第十一章  五月十四日 午後

 検死室の扉が開き、白い術服を着たが出てきた。
「どうだった?」
 廊下の壁に凭れて立っていた斎藤が、硬い表情で尋ねる。
「短刀のようなもので一突きにされて、ほぼ即死。その他の傷は死後にやられたものみたい」
「短刀の傷は、志々雄の手の者がやったということか」
「断定はできないけどね」
 結論を急ぐ斎藤に、は苦笑して応えた。
 検死解剖は死因を特定することはできても、それを誰がやったかまでは特定できない。ただ、致命傷の刺し傷に癖があるから、滅多刺しの傷とは別物だろうとだけは推測できる。
 胸の傷は、迷いも無く一直線に心臓を貫いていた。闇雲に刺していた他の傷とは明らかに違う。志々雄に差し向けられた者によるものかは判らないが、暗殺慣れした者による犯行だ。
「そうか………」
 そのまま斎藤は黙って考え込む。
 表情には出さないが、斎藤はかなり焦っているとは思う。大久保暗殺がこんなに早く行われるとは考えていなかったのだろう。
 志々雄の動きが予想外だったのは、剣心も同じのようだ。窓際の木椅子に座ってじっと動かない。俯いているから表情は解らないが、斎藤以上に動揺しているようだ。
 剣心は今日、志々雄暗殺の返事をするために大久保に会う予定だった。その彼に会うための道すがら、暗殺現場に遭遇したのだという。警視庁に運ばれた死体しか見ていないたちとは違い、暗殺の様子が生々しく残る現場で見た剣心の衝撃は如何ばかりかとは思うが、彼が動揺しているのは大久保の死体のせいばかりではない。
 野次馬の中に、どうやら暗殺者がいたというのだ。筵を被せられた大久保の死体を見ていた剣心の背後で、この件に関わるなと忠告する若い男の声を聞いたのだという。振り返った時にはもう姿は無かったらしいが、その青年が志々雄の部下で、大久保暗殺の下手人であることは間違いないだろう。
 死んだように動かない剣心にが語りかける。
「あなたに接触してきた若い男、あなたと同じ“神速”の持ち主ね。暗殺者としての腕前も、もしかしたらあなたと同等―――――」
「死体を視ただけで、そこまで判るのでござるか?!」
 の言葉に、剣心が初めて顔を上げた。
「御者を殺害したのは、斬奸状を送りつけた不平士族で間違いないわ。内務卿を滅多刺しにした刺し傷と似てるからね。そして内務卿の滅多刺しの傷は死後に付けられたもの。つまり、内務卿暗殺の時点では御者は生きていたことになる。となると、内務卿暗殺は走行中の馬車の中で行われたとしか考えられないでしょ? 走っている馬車に忍び込むっていうのも驚異的だけど、御者に気付かれずに暗殺をやってのけるなんて、相当な腕の持ち主よ」
 そこまで一気に説明すると、は驚きで声も出ない二人の顔を見た。死体を解剖しただけで状況を見てきたように喋るのが、不思議でたまらないのだろう。二人とも妖術でも見せられたような顔をしている。
 その顔が可笑しくて、は含むように笑った。
「死人に口無しっていうけど、死体は雄弁なのよ」
 これは新撰組監察方の山崎が言っていた言葉だ。大阪の医者の息子だった彼は医学に通じていて、死体検分の方法をに教えたのも彼だった。
 死んでしまった者を今更調べても意味が無いと言ったに、死因を調べることでその者がどんな人生を歩んできて何のためにどうやって殺されたかが判るのだから決して無駄ではないと、山崎はいつも言っていた。死体は「私はこうやって殺されたのだ」と訴えているのだから、誰かがその声に耳を傾けてやることで死者の無念が晴らされるのだとも。
 そして大久保の死体も、自分は志々雄の手の者によって暗殺されたのだと訴えていた。が検死解剖を申し出なければ、不平士族に襲われたものとして片付けられていたかもしれない。山崎の言っていた通り、がその声に耳を傾けることで大久保の無念は少しは晴れただろうか。
「京都行き、急がんといかんな。おそらくこの調子で志々雄は明治政府の力を削いでいくはずだ」
 独り言のように呟きながら、同意を求めるように斎藤は剣心を横目で見下ろす。が、剣心は再び考え込むように俯いて何も言わない。
 この期に及んでまだ、剣心は迷っているのだろう。今一度人斬りに戻って志々雄を斬るか、それともこのまま“不殺”の流浪人のままでいるか。
 否、そうではない。それも迷っているだろうが、それよりも強い迷いの元は“神谷薫”だとは思う。
 神谷道場に出入りしている時にずっと感じていたが、薫は剣心に恋心を抱いている。そして多分、剣心も同じように薫のことを想っている。相思相愛なのにどうしてくっ付かないのだろうとは不思議に思っていたのだが、そうならなかったのはきっと剣心の中に“人斬り”だったという引け目があったからなのかもしれないと、今になって思う。新時代しか知らぬ薫は、あの幕末の京都を知っているにとっても、眩しいくらいの健やかさと明るさを持っているのだ。
