第九章  暴露

「ちょっとぉっっ!! もっと飛ばせないのっっ?!」
 全速力で走る馬車から身を乗り出して、は御者を怒鳴りつけた。御者も馬に鞭打って限界まで走らせているのは解っているけれど、それでもひどく遅く感じられる。
 辺りはもう暗くなりつつある。剣心はもう赤松を片付けて、神谷道場に戻っているかもしれない。剣心と斎藤がもう会っていたとしたら―――――
「急いでよっっ!! 間に合わなかったらどうしてくれるのよっっ!!」
 剣心が“人斬り抜刀斎”に戻ったら、斎藤も力量を試すだけでは済まないだろう。任務を忘れて、幕末の決着を着けようとするに違いない。あの二人があの頃のように本気でやりあったら、どちらも無事では済まない。何としてでも二人が無事なうちに神谷道場に着かなくては。
 斎藤が傷付いたり死んだりするのは、絶対に嫌だ。剣心に死なれるのも困る。あの男は蒼紫を捜し出す唯一の手掛かりなのだから。蒼紫を見付けるまでは、剣心には何が何でも生きていてもらわなくては困る。
 金切り声を上げるの帯を、隣に座っている川路大警視が力一杯引っ張った。その勢いで、は座席に思い切り尻もちをつく。
「いたっ………!」
「大久保卿の御前だぞっ。見苦しい!」
 抑えた声で、川路が低く叱りつける。
 本来なら、警視庁の正式採用でもない、斎藤が何処からともなく拾って来た密偵風情が同乗できるものではないのだ。普通なら恐縮して、借りてきた猫のように大人しくしていそうなものだが、には全くその様子が無い。これだから教育の無い人間は駄目なのだと、川路は小さく舌打ちした。
 けれどはそんなことは気にしていない様子で、不機嫌を露わにして座っている。今のには、内務大臣の大久保も警視総監の川路も全く目に入ってはいないのだ。
 向かいに座る大久保も目を閉じて、何かを考えているらしい。そうやって長いこと瞑想しているようだったが、ふと目を開いた。
「斎藤君が神谷道場とやらに入って、そろそろどれくらいになる?」
「大体……四時間と半ですな」
 懐中時計を開いて、川路が事務的に答えた。
 四時間半―――――その時間の経過に、と大久保は同時に小さく息を吐いた。それぞれ思うことは全く違うが、二人の心が既に神谷道場にあることは明らかだ。
 四時間半も経っていれば、剣心も神谷道場に戻っているだろう。そうなれば二人が無傷でいるはずがない。いくら力量を試すだけとはいえ、剣心は何も知らないのだから本気でかかってくるはずだ。“緋村剣心”の本気でもあの蒼紫が倒されたくらいだから、斎藤だって重傷を負わされているかもしれない。斎藤はああ見えて戦いの最中にキレて抑えが利かないことが何度もあったし、それに触発されて剣心の中の“緋村抜刀斎”が目覚めたら―――――
 膝の上で組んでいた指が冷えて、小刻みに震える。二人の戦いを目の当たりにしたらあの発作を起こすからと、斎藤はを神谷道場から追い出したけれど、見えないからこそ不安になるということもある。斎藤は無事だろうか、二人はまだ生きているだろうかとそればかり考えて、気を張っていないと頭から血の気が引いて倒れそうになる。
 こんなところで倒れるわけにはいかない。斎藤の無事を確認するまでは、そして勝負の行方を見届けるまでは絶対に倒れられない。気持ちを落ち着けるようにはゆっくりと深呼吸をし、組んでいる指を固くした。
「そうか………。手遅れになるかもしれんな。あと十分で到着するよう、馬車を急がせてくれ」
 厚化粧の上からも顔が蒼白になっているのが判るをちらりと見て、大久保は静かに命じた。





 神谷道場に着いたのは、それから更に三十分近く過ぎた後だった。斎藤が道場に入って、合計五時間が過ぎていた。
 馬車が止まるか止まらないかのうちに扉を開けると、は誰よりも先に道場に走った。
 道場からは、悲鳴のような薫の声が聞こえる。二人の勝負はまだ付いていないらしい。
「斎藤さんっ!!」
