第十三章  無情の男

 全力で走り続け、神谷道場の前では漸く足を止めた。
 此処に着いてもまだ、胸のざわつきは治まらない。それどころかもっとひどくなって、今にも心臓が張り裂けそうだ。
 今にも破裂しそうな胸に手を当て、は大きく深呼吸をすると道場の門を開いた。
「――――――――っっ?!」
 その瞬間、もの凄い勢いで体中の血液が逆流したかのような衝撃を覚えた。本当に心臓が破裂してしまいそうなほど、胸がどきどきしている。
 このまま、本当に心臓が張り裂けて死んでしまっても良いと思った。が、次の瞬間にはまだ死ねないと思い直す。はこれからずっと、目の前にいる男と一緒に生きていかなくてはならないのだから。
 夢の中のように足許がふわふわしているけれど、これは夢なんかではない。握り締めていた煙草の箱が手からするりと抜け落ちたけれど、それも遠い出来事のようだ。
 煙草を拾いもせず、はふらふらと“彼”に近付く。斎藤と恵が何か言っているようだが、そんなものはには聞こえない。世界は見えない壁の向こうにあって、の前に存在するのは今はもう“彼”だけなのだ。
 はゆっくりと、コートに包まれた“彼”の背中に手を伸ばす。一日だって忘れたことの無い、ずっと捜し求めていた“彼”―――――
「―――――蒼紫」
 こんなところで会えるとは思わなかった。抜刀斎を倒す自信が付いたのか、あの四人が“最強”の称号よりも蒼紫自身の幸せを望んでいたことに気付いたのか。どちらにしても、蒼紫が此処にこうやっていてくれることが、には涙が出るほど嬉しい。
 蒼紫がゆっくりとを振り返る。その顔を見上げてもう一度名前を呼ぼうと、は口を開いた。が、目と目が合った瞬間、の身体が凍りつく。
「あなた、誰………」
 目の前の男は蒼紫の姿をしているが、はこんな男は知らない。こんな死んだように凍りついた目をした男は、が捜し求めていた蒼紫ではない。
 男の目はを見ても何の変化も見せない。否、の姿など見えていないようだ。
 愕然としているに目もくれず、蒼紫は彼女の脇をすり抜けるように門の方へ歩いていく。剣心の行方が判れば此処に用は無いのだろう。
 あまりの蒼紫の変わりように、は引き留めることさえできないまま呆然と立ち尽くす。あれが蒼紫だなんて、信じられない。信じたくない。
 観柳邸で別れて以来、は一瞬だって蒼紫のことを忘れたことは無かった。蒼紫と再会するこの瞬間のためだけに斎藤と手を組み、密偵の仕事をしてきたのだ。それなのに蒼紫はもうのことなど忘れてしまったのだろうか。これからはずっと一緒にいる、と言ってくれたことも。
 ずっと蒼紫との再会を望んでいたけれど、こんな形で果たされるのなら会わなければ良かった。が会いたかったのは御庭番衆を率いていた頃の、誇り高くて誰よりも強い、そして誰よりものことを思ってくれていた蒼紫だったのに。
 門扉が閉められる音がした。このまま蒼紫は剣心を追って京都へ向かうつもりなのだろう。
「待ってっっ!!」
 あんな壊れたままの蒼紫を京都へなんか行かせられない。あのまま剣心と戦ったら、たとえ勝ったとしても元の蒼紫には戻れない。今ならまだ間に合うはずだ。どんなに時間がかかっても、がずっと傍にいて昔の蒼紫に戻してみせる。
 慌てて追いかけるを、斎藤が強い力で自分の方へ引き寄せる。
「追いかけたって無駄だ。今のあいつには抜刀斎しか見えていない。無理に引きとめても泣きを見るだけだぞ」
 蒼紫とは少し言葉を交わしただけだが、それでもあの男がどんな人間か、斎藤には十分解った。今の蒼紫にはを渡せない。がどんなに蒼紫を求めても、あの男がそれに応えることは決してないのだ。そんな男の許へ行かせても、が傷付くのは目に見えている。
 蒼紫と引き離してもが泣いてしまうのは、勿論解っている。自分が彼女に恨まれるだろうということも。けれど、今は泣かれても恨まれても、後になればあれで良かったのだとも思う時が来るはずだ。
 が、は掴まれた腕を乱暴に振り払う。そしてキッと斎藤を睨みつけて、
「うるさい! あんたには関係無いっっ! 大体、あんたがさっさと蒼紫を見付けてくれなかったから、蒼紫もあんな風になっちゃったんだからっっ!!」
 前半部分は兎も角として、後半は言いがかりだ。観柳邸で少し見ただけだが、昔の蒼紫を知らない斎藤の目から見ても、彼の様子はまともな人間のものではなかった。あの時から壊れていたのだから、もっと早くに捜し出していたとしても結果は変わらなかっただろう。
 反論しようと斎藤が口を開きかけると同時に、が金切り声を上げた。
「どうしていつも私の邪魔ばかりするの?! あんたなんか大嫌いっっ!!」
 興奮のせいか潤んだ目で叩きつけるように叫ぶと、はそのまま蒼紫を追って外に走り出した。
 強烈過ぎる一言に、斎藤は引き留めるのも忘れて呆然と立ち尽くしてしまった。“言葉が突き刺さる”という表現があるが、本当に鋭い刃物で串刺しにされたように胸が痛い。
「大嫌い、か………」
 振り払われた手をじっと見て、斎藤は何故か笑うように息を漏らしてしまった。こんな時に笑いが出るとは思わなかったが、案外こういう時は笑うしかないのかもしれない。
 嫌われることは、覚悟していた。理由がどうであれ、好きな男と引き離されるのだから、恨まれないわけがない。けれど面と向って「大嫌い」と言われると、想像していた以上に堪える。
 にもう辛い思いはさせたくないと守ろうとすればするほど、は斎藤から離れていってしまう。理不尽なものだ。愛されたいと思うことはもう許されないが、せめて守りたいと思っていることだけは察して欲しい。好いてくれとは言わないから、嫌わないで欲しいと思うことさえ、今の斎藤にはぜいたくな望みのようだ。
「何ていうか………あんたも大変みたいねぇ………」
 手をじっと見詰めたまま動かない斎藤の背中に、恵が少し同情するように声をかけた。
 斎藤のことは気に食わないし、蒼紫に剣心の居場所を教えたことも腹立たしいが、との遣り取りを見たら可哀想に思えてきたらしい。中年男が若い女に「大嫌い」と叫ばれるというのは、傍から見るとかなり悲惨なものだ。
「別に。慣れてるからな。どうってことはないさ」
 少し振り返ると、斎藤はいつものように皮肉っぽく口元を歪めて応えた。





