第十二章 不幸な女
剣心が東京を発ったとが聞いたのは、それから数日後のことだった。剣心が京都に向かったのは斎藤たちの狙い通りの展開だったが、には少し意外だった。彼の京都行きは“緋村剣心”から“人斬り抜刀斎“へ戻るものだ。あの薫が反対しなかったとは思えない。それとも彼女もついて行くことにしたのか。あんな小娘、足手纏いどころか弱点にしかならないのに。
「あの狸娘は置いて行ったぞ。ま、連れて行ったところで守りきれんだろうし、人斬りの自分を見せたくはないだろう。どうやら奴はあの娘に本気だったらしい」
「ふーん………」
どうでもいい世間話のように言って蕎麦を啜る斎藤に、も同じくどうでもいいように鼻を鳴らす。が、これがどうでもいい話題なわけがない。あの薫がと同じように、いきなり好きな男から置いて行かれたのだ。
今まで自分が東京一不幸な女だと思っていたけれど、同じ境遇の女が身近にいるのだと思うと、その不幸も少し和らぐ気がする。しかもその相手の女は、苦労知らずで世間知らずで綺麗ごとばかり口にするような、が最も嫌いな種類の女なのだ。薫の不幸での不幸が軽くなるわけではないけれど、これは良い気分である。
「何にやにやしてるんだ、気持ち悪い」
無関心を装っているつもりだったが、顔がにやけていたらしい。蕎麦を啜る手を止めて、斎藤が不審な顔をした。
「ん〜、一寸ね〜」
顔の緩みをそのままに、は蕎麦の汁を啜る。いくら斎藤相手とはいえ、不幸仲間が出来たのが嬉しいなんて、一寸言えない。
丼を置いて、は出来るだけさりげない風を装って言ってみた。
「ねぇ、帰りに神谷道場に行ってみない? お芝居とはいえ、一時は仲良くしてたんだし、様子が気になるのよねぇ」
「抜刀斎に振られた狸娘を笑いに行くのか? 悪趣味だな」
古い付き合いだけあって、の考えはお見通しだったらしい。斎藤は心底呆れた顔をした。
一瞬言葉に詰まっただったが、気付かれたのなら仕方がない。今更気取るような相手ではなし、理由が分かっているのなら話は早い。
開き直ったように椅子の背に凭れると、は愉しそうにくすくすと笑った。
「当然でしょ。あの苦労知らずのお嬢ちゃんが男に振られてどんな顔してるか、見てやりたいじゃない。今まで誰かに捨てられるなんてことは無かっただろうから、きっと泣いてるでしょうねぇ。あー、カワイソー」
言っているうちに気分が昂ってきたのか、は喉を仰け反らせてけらけら笑った。仲間が出来たのが余程嬉しかったらしい。
嬉しいのは結構なことだと斎藤も思うのだが、食堂の注目の的になっているのは勘弁してもらいたい。人並み外れた長身の斎藤と女警官のは、ただでさえ目立つのだ。
それにしても他人の不幸話でここまで盛り上がれるというのは、人として如何なものか。の根性の悪さは斎藤も解っていたことだが、これはひどい。
「お前、あの狸娘が嫌いなのか?」
「嫌いっていうか〜、ああいう幸せそうな女も不幸になるんだっていうのが嬉しいのよね〜。自分と同じ所に引きずり下ろされてるっていうの? あ〜、私より不幸になってくれると、もっと嬉しいんだけどなあ」
歌うような口調で上機嫌に言っているが、その内容はかなりひどい。斎藤でさえ人間性を疑うほどだ。
の生い立ちがあまり幸せなものではなかったことは、斎藤も何となく知っている。明治に入ってからの生活は知らないが、それなりに苦労しただろうことは想像に難くない。苦労すると人間が出来てくるというが、を見ているとそれは嘘だと斎藤は思う。何事も度を過ぎると良くないということなのだろう。
他人の不幸は蜜の味というけれど、その味に酔い過ぎると碌な目に遭わないものだ。笑い過ぎて、そのままひっくり返って頭を打たなければ良いが、と斎藤は密かに心配した。
今日は早めに上がろうと思っていたのだが、なんだかんだで警視庁を出たのは日没の頃だった。こんな時間にお宅訪問は流石に非常識だと思うのだが(しかも二人は神谷道場にとっては招かれざる客である)、どうしても今日行きたいというの強い希望で、斎藤も付いていくことになってしまった。
それにしても、不幸な女が相手の不幸具合を偵察に行くなんて、本当に悪趣味である。しかも元気付けてやるどころか、自分より不幸であれば嗤ってやるつもりでいるのだから、最悪だ。女というものは恐ろしい。いや、が特別恐ろしいというべきか。斎藤の妻の時尾はそんな陰湿な女ではないのだ。
神谷道場の建物が見えたところで、斎藤がふと足を止めた。
「どうしたの?」
並んで歩いていたが怪訝な顔で見上げる。
「ああ………」
何故足を止めたのか、自分でもよく分からない。おかしな気配を感じたとか、殺気を感じたとか、そういうわけではない。ただ何となく足が止まってしまったのだ。
“虫の知らせ”など斎藤は信じる方ではないのだが、こうやって無意識に足を止めてしまうのは大抵、行った先で悪いことが起こる前兆だ。身に危険が降りかかるというほどではないが、まあ嫌なことがこの先で待っているのかもしれない。
何となくをこのまま連れて行ってはいけない気がして、斎藤は上着のポケットから小銭を出した。
「そういえば煙草を切らしていた。その辺の煙草屋で買ってきてくれ」
「えー? 煙草屋、もう通り過ぎちゃったじゃない。帰りに買えば?」