 開け放たれた道場の入り口から見えたのは、刀を持たずに血まみれで睨み合っている斎藤と剣心の姿。二人とも目つきが尋常ではない。新撰組三番隊組長と幕末の人斬りの目だ。
「斎藤さん! もういいよ! これで十分でしょう?!」
 悲痛な声を上げるを、薫が驚いた目で見た。が、はそんな目には気付かずに言葉を続ける。
「あんたの仕事は抜刀斎を殺すことじゃないでしょ?! 緋村さんも正気に戻って!!」
 その声に、初めて斎藤と剣心がを見た。
 が、正気に戻ったと思ったのも束の間、斎藤は冷たく言い放つ。
「黙れ」
 その声は今まで聞いたことの無い冷たさで、はそのまま心まで凍りついてしまった。
 今の斎藤には、の姿は見えてはいない。観柳邸で別れた蒼紫と同じように。
 あの夜の観柳邸での出来事が目の前に蘇ってきた。雑木林のざわめきも、少しひやりとする夜風も、今まさにそこにいるかのような臨場感で蘇ってくる。そして、あの時の蒼紫の幽鬼のような無表情―――――最後に見たあの冷たい目と見つめ合って、の視界がぐるぐると回る。
 此処は観柳邸じゃない。目の前にいるのは蒼紫じゃない。
 世界が自分を置いて高速で回っているような感覚に襲われながら、は自分に必死に言い聞かせる。此処は観柳邸の裏の雑木林ではなく、目の前にいるのは蒼紫ではない。此処は神谷道場で、目の前で戦っているのは斎藤と剣心だ。
 何度もそう言い聞かせているうちに、目の前の風景は元通り神谷道場に戻った。蒼紫の姿も消え、血まみれの斎藤と剣心が睨み合っている。目が回るような感覚もゆっくりと平常に戻っていき、どうやらの身体も元に戻ることが出来たらしい。
 それでもまだ、身体が前後左右に小さく揺れているのが自分でも判る。気を抜いたらそのまま足許から崩れそうで、は必死に足を踏ん張った。斎藤が目の前で戦っているのに、薫のようにみっともなくへたり込んでいるわけにはいかない。もまた、幕末の京都を生きた人間なのだ。しっかりと目を見開いて、この勝負を見届けなければ。
「そろそろ……終わりにするか」
 不敵に口の端を吊り上げ、斎藤が指を鳴らした。剣心も刀のように鞘を構える。
「………そうだな」
 次の一撃が最後になるだろう。二人とも刀は無いが、次の一撃できっとどちらかが―――――
 へたり込んでいたはずの薫が突然走り出す。剣心を止めようと手を伸ばすが、その指先が触れる前に剣心が走り出した。
 二人が同時にたがいに向かって突進する。
 もう二人を止められない。止められないなら、せめて最後まで勝負を見届けるのがに与えられた義務だ。だから瞬きもせずには二人の姿を見詰める。
「いやああああ!!!」
「やめんか!!」
 薫の悲鳴に川路の怒声が重なった。空気を打ち破るようなその声に、斎藤と剣心は現実に立ち戻ったかのように動きを止める。
「正気に戻れ、斎藤!! 抜刀斎の力量を測るのがお前の任務だったはずだろう!!」
 斎藤が、ゆっくりと川路を見た。
 上司の言葉でやっと自分の任務を思い出したかと思ったのも束の間、斎藤は不敵に口許を歪めて、
「今いいところなんだよ。警視総監あんたといえども、邪魔は承知しないぜ」
 ここまできて、今更退けないのはも解っている。敵前逃亡は士道不覚悟。明治政府に奉職する警官ではなく、未だに新選組の斎藤には、たとえ警視総監の命令でも退くことは許されないのだ。
 と、の後ろで床が軋む音がした。ゆっくりとした足取りで、その男が道場に入ってくる。
「君の新選組としての誇りの高さは、私も十分に知っている。だが、私は君にも緋村にも、こんなところで無駄死にして欲しくないんだ」 
 道場内の緊迫した空気にそぐわないその落ち着いた低い声に、全員が一斉に声の主を見た。
 “人斬り抜刀斎“の目のまま、剣心も男を睨みつける。
「そうか。斎藤一の真の黒幕はあんたか………。元薩摩藩維新志士。明治政府内務卿、大久保利通」
 薫たちの驚愕の目が大久保に集中する。当然だ。国政を仕切る内務省の長、事実上のこの国の最高権力者がこんな寂れた道場に現れるなんて、常識ではありえない。
