第十四章  京都へ

 空が明るくなっていくのを感じる。何本目になるか判らない煙草を揉み消し、斎藤はの方を見た。
 あの後、を家まで送り、そのまま泊まった。あの状態のを一人にしておくわけにはいかないと思ったのだ。
 だが、家に着いた後は落ち着いたもので、は「疲れた」と言ったきり自分で布団を敷いて横になって、今に至っている。内心はどうであれ、生きるの死ぬのという状態ではなかったらしい。
 が眠っているのか、斎藤には判らない。床に入ってからずっと、斎藤を拒絶するように背を向けている。
 一晩中寝がえりを打たずにじっとしているということは、多分起きているのだろう。何か声をかけるべきだったのかもしれないが、適当な言葉が今の斎藤には見つからない。
 結局、斎藤は無言で一晩中、煙草を吸い続けただけである。傷心の女の傍にいて、やったことが一晩かけて女の家の空気を汚しただけとは、何とも情けない。
 しかし、斎藤が何を言ったところで、の傷を深くするだけだっただろう。蒼紫を否定すれば、そんな男に惚れているも否定することになる。希望を持たせるようなことも、明らかに嘘になるから言えない。
 前にもこんなことがあったなと、斎藤は新しい煙草に火をつけた。
 あの頃の斎藤は蒼紫よりも若く、はまだ少女だった。あの時はどうやって時間を過ごしたか。思い出そうとしても思い出せない。
「―――――斎藤さん」
 不意にが声を出した。相変わらず背を向けているから表情は判らないが、落ち着いているようだ。
 不気味なほど静かなその声が、斎藤には逆に恐ろしい。
「何だ?」
 まだ殆ど残っている煙草を揉み消し、斎藤は身構える。こういう時はとんでもない要求が出てくるものなのだ。
「私も京都に行きます」
「それは、お前………」
 そのまま斎藤は絶句する。
 当初の計画ではも京都行きに同行させるつもりでいたが、状況が変わり過ぎた。今の彼女を京都に連れて行くわけにはいかない。
 が京都行きを決意したのは、蒼紫を追うためだ。あんなことがあってもまだ追いかけようとは、どこまで馬鹿な女なのだろう。の知る蒼紫はもういないのに。
 剣心との対決しか見えていない蒼紫は、警視庁には厄介な存在だ。志々雄一派と手を組むことは無いと思いたいが、それだけに扱いづらい敵になるだろう。そして、場合によってはも敵に回ることになるかもしれない。
 これがただの私闘であれば斎藤の手で揉み消せないことも無いが、今回は国の命運が懸っている。志々雄を倒す剣心に危害を加えようとする者は、志々雄と同じく国賊だ。が蒼紫について行くことになれば、彼女もまた国賊となり、斎藤の手で討たなければならなくなってしまう。
 斎藤が押し黙っていると、が起き上がって正座した。
「私は大丈夫です。足手纏いになるようなことはしません」
「しかし………」
 斎藤をじっと見詰めるの目は、とても大丈夫とは思えない。蒼紫と同じ、生気の無い目だ。
 今のがやるべきことは蒼紫を追うのではなく、忘れることだ。あの男はもう、の知る四乃森蒼紫ではない。
 京都に行けば、再び蒼紫に会うこともあるだろう。しかし会ったところで、昨日と同じことを繰り返すだけだ。あんなことを何度も繰り返していたら、は壊れてしまう。
「あの男のことは俺が何とかする。だから―――――」
「何とかするって、どう何とかしてくれるんですか? 一度も何とかしてくれなかったのに」
 の口調は静かだが、他人行儀過ぎる冷ややかな声は斎藤を追い詰めるには十分過ぎる。感情の無い目で見詰められると、言葉を返せない。
 今までのことを思い返せば、が斎藤を信用するはずがない。今日まで斎藤は何もしてこなかったのだ。
「斎藤さんが連れて行ってくれなくても、一人で行きますから。蒼紫の行き先は分かってますし」
「いや、それは………」
 そっちの方が性質が悪い。蒼紫と合流する前に、志々雄一派の餌食になるのがオチだろう。
 各地に情報網を巡らせている志々雄が、蒼紫の存在に目を付けるのは時間の問題だ。少し調べればのことにも気付くだろう。
 蒼紫を仲間に引き込む餌として、斎藤の弱点として、そして何より警視庁側の情報源として、はいくつもの利用価値がある。彼女を捕えれば、志々雄側は格段に有利になるだろう。
 京都に連れて行くのは危険だが、単独行動されることを考えれば、斎藤の監視下に置いておくのが一番無難か。まったく厄介な女である。
「分かった。明日の船便で一緒に行こう」
 志々雄一派への警戒との監視を同時に行うのは、いくら斎藤でも負担が大きいが、仕方がない。
「ありがとうございます」
 の表情が一瞬だけ和らいだように見えた。それが何を意味するか解るだけに、斎藤は軽い苛立ちを覚える。
「お前の主は警視庁だ。くれぐれもそのことを忘れるなよ」
 言っても無駄に終わるかもしれないが、斎藤は釘を刺しておく。
 もしが警視庁の指揮下を離れた場合、斎藤は彼女を迷わず斬ることが出来るだろうか。あってはならないことだが、覚悟をしておかなくてはならない。
 今回の任務は自分の全てを試される困難なものになりそうだと、斎藤は思った。





