、彼と家族になりたい。しかし、父親が判らないどころか、敵と思われる男の娘を、誰が妻にしたいと思うだろう。しかも相手の少年は、次期御頭の最有力候補だ。そんな少年にのような出自の人間は相応しくない。
大奥の中で働くことにしたのも、男子禁制の此処なら少年の姿を見ずに済むと思ったからだ。姿を見れば、ますます好きになって辛くなる。けれど会えなければ会えないだけ思いが募り、相手のことを思い出してしまう。
成就することがないだから、せめて夢の中でだけでも彼と一緒にいたい。外の世界で二人で幸せに暮らすことを想像する。
「蒼紫………」
少年の名を呟き、は目を閉じた。