 薫たちに視線にも、まだ殺気の漲る“人斬り抜刀斎”の目にも臆する様子を見せず、大久保は穏やかな声で剣心だけを見て言った。
「手荒な真似をして済まなかった。だが、我々にはどうしても君の力量を知る必要があった。話を、聞いてくれるな」
「ああ……力ずくでもな」
 戦いが中断されても、剣心はまだ“人斬り抜刀斎“から戻ることが出来ないらしい。それほど斎藤との戦いは壮絶だったということか。
 けれど斎藤の方は、邪魔が入って一気に頭が冷めてしまったらしい。つまらなそうに鼻を鳴らすと、床に落ちていた上着を拾い上げて出口の方へ歩いていく。
「斎藤さん!」
 漸く凍りついていた身体が動いて、は慌てて斎藤に駆け寄った。
「こんなに血が出てる。早く病院に行かなきゃ」
「うるさい」
 泣きそうな顔をして手拭いで血を拭おうとするの手を、斎藤は乱暴に払った。興醒めはしても、まだ戦いの余韻は残っているらしい。
 いつもとは別人のような斎藤の様子に呆然としたまま見送ってしまっただったが、慌ててその後を追う。斎藤が帰るなら、もう此処には用は無い。
 が、走り出したの腕を、後ろから強い力で掴まれた。
「待てよ。どういうことか説明してもらおうか」
 ぎりぎりとの腕を握り締め、左之助が病み上がりとは思えない気迫のこもった目で見下ろしていた。さっきまでは恵に支えられていたくせにこんな力を出せるなんて、流石は打たれ強さを自慢するだけあって驚異の回復力だ。
 しかし今は左之助の相手をしている場合ではない。は鬱陶しげに腕を掴む手を振り払った。そして、居直るような冷ややかな目で、
「説明も何も、見たまんまよ」
「てめえ、最初からあいつとグルだったのかよ?! あいつに命令されて、最初から俺たちをハメるつもりで近付いたのか?!」
「グル? ああ、手を組んだのは事実よ」
 今にも飛びかかりそうな勢いの弥彦に、は小馬鹿にするようにくすっと笑った。どうやら彼らは、のことを斎藤の部下だと思い込んでいるらしい。ここまで近付いているというのに、まだ気付かないのか。
 ここまで気付かれないと、可笑しくて可笑しくてたまらない。自分を睨みつけている左之助たちの顔がどうしようもない間抜け面に見えて、笑いがこみあげてくる。
「まだ気付かないんだ?」
 くすくす笑いながら可笑しそうに言うと、は持っていた手拭いで顔を拭き始めた。本当は濡らした手拭いの方が良いのだが、これでも化粧は落とせる。
 目を縁取る線と口紅、そして口許の黒子を拭き取り、簪を抜いて結い上げていた髪を解いた。もつれた髪に手櫛を入れて、完全に素の状態に戻ったその顔は―――――
「………メイドさん」
 恵が大きく眼を見開いて呟いた。
 垂れ目がちの大きな目とぽってりとした唇が特徴だった婀娜っぽい顔が、一瞬にして切れ長の目の凛とした少女のような顔になったのだから、手品でも見せられた気分だろう。しかも出てきたのは、以前見知った観柳邸のメイドの顔である。
 面識のある弥彦も左之助も、そして流石に剣心も驚いた顔でを見た。いくら女は化粧で変わるとはいえ、ここまで別人に変わるなんて信じられないといった様子だ。
 それぞれの驚いた顔を満足そうにぐるりと見回すと、はにぃっと唇の両端を左右に引っ張った。心のどこかが壊れたようなその笑いに、事情を全く知らない薫さえもぞっとしたように顔を強張らせる。
「此処に来たのは斎藤さんの仕事の手伝いもあるけど、もしかしたら蒼紫に会えるかもしれないと思ったからよ。斎藤さん、蒼紫を捜してくれるって言ったのに、全然捜してくれないんだもの。それに―――――」
 張り付いたような笑顔のまま、は剣心を真っ直ぐに見た。
「姿を変えて何度もあなたの前に現れると、前に約束したでしょう?」
 言葉も出ない剣心に、はくすくすと可笑しそうに笑う。そして唖然としている一同を尻目に、斎藤の後を追って走った。
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