第八章  蠢動

 あれから三日経っても、左之助の意識は回復していない。恵の話によると、重要な器官には損傷は無いそうだが、状態は思いのほか悪いようだ。明治の喧嘩屋も、幕末の京都を生き抜いた斎藤の前では赤子同然だったということか。
 左之助の容態などどうでもいいが、いつ斎藤が乗り込んできても良いように、は『赤べこ』が閉店した後は毎日神谷道場に通っている。薫も恵も左之助の看病で大変だから家事を全部引き受けると言ったら、あっさり此処に寝泊りすることを許してくれた。神谷薫という少女は他人を疑うことを知らないらしい。こんなのでこれからの人生大丈夫なのだろうかと、が心配するほどだ。
 というわけで、今日もいつものようにが神谷道場に帰って来ると、門のところで剣心に出くわした。
「あら、緋村さん。お出かけですか?」
 深刻な表情で出て行こうとする剣心に、が暢気な声で話しかけた。
 それまでの存在に気付いていなかったのか、剣心ははっとしたような顔をして、慌てていつもの笑顔を作る。
「ああ、殿。おかえりでござる。ちと用事で出かけるのでござるが、遅くなりそうなので拙者の夕飯はいらぬでござるよ」
「あら、そうですか。左之助さんがあんなことになったばかりなのに、男の方がいないのは不安だわ」
 ちっともそんなことは思っていないくせに、は心の底から不安そうに表情を曇らせる。
 多分、剣心は斎藤の呼び出しに応じて出て行くのだろう。斎藤は此処で勝負を着けると言っていたはずなのに、一体どうしたのだろうとは不審に思う。
「薫殿と弥彦がいるから大丈夫でござろう。けれど戸締りはしっかりとしておくでござるよ」
 を安心させるように微笑むと、剣心はそのまま門を出て行った。
 遠ざかっていく剣心の後ろ姿を見ながら、は口元に冷笑を浮かべる。
「あの二人じゃ、何の役にも立たないんだけどなあ」
 道場主とはいえ、実戦を経験したことの無い竹刀剣術のお嬢ちゃんと、気迫だけは一人前の子供では、斎藤を相手に三分ももたないだろう。もしかしたら斎藤は、剣心を外に呼び出して、その隙に神谷道場の人間を人質に取るつもりなのだろうか。女二人に子供一人なら、斎藤一人でも簡単に大人しくさせることはできる。
 人質を取るなんて斎藤にしては卑怯なやり方だが、剣心を抜刀斎に戻す手段を選んでいる時間は無いのだろう。聞いた話では、志々雄一派の動きは最近になって特に活発になっているという。警察としても一日も早く制圧に乗り出したいところだろう。
 斎藤の調査資料によると、鵜堂刃衛の事件で薫を人質に取られた時、剣心は“人斬り抜刀斎”に戻りかけたという。結局緋村剣心のまま刃衛を倒すことが出来たようだが、今回はどうなるだろう。大切な友人を半死半生にされ、その上薫たちを人質に取られたとなったら、“不殺”の誓いを守り続けるのは難しいはずだ。しかも相手は斎藤である。“不殺”なんて生温いことを言っていては勝ち目は無い。
 剣心が“人斬り抜刀斎”に戻ったら―――――無意識のうちに胸の辺りで握りしめられた手が冷えていくのを感じた。
 剣心を“人斬り抜刀斎”に戻して、その実力を測るのが斎藤の仕事だ。けれど剣心が“人斬り抜刀斎”に戻ったら、斎藤もまた新撰組三番隊組長に戻ってしまうだろう。そうなったらきっと、任務を忘れてあの頃の死闘を繰り広げることになるに決まっている。
 斎藤と抜刀斎が戦ったとして、斎藤が敗れるとは思わない。けれどどんな終わり方をするにしても、無事でいられるとも思えない。剣心がどうなろうとの知ったことではないが、斎藤が手ひどい傷を負うのは困る。彼が動けなくなったら、蒼紫を捜してもらえなくなってしまうではないか。蒼紫のことを抜きにしても、もうこれ以上自分の周りの人間が傷付くのを見たくはない。
 二人の対決が避けられないものとしても、“あの頃”のような戦いを避ける方法はないだろうか。あの二人を止めることのできる人間は―――――
「お、、帰ってたのかよ」
 弥彦の声に、ははっとした。
「ええ、たった今」
「剣心知らねぇか? 薫が豆腐買ってこいってさ」
 小鍋をぶんぶん振り回しながら弥彦が尋ねる。どうやら剣心は誰にも何も言わずに出て行ったらしい。
「緋村さんなら用事があるからって、さっき出かけたけど。帰りは遅くなるって。ところで左之助さんはどんな感じ?」
「相変わらずだぜ。恵がずっと付いてるけど、目を醒ます気配も無ぇや」
「そう」
 三日も飲まず食わずで眠り続けていたら、それだけで衰弱するだろう。ずっと付き添っている恵の疲労も頂点に達しているはずだ。疲れているのは恵だけではない。口には出さないが、薫も弥彦も突然の襲撃に緊張を強いられ続けているのだ
