第十章 五月十四日 午前
五月十四日―――――「緋村さん、どうするだろうね?」
執務室の暦に目をやって、が愉快そうに声をかけた。
神谷道場への潜入が終わり、は正式に密偵として警視庁に出入りしている。男物だが制服も支給され、官舎に入居することも出来た。当面は生活の心配は無いと、は正直ほっとしている。蒼紫に再会できた時に生活の基盤が無くては話にならないのだ。
「九割方は受けるだろうな。あの話を聞いて知らん振りを決め込める男じゃない」
煙草に火を点け、斎藤は自信ありげに口許を歪めた。
斎藤の読みは正しいだろうとも思う。これまで観察してきた緋村剣心という男は、自分だけが平和な生活を享受できれば良いと思えるような男ではない。しかも九段の相手は自分の後継者ともいえる人斬り。一面識も無いとはいえ、自分の責任として解決しようとするだろう。
となると、剣心は遅かれ早かれ京都へ向かうことになる。斎藤が京都へ行くことは決定しているが、さて自分はどうしよう。立場上、も斎藤と一緒に行くことになるだろうが、東京を留守にしている間に蒼紫が戻ってきたら困る。彼は志々雄の件を知らないのだから、決着をつけるとしたら神谷道場に向かうはずだ。それならは東京に残っていたい。
「ねぇ、私は此処で留守番してていい?」
「駄目だ」
の言葉を予想していたかのように、斎藤は即答した。
「お前はもう警視庁の密偵だ。組織の一員として動いてもらう」
「でも一緒に行っても足手纏いになるだけだし………」
警視庁の職員として給料と家を与えられているのだから、自由が利かなくなるのはも解っている。どんなことであっても、個人の事情など組織の前では瑣末なことであることも。それでも蒼紫が戻ってくるかもしれないのに東京を留守にするなんて考えられないのだ。
志々雄の件がこれからの日本の行く末を左右するほどの大事件だということは、も勿論理解している。だがそんなことよりも、蒼紫のことの方が何倍も気がかりなのだ。この国が転覆しようが滅びようが、蒼紫が自分の傍にいてくれるならそれで良い。動乱の世の中は幕末の京都で慣れているのだ。
それに、が一緒に行ったところで何の役にも立たないことは目に見えている。志々雄たちの許へ潜入することも無いだろうし、血の臭いで倒れそうになる彼女は邪魔にしかならないだろう。邪魔どころか、志々雄たちはきっとを斎藤の弱点として攻めてくる。そうなるくらいなら東京で留守番をしていた方が斎藤のためにもなると思うのだ。
が、斎藤は取りつく島も無い様子で、
「それでも行くんだ。もう決定しているんだから、がたがた言うな」
が京都で使えないことくらい、斎藤も解っている。東京に残しておいた方が彼女のためになるだろうということも。上からも、女は足手纏いになるから置いて行けと言われているほどなのだ。
それでもを連れて行くことに拘るのは、蒼紫の件があるからだ。斎藤が留守にしている間にと蒼紫が接触することがあれば、面倒なことになるのは確実。は蒼紫を恋しく思っているようだが、恐らく蒼紫の方はの相手をするどころではないだろう。二人がもし再会しても、剣心との再戦で頭が一杯になっている蒼紫はきっとを拒絶する。
この前、剣心と戦った後、血だらけの斎藤を心配して駆け寄ってきたの手を乱暴に払ってしまったことがあった。戦いの後で気が立っていたからついやってしまったのだが、あの時のは傷ついたような悲しそうな目をしていた。あれだけのことで、しかも相手が斎藤でもあんなに悲しそうな顔をしていたのだから、蒼紫がそうしたらどうなるか分かったものではない。
志々雄との戦いに連れて行くのはに取って辛いものかもしれないが、それでも蒼紫に会って傷付くよりは良いだろう。どんなに嫌がっても、首に縄を付けてでも、斎藤はを京都へ連れて行くつもりだ。
斎藤の強硬な態度に、どんなに話し合っても無駄らしいとは小さく溜め息をついた。
約束通り斎藤の仕事に協力しているのに、どうして彼が自分に協力してくれないのか、には全く解らない。相変わらず蒼紫を捜している様子も無いし、が蒼紫を見付けようとすることも良く思っていないような節がある。昔の斎藤はとの約束は絶対に守ってくれていたのに、どうしてこんな人間になってしまったのだろう。
「もういいよ、斎藤さんには頼まない!」
吐き捨てるようにそう言うと、は席を蹴って執務室を出て行った。
乱暴に閉められた扉の音に、斎藤は思わず肩を竦める。それから可笑しそうに苦笑して、煙草を揉み消した。
「“斎藤さんには頼まない”、か………」
京都にいた頃も、は怒るとよくそう言っていた。まるで、そう言えば斎藤が困ってしまうと思っているかのように。どうしたらそう思えるのか解らないが、斎藤はの願いを聞きたくて仕方がないのだと思い込んでいるようだった。当時は子供じみた自惚れだと思って聞き流していたが、今になってもそう思っていたとは驚きだ。