 残った仕事を片付けてくると斎藤が出て行った後、は町外れの墓地に向かった。無縁仏が殆どの、寂しい所だ。
 此処に般若たちの体が眠っている。いつか蒼紫が持ち去った首と一緒に埋葬してやりたいと思っていたが、それはもう叶わなくなるかもしれない。 
 次に此処に来る時は、蒼紫と一緒だと思っていた。そして二人で手を合わせ、新しい人生を般若たちに約束するつもりだった。けれど、それももう―――――
「此処にいたんですね、さん」
 墓の前で手を合わせるの背後で、聞き覚えの無い若い男の声がした。
 妙に馴れ馴れしいその声にぎょっとしながらも、は落ち着いた様子を装ってはゆっくりと振り返る。
 そこにいたのは、書生風の若い男だ。少女のようにたおやかなその風貌を見て、は血の気が引く思いがした。
 その男の顔は、新撰組一番隊組長・沖田総司に似ていた。一見屈託の無い、けれど何か重いものを抱えているような笑顔も似ている。
「捜したんですよ。東京を離れる前にお墓参りですか」
 男が一歩、の方に踏み出す。同時に、は跳ねるように立ち上がって身を引いた。
 この男はの名前だけでなく、その後の行動も知っている。一体何者なのだろう。殺気を纏っているわけでもなく、かといって密偵仲間のようでもない。
 正体を探るように、は男の目を見詰める。が、男の目には敵意は無い。ただ無邪気に微笑んでいるだけだ。けれどその無邪気な目が、には何故が恐ろしいものに感じられた。
「どうしたんです? 僕は何もしていませんよ?」
 の表情に怯えがあったのを見破って、男は可笑しそうにくすくす笑った。その笑い方も子供のように屈託なく見えるが、同時に何処か壊れているようにも見える。
「あなた、何者なの?」
 さり気なく距離を置きながら、は問いかける。
「僕は瀬田宗次郎です。
 それにしても、あなたも四乃森さんも京都に行く前にお墓参りするなんて、このお墓に入っている人たちは余程大切な人たちなんですねぇ」
「蒼紫のことを知ってるの?!」
 蒼紫の名前を出され、はみっともないほどうろたえてしまった。
 この男は蒼紫のことを知っている。その口ぶりでは直前まで一緒にいたのかもしれない。ということは、これからの彼の行動も知っているのだろうか。
 名前を出しただけで警戒するのも忘れて飛び付かんばかりの様子が可笑しかったのか、宗次郎は声をたてて笑った。
「四乃森さんとは今は別行動をしていますけど、近いうちに合流することになりますよ。僕たちの敵は同じなんですから」
「――――――!!」
 その言葉に、は反射的に戦闘態勢に入った。
 蒼紫と敵を共にする者といえば、志々雄一派しかない。が一人になったところを狙って、始末しに来たのか。私服姿とはいえ、人気のない所への単独行動は迂闊だった。
 緊張を張り巡らせるの姿を見ても宗次郎は危機感が無いのか、相変わらずにこにこしている。
「そんな怖い顔をしないでくださいよ。僕はあなたを誘いに来たんですよ」
「誘い………?」
 の眉が訝るように小さく動いた。
「二人とも親しい間柄のようですから、一緒にいさせてあげたいなあ、って。さんだって、警視庁なんかにいるより、四乃森さんの傍にいたいでしょう?」
「私は―――――」
 宗次郎の言葉に、は何も言えなくなってしまう。
 蒼紫の傍にいられるのなら、何処だって構わない。たとえそれが志々雄の下であったとしても。

 ―――――お前の主は警視庁だ。くれぐれもそのことを忘れるなよ

 突然、斎藤の言葉が思い出された。
 蒼紫と一緒にいることを選べば、斎藤を裏切ることになってしまう。そうなった時、きっと彼はを斬るだろう。
 蒼紫の傍にいたい。そのことで斎藤に斬られることも怖くはない。けれど、斎藤を裏切ることになるのだと思うと、身体が竦んでしまう。
 顔色を失っていくを見て、宗次郎は可笑しそうにくすりと笑う。
「答えは急ぎませんから、ゆっくり考えてください。僕たちは来る者は拒まずですから、いつでも歓迎しますよ」
 最後ににっこり笑って肩を叩くと、宗次郎は踵を返す。
 それが合図のように緊張の糸が切れ、は遠くなっていく宗次郎の後ろ姿を呆然と見送った。
戻る