「本当に、誰があんなひどいことをやったのかしら。今も犯人がうろついていたら怖いわ」
 白々しく怯えた様子を見せて、は母屋に向かった。





 左之助が寝ている部屋を覗いてみたが、弥彦の言う通り特に変わった様子は無いようである。
「変化無いようですね」
 傍に付いている恵に、がそっと話しかけた。
「ほんと、いい加減に起きてもらわないと困るのよねぇ。私もそろそろ帰りたいのに」
 うんざりとした口調で恵は応えるが、それは強がりなのだろうとは思う。泊まり込みも四日目に突入すればうんざりするのも本音だろうが、いつまでも目を醒まさないのは心配なのだろう。泊まり込みで看病など、医者の卵という立場だけでできるものではない。
 口ではきついことも言うけれど、恵は確実に隆生のような医師への道を歩み始めている。今はまだ親しい人間しか相手にしていないけれど、一人前の医者になればきっと、相手の身分にかかわらず最善の治療を施してくれた父親のような立派な医者になることだろう。
 一人前になった時、恵が何処で診療所を開くのか分からないが、いつか故郷の会津に戻って欲しいとは思う。御一新の頃のこともあって、会津は未だに政府に冷遇されているという。医療機関もそう多くないだろう。そんな場所にこそ、かつての高荷隆生のような医者が必要だ。
 娘が自分と同じ医者の道を歩むことを、隆生はきっと喜んでくれるだろう。も、恵が隆生のような医者になってくれたら嬉しい。会津にいた頃は与えてもらうだけで返すことは何も出来なかったけれど、今の恵の姿を見れば少しは恩を返すことが出来たのではないかと思う。
「どうしたの?」
 無意識のうちに恵を凝視していたのだろう。怪訝な顔でを見た。
「あ、いえ………」
「いやねぇ。こんな人置いて帰れるわけないじゃない。ちゃんと目を醒ますまでいるわよ」
 どうやら、左之助を放ったらかしで帰るのではないかとが心配していると思ったらしい。恵は可笑しそうに笑った。
 こんなに近くにいても、恵はまだの正体に気付いていないようだ。ここまで気付かないのもどうかと思うと同時に、恩人の娘を騙し続けていることには少しばかり胸が痛む。今のは、左之助を襲った側の人間。恵の敵になる人間なのだ。
 観柳邸にいた時も、恵を逃がしたとはいえ、彼女の敵に付いている立場だった。恩人の娘であるはずなのに、はいつでも恵の敵に回ってしまう。今回のことも、全てを知れば恵はを憎むようになるかもしれない。たとえそうなるとしても、は斎藤が道場に乗り込んだ時は恵だけは守りたいと思っている。
「そうですね。ありがとうございます。あ、そうだ。夕飯なんですけど―――――」
「ごめんください」
 微笑みながら言うの言葉に、外からの男の声が重なった。その声に彼女の顔がさっと強張る。ついにあの男が来たのだ。
 走って出て行きたいのを必死に堪えて、はゆっくりと立ち上がる。
「お客さんみたいですね。一寸見てきます」





 道場に入ると、すでに斎藤が床の間に向かって正座をしていた。何を考えているのか、刀を鞘から少しだけ抜いてじっと見詰めている。
「抜刀斎、暫く帰らないわよ」
 斎藤の背後に立って、が低い声で言った。
 かちり、と刀を鞘に収め、斎藤は世ゆっくり振り返る。
「ああ。今頃、赤松が相手をしてるだろうさ」
「赤松?」
「政治家御用達の暗殺者だ。刃衛の後釜だとさ」
「ああ」
 そういえば、最近斎藤が接触している渋海とかいう政治家は、大物政治家からの暗殺の依頼を一手に引き受けていると聞いている。赤松というのはその渋海が雇っている暗殺者で、剣心と勝負するように斎藤が巧くけしかけたのだろう。
 赤松というのがどの程度の暗殺者なのか判らないが、そいつと剣心が戦っている間に薫たちを人質に取るという作戦なのか。あるいは、赤松との勝負で剣心の消耗を狙っているのか。
 どちらにしても、昔の斎藤からは考えられないほど卑怯な作戦だ。が知っている幕末の頃の斎藤は、暗殺の時でさえ正々堂々と真正面から斬りかかっていた。人質を取ったり、相手が消耗したところを狙うような男ではなかった。
「そいつを咬ませ犬にして、人質を取るつもり?」
 硬い表情で、が尋ねる。責めるような目の彼女に、斎藤は可笑しそうに喉の奥で低く笑って、
「あいつは咬ませ犬にもならん。此処に来たのは、奴の甘さを思い知らせてやるためだ。人質なんぞ無くても、俺の手で“人斬り抜刀斎“に戻してやる。俺は刃衛とは違うからな」