だが、に頼られるのは今でも嬉しい。彼女が斎藤に近付くのは、今も昔も頼みごとがある時だけなのだ。の願いを叶えてやることでしか彼女を繋ぎとめることが出来ないのだから、何も頼まれなくなったら確かに斎藤は困る。
結局の思惑通りか、と斎藤は自嘲した。自分にはもう妻も子もいるというのに、それでもを自分の許に繋ぎとめておきたいと思うのは、幕末の頃の未練なのだろう。
土方のためだけに働き、その歳の少女には考えられないほどの傷を心と身体に負ったを守りたくても守れなかったことを、まだ引きずっているのだろう。自分の手許に置いておけばきっと幸せにすることができると思っていたあの頃の思いを、今になって実行しようとしているのだと思う。
「今更、やり直しはきかんのだがなあ………」
自分の中の女々しい思いを嘲笑うように、斎藤は呟いた。
たとえを手許に置いておくことが出来たとしても、今の斎藤には彼女を幸せにすることはできない。妻子を捨てるわけにはいかないし、捨てる気も無い。いつかは手放さなければならない存在だけれど、どうせ手放さなければならないのなら、が幸せになるという確信を得てから手放したい。それが、幕末の頃の自分への責任だ。
だからに恨まれることになっても、四乃森蒼紫がどんな男かこの目で確かめるまでは絶対に会わせられない。どんなに嫌がっても、泣いても怒っても京都に連れて行こうと、斎藤は改めて思った。
いつもの蕎麦屋に昼食を食べに行こうとしていると、受付の前の長椅子にしょんぼりと座っているの姿が見えた。あの様子だと、さらに上の上司に東京残留を頼みこんで断られまくったのだろう。上司たちには、を連れて行けないのなら自分も京都にはいかないと脅しをかけておいたのだから、当然だ。
「よう、昼飯食いに行くか?」
斎藤に声を掛けられて、斎藤はびくっと顔を上げた。
気まずそうにしているに、斎藤は何も気付いていない様子で言葉を続ける。
「蕎麦だったら奢ってやるぞ。行くか?」
まだ気まずそうに斎藤の顔を見ているだったが、彼がさっきのことにこだわっていないことを察すると小さく頷いて立ち上がった。
そうやって二人が蕎麦屋に向かっていたその頃―――――
内務卿・大久保利通を乗せいていた馬車は紀尾井坂を走っていた。
<今日の会議は長引くな。内務省の仕事も滞っているし………。緋村の所に行くのは、日が暮れてからになるか>
いつもの癖で、大久保は目を閉じて考える。毎日が多忙でゆっくりと何かを考える暇も無い彼にとって、移動の時間は思索のための貴重な時間でもある。
緋村は動くだろうか、と大久保は考える。先日話した時の様子では、周りに引きとめられて迷っているようだった。確かに十年も“不殺”の流浪人として生きてきた彼に再び人斬りに戻れというのは、無理な注文なのかもしれない。しかし―――――
「緋村が動かねば、この国は滅びる」
その時、馬車に何かが乗ったような音がした。同時に馬車の扉が開き、少女のような線の細い青年が現れた。
馬車はそれなりの速度で走っているのに、人間が追い付き、あまつさえ飛び乗るなどあり得ない。しかも青年は息一つ乱してはいないのだ。
人ではないものを見るように驚愕した顔で言葉も出ない大久保に、青年はにっこりと少女のような笑顔を見せる。
「この国の行く末なんて、今から死ぬ人には無用な心配ですよ」
そう言いながら、青年は片手で大久保の口を塞いだ。どうやったらその細い腕からそんな力が出るのかという強さで、そのまま抵抗できないように押さえ込む。
「志々雄さんからの伝言です」
青年の口から出たその名に、大久保の顔から血の気が引く。
「『緋村抜刀斎を刺客に差し向けるようとはなかなか考えたものだが、所詮はムダな悪あがき。この国は俺がいただく』だそうです」
そう言いながら、青年は腰に差していた短刀を抜いた。
「号外! 号外!」
蕎麦屋の帰り、新聞屋が号外をばら撒いているのに出くわした。こんなに派手にばら撒くなんて珍しいことである。
新聞屋から号外を受け取って何となく斜め読みしていたの顔が、すぐに強張った。
「………斎藤さん」
「ああ………」
斜め上から覗き込んでいた斎藤の表情も険しくなる。
その号外に書かれていたのは、『内務卿暗殺』の記事。通勤途中、紀尾井坂で不平士族に襲われたのだという。
「これ、どう思う?」
答えは一つしかないが、確認するようには尋ねる。
不平士族からの斬奸状が新聞社に送られていたと記事には書いてあるが、この件に志々雄一派が関わっていることは間違い無いだろう。でなければ、この時期に大久保卿暗殺など間が良すぎる。
ということは、志々雄一派にこちら側の情報が漏れているということか。向こうはどこまでこちらの動きを把握しているのだろう。次は誰が狙われるのか。
今頃、内務省は勿論、各省庁は大変な騒ぎだろう。報復を恐れ、志々雄征伐そのものが立ち消えになるかもしれない。
「帰るぞ」
の質問には答えず、斎藤は険しい顔で足早に歩き始めた。