 この国の未来のためとはいえ、今一度人斬りに戻ることを選択したら、もう二度と薫に会うことはできないと思っているのだろう。剣心の中の闇が濃くなれば、それだけ薫の明るさや健やかさは彼にとって辛いものになる。そしてきっと、剣心の持つ闇は薫が受け止めるには重すぎる。
 国の存亡と一人の女を天秤にかけるなんて、と斎藤や蒼紫はきっと嗤うだろう。もそう思うが、好きな男からこの国の未来と同じ価値のある女と思われている薫のことが羨ましい。蒼紫に迷わず切り捨てられた自分と、剣心を思いとどまらせている薫との間にどんな違いがあるのだろうと考えてみるが、には全く解らない。
 要するに、自分は薫ほど愛されていなかったということなのか。そんなはずはないと思いたい。般若たちが生きていた頃は、もう一人にはしないと言ってくれていたではないか。あの時の蒼紫の言葉には嘘は無かった。どこで間違って、こんなことになってしまったのだろう。
「京都にはいつ発つの?」
 これ以上考えていると果てしなく沈んでいってしまいそうで、は斎藤に話しかけた。
「こうなってしまった以上、一刻も早い方が良い。出来れば今夜にでも―――――それで良いな?」
 途中まではに対してだが、最後の言葉は剣心に向けられたものだ。斎藤と一緒に動かなければならないの意思は、完全に無視されているらしい。
 今夜出発とは随分と急だが、事態が急展開してしまった以上、仕方が無い。蒼紫に会えないまま東京を離れなければならないのは心残りだが、今はもう警視庁から給料を貰っている立場なのだから上司の命令には逆らえない。蒼紫が帰って来た時のために手に入れた安定だったが、引き換えに彼を此処で待つことができなくなるとは皮肉なものである。
「少し……考えさせてほしい」
 いつものござる口調とは違う深刻な声で応えると、剣心は席を立ってそのまま出口へと歩いて行った。髪の毛に隠れて表情は窺えなかったが、もしかしたら“人斬り抜刀斎”の顔をしていたかもしれない。
 引きとめもせず黙って剣心の後ろ姿を見送った二人だったが、廊下の突き当たりを曲がって姿が見えなくなったところで、の方から口を開いた。
「まだ迷ってるみたいね」
「なぁに、奴の腹は決まってるさ。神谷の娘との名残を惜しむんだろう」
 今はもういない剣心を冷やかすように喉の奥で低く笑って、斎藤は応えた。
 他人事のようにしているが、斎藤にだって名残を惜しみたい相手はいるはずだ。彼は私生活を全く語らないけれど、妻子がいるらしいとは他の職員から聞いている。多分今夜は早く帰って家族と名残を惜しむのだろうと思うが、にはどうでもいいことだ。
 出来ればだって、東京の最後の夜は大切な人と過ごしたかった。東京を出たら生きて帰れるか判らないのだから、一目で良いから蒼紫に会いたかった。それはもう叶いそうにないけれど。それどころか、二度と蒼紫に会うことも無いかもしれない。
「名残を惜しむ相手がいる人は良いわね」
 冗談めかして言うつもりだったのに、の声は暗く沈んでしまう。本当に心から羨むような声になってしまって、名残を惜しむ相手がいない自分がこの上なく惨めに思えた。
 そのまま黙り込んでしまったを横目で観察しながら、斎藤は煙草に火を点けた。
 が考えていることは、斎藤にも大体解っている。この期に及んでまだ自分を捨てた男のことしか考えていないのかと呆れてしまうが、それだけ一途に蒼紫のことを想っていたということなのだろう。周りが見えなくなるほどの一途な情熱は、少女の頃と変わらないらしい。
 煙草の煙を吐き出すと、斎藤は片手をの頭に置いた。
「名残を惜しむ相手がいないというのも、柵が無くて良いもんだ。そんなに誰かと最後の夜を過ごしたかったら、俺が付き合ってやろうか?」
 後半のからかうような言葉に、は漸く小さく笑った。そして手を払って、
「何言ってるの。奥さんいるくせに」
 怒ったように言うけれど、その表情は笑いを堪えている。
 こんな会話も口説き文句ではなく冗談にしかならないのだと思うと少し淋しくなるが、これでいいのだと斎藤は思う。彼には妻子がいるのだから、これが冗談でなくなったら大変なことだ。
 これからもずっと傍にいるのなら、何処かできちんと線引きしておかなければ誰も彼もが不幸になる。妻子を守り、も守りたいというのなら、この距離が一番なのだろう。
 しかし、そうやって大事に守り続けても、いつかは違う男に引き渡さなければならないのだから、我ながら馬鹿馬鹿しいことをしていると思う。けれど笑うの顔を見ていると、それはそれで悪くは無いとも思ってしまうのだから、困ったものだ。つくづく損な性分をしている、と斎藤は自嘲した。
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