「ふーん………」
 気の無い声を出しながらも、は満足そうに口の端を吊り上げた。やはり斎藤はそうでなければいけない。
 は表情を和らげると、斎藤の横にぺたりと座った。
「そういえばあのトリ頭、まだ意識が戻らないみたいよ。このまま抜刀斎が戻るまで眠っててくれると良いんだけどね。あんたの顔見て騒がれたら面倒だし。いくらトリ頭が打たれ強いからって、あんな体でまた牙突くらったら、今度はきっと死んじゃうわ。そんなことになったら、此処の連中だって大人しく―――――」
「お前が緊張してどうする」
 間断なく喋り続けるに、斎藤は喉の奥を震わせるように笑って言う。
 がこうやって何かに追い立てられるように喋り続けている時は大抵、何かに不安を感じてそれを紛らわそうとしている時だ。どうでもいいことを喋り続けることで、目の前の問題を深く考えないようにしているのだろう。
 図星をさされて、は顔を赤くして口を噤む。
 斎藤が負けるなんて思っていない。たとえ剣心が抜刀斎に戻ったとしても斎藤が倒されることはないと思ってはいるけれど、やはり心のどこかで言いようの無い不安が燻っているのは事実だ。物事に“絶対”は無いし、勝負の途中で何が起こるか分からない。誰かに倒されることなど想像もできなかった蒼紫も剣心に敗れ、鬼と恐れられた土方もの目の前で死んでしまったのだ。斎藤だってどうなるか分からない。
 俯いて膝の上でぎゅっと握り締められているの拳に、斎藤がそっと手を重ねる。そして、これ以上望めないほど優しい声で、
「俺は誰にも殺されんし、誰にも負けん。お前を置いて何処かへ消えることも無いから、安心しろ」
「………別に私は………」
 あんたのことなんか心配してない、と言おうとしたが、声が震えてしまう。それが泣いている声に聞こえるのではないかと思うと気が気でなくて、はまた黙ってしまった。
 意地を張るように俯いたまま唇を噛むの顔がまるで子供のようで、斎藤は危うく笑いそうになってしまった。緩んでしまいそうな口許をさり気なく片手で押さえて笑いを堪えると、今度は事務的な声で言った。
「今から警視庁に戻って、神谷道場に入ったと川路大警視に伝えてこい」
「………え?」
 斎藤の言葉に、は驚いたように顔を上げた。此処で斎藤と剣心の勝負を見届けるつもりでいたのに、今から警視庁に戻れだなんて。
 今から警視庁に戻って川路大警視に報告したとして、どんなに急いで戻っても神谷道場に戻るのは夜になってしまうだろう。そうなったらが勝負を見届けるのは難しい。
 断ろうと口を開きかけたを視線で制し、斎藤は有無を言わせぬ口調で言う。
「此処にいて、お前に倒れられたら勝負に集中できないからな」
「………………」
 斎藤の言葉は、悔しいけれどその通りかもしれない。今でさえもこんなに緊張しているのだから、いざ斎藤と剣心の対決が始まったら、きっと平静ではいられない。
 斎藤を残して出て行くのは心残りだけれど、仕方がない。承諾の返事をしようと口を開きかけた時、道場の出入り口が開いた。
「なんだ、。此処にいたのか。夕飯の準備をするって、薫が捜してたぜ」
 弥彦の登場に、二人とも瞬時に手を引っ込めた。
 が、二人の雰囲気に子供なりに察するところがあったらしい。二人に近付きながら、呆れた目をに向ける。
「お前、剣心に色目使って次は雷十太かと思ったら、今度は剣客警官かよ。刀差してたら誰でも良いんだな」
「誰でも良いわけじゃないわ。強い人じゃなきゃ。私、強い人が好きだって、前にも言ったでしょ」
 さっきまでの不安も、突然弥彦が現れた動揺も微塵も見せず、は余裕の表情で艶然と微笑む。神谷道場の面々の前では、完璧な女優だ。
「じゃあ、強けりゃ誰でも良いのかよ。軽い女」
「あら、そう見える?」
 非難するような弥彦の声に、は心外だとばかりに大きく目を見開いた。そしてゆっくりと立ち上がると、唇を左右に引っ張るように笑って、
「私、結構一途な女なのよ」
 今まで見たことも無いようなの冷ややかな笑みに、弥彦は驚いた顔で見上げる。その別人のような笑い顔は以前何処かで見たような気がしたが、何処で見たのか思い出せない。
 唖然としたまま固まっている弥彦に、は再びいつもの柔らかな微笑を作ってみせる。
「足りないものを思い出したから、一寸買いに行って来るって薫さんに伝えて」
 それだけ言い残すと、弥彦の返事も聞かずには道場を出て行った。
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