一番近いと思われる煙草屋は随分前に通り過ぎてしまった。これから戻るとすると、片道で十分ほどかかるだろう。その道のりを使い走りなんて、でなくても怒るというものだ。
「帰りだと店仕舞いしてるだろうが。釣りはやるから、駄菓子屋で何か買ってこい」
「駄菓子屋はもう閉まってるし」
そう言いながらも、は金を受け取って煙草屋へ向かった。
角を曲がっての姿が見えなくなったところで、斎藤は小さく鼻を鳴らす。
「これでよし、と………」
とりあえず時間稼ぎは出来た。あとは神谷道場にあるであろう“嫌な感じ”の原因を速やかに取り除くだけだ。
斎藤は少し急ぎ足で神谷道場に向かった。
門扉に手をかけると、中から微かに男の声が漏れ聞こえた。戸を開けかけた手を止め、斎藤は耳を澄まして中の様子を窺う。
「緋村抜刀斎はどこだ?」
抑揚の無い男の声。左之助とかいうトリ頭の声ではない。緋村剣心を“抜刀斎”と呼ぶというのは、志々雄一派の人間か。それとも―――――
志々雄一派の人間だとすれば厄介だが、そうでないとしたら非常にまずい状況だ。この門の向こうにいるのが“あの男”だとしたら、が此処に着く前に手を打たなくては。
気配を消し、斎藤は門の中に入る。道場の出入り口のところでへたり込んでいる高荷恵の姿が見えた。そして道場の中には、コートを着た長身の男。腰には異様に長い刀を帯びている。
四乃森蒼紫だ、と斎藤はすぐに判った。男の姿は、が何度も繰り返し話していた特徴と合致している。腰に帯びているのは小太刀ではないが、おそらく剣心に敗れて武器を変えたのだろう。
―――――土方さんにね、一寸似てるの。顔も似てるんだけど、雰囲気も少し似てるかな
の楽しげな声が思い出される。確かに顔は少し土方に似ているかもしれないが、彼はあんな死んだような冷たい目をしてはいなかった。の知っている蒼紫は、きっと今とは違う蒼紫だったのだろう。
目の前にいるのは“四乃森蒼紫”ではない。この男をに会わせるわけにはいかない。
嫌な予感の原因はこいつだったのか、と斎藤は自分の勘の良さに感心した。を追い払っておいて良かった。彼女が此処に来る前にこの男を追い出し、何事も無かったようにしなくては。
「抜刀斎なら京都に行ったぜ」
蒼紫と恵が、同時に斎藤を見た。
「お前は………?」
「藤田五郎。ただの警官さ」
蒼紫の表情は殆ど変わらないが、目が警戒している。いきなり見知らぬ警官が現れて、剣心の居場所をあっさりと教えたのだから当然だろう。何か企んでいるのか、それとも嘘を教えているのかと考えているのかもしれない。
この男がそんなに良いのかと、斎藤は蒼紫の様子を観察する。確かに背が高くて見栄えがするし、顔立ちもの好きそうな感じだ。十五歳で御庭番衆御頭になったというから、その強さと統率力にも惹かれたのだろう。他人を寄せ付けない雰囲気だが、本当はとても優しい男だとも言っていた。
他人を寄せ付けないというのは見た通りだが、“優しい”の部分は何処を探しても欠片も見つからない。目の前にいるのは、人間らしい感情が全て欠落したような壊れた男だ。きっと今の蒼紫は、他人どころかさえも寄せ付けないだろう。
今のこの姿を見れば、流石にも目が醒めるのではないかと、斎藤はふと意地悪なことを思いついた。を泣かせたくないと思っていたが、今の蒼紫の姿を見せて一度痛い目に遭わせた方が、何もかもふっ切れて彼女のためになるのではないか。蒼紫に手ひどく突っぱねられれば、も諦めて新しい一歩を踏み出すことができるだろう。
が、斎藤はすぐにその考えを否定した。どんな形であれ、もうを泣かせるような真似はしたくはない。そもそもこんなことを思いついたのは、蒼紫の姿に幻滅すればの目が自分に向けられるのではないかという希望に基づいたものだと斎藤自身が気付いたからだ。
今の斎藤にはの心を求める資格は無い。求めれば、今の蒼紫と同じくらいにを傷つけてしまうことになる。彼女を幸せにできるのは、蒼紫でも斎藤でもなく、彼女の過去を全く知らない男だ。
そこまで考えて、斎藤は心の中で自嘲した。こんな時に一体何を考えているのか。本来なら緊迫した場面であるはずなのに女のことを考えるとは、我ながら暢気なものである。
気を取り直し、斎藤は蒼紫の目を真っ直ぐに見た。
「睨むなよ。せっかくお前が山に籠ってから今までの経緯をおしえてやろうっていうのに」
警戒の色を解かないまま、蒼紫は斎藤の目をじっと見る。目の前の警官が信用に足る男か探っているようだ。
二人の視線が絡んで暫くの沈黙があった後、蒼紫が口を開いた。
「いいだろう。話してみろ」
斎藤と蒼紫が話している頃、は煙草を買って神谷道場に走っていた。歩いて十分ほどの距離だが、全速力で走れば半分の時間で着くはずだ。昔から俊足だけは自慢だった。
自分でもよく分からないが、急いで神谷道場に向かわなければならない気がした。神谷道場で泣き暮らしている薫を見に行くだけなのだから急ぐ必要など何処にも無いのだが、一刻も早く行かなければ大変なことになるような気がしてならない。何がどう“大変”なのかは分からないのだが。
多分、虫の知らせというものなのだろう。こういう勘はよく当たるものだ。は煙草を握り締めて走り続けた。