「待ってよ! 待ってってば!」
 速足で歩いている蒼紫を走って追いかけながら、は必死に呼びとめる。
 人斬り抜刀斎を倒すことで頭が一杯で、のことなどまだ目に入らないというのなら、それでも構わない。たちも近日中には京都に向かうのだから、蒼紫と一緒に行けば良い。今はのことを見てくれなくても、行動を共にしているうちに少しは変わってくれるかもしれないではないか。
 斎藤は「泣きを見る」と言っていたけれど、一緒にいられるのならどんなに泣いてもいい。それくらい覚悟の上だ。優しい言葉をかけてもらえなくても、邪険に扱われても、一緒にいられるだけで今のにとっては幸せなのだ。
 しつこく呼びとめるに観念したのか、蒼紫はぴたりと足を止めた。が、振り返ることは無く、に背を向けたままだ。
 振り向いてもらえなくても、自分の声に反応してくれたことが嬉しくて、は思わず蒼紫の腕に抱きつく。
「やっと会えた………。私ね、蒼紫を捜してもらうために警視庁の密偵になったの。ま、捜してもらう前にこうやって会えたけど。ねぇ、抜刀斎を追いかけるんでしょ? 私、あいつの行き先知ってるし―――――」
「黙れ」
 嬉しさの余り回転式機関砲のように喋り続けるの言葉を、蒼紫の冷たい声が遮った。
「………え?」
 何を言われたのか理解できないように、は笑顔のまま固まる。
 固まったままのの腕を、まるで汚物を振り払うように、蒼紫は自分の腕から乱暴に引き剥がした。唖然としているを、蒼紫の目が冷ややかに見下ろす。
 声も目も、何もかもがを拒否している。触れられることも、声をかけられることさえ厭わしいと思っているようだ。
 すぐに受け入れてはもらえないことくらい予想していた。それでも一緒にいたかった。受け入れてはもらえなくても、傍にいさせてくれるならそれだけで良かった。ただそれだけで良かったのに―――――
「蒼紫………」
 の目から大粒の涙が零れ落ちた。何があっても絶対に泣かないと決めていたのに、涙が止まらない。
 けれど、の涙を見ても、蒼紫は冷たい無表情のままだ。昔だったら優しく涙を拭ってくれただろうに、今の蒼紫の目には何の感情の動きも見えない。
「二度と俺の前に姿を見せるな。目障りだ」
「―――――――!」
 あまりの言葉に、涙も止まってしまった。あんなに優しかった蒼紫の口からこんな言葉が出てくるなんて、信じられない。
 何も考えられなくなって、自分の身体が自分のものであるという感覚まで消えてしまう。意識が遠のき、は足許から崩れるようにその場にへたり込んでしまった。
 蒼紫の足音が遠くなる。それを聞いても、は顔を上げることすらできない。虚ろな目のまま、ただ地面を見詰めていた。





っっ!!」
 道の真ん中に蹲っているの姿を発見して、斎藤が驚きの声を上げた。が、は死んだように反応しない。
 の前に回り込むと、斎藤は片膝をついて彼女の顔を覗き込む。には斎藤など見えていない様子で、壊れたように地面の一点を見詰めたままだ。
 何を言われたのか斎藤には判らないが、手酷く拒絶されたのは間違いない。だからあの時、後を追わぬように引き留めたのに。
 もっと強く、殴ってでも引き留めるべきだったと、今更ながら後悔した。身体の傷はすぐ治るけれど、心の傷はそう簡単には治らない。こうなるくらいだったら、殴って動けなくしておくべきだった。そうすれば斎藤は完全に嫌われるだろうが、の心はここまで傷付かなかったはずだ。
 このままにしていたらがバラバラに壊れてしまいそうで、斎藤は砂の像を抱くようにその身体をそっと抱きしめた。
「あいつのことは忘れろ。俺がずっと傍にいる。俺がお前を守る」
 を抱く腕に少しずつ力を込めて、斎藤は誓うように囁く。
 これまでは、家族があるからとずっと一緒にいることはできないと思っていた。けれど今のを見たら、最愛の家族を失ってでも彼女の傍にいたいと思う。世界の全てを敵に回しても、ずっと傍にいて守り続けたいと思う。
「………うっ………」
 斎藤の体温を感じて漸く現実に引き戻されたのか、彼の言葉が心に沁みたのか、は思い出したように身体を震わせて嗚咽の声を上げる。力無く下げられていた両腕が斎藤の背中に回され、縋るように制服の上着を掴んだ。
 子供のように抱きついて嗚咽するの背中を、斎藤は愛しむように何度も何度も撫で続けた。
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