第一章 月下
屋敷の案内と仕事の段取りを教わっただけで一日が終わってしまったが、何だか疲れてしまった。初めての職場で緊張したせいもあるが、着慣れない洋服が一番の疲れの原因かもしれない。「はぁ〜………」
ベッドに腰掛けて纏めていた髪を解くと、はごろんと横になる。こんな時間に呼び出されることは、もう無いだろう。
それにしても―――――横になったまま、窓越しに夜空を見上げる。
それにしても、こんな所に蒼紫がいるなんて思わなかった。彼は一人で此処にいるのだろうか。それともまだ御庭番衆の仲間と共にいるのか。
最後に会った時、蒼紫は江戸城御庭番衆御頭の職に就いていた。当時はまだ少年だったが、任務や部下に対する責任感は大人以上だったと思う。あの時の彼のままなら、今でも当時の仲間が一緒にいるかもしれない。
御庭番衆の仲間が一緒にいるのなら、同じ屋敷にいても再び会うことは無いだろう。蒼紫が再会を望んだとしても、周りがきっと許さない。は江戸城では厄介者だったのだ。また蒼紫を面倒に巻き込むと思われるに決まっている。
あの頃のことを思い出そうとすると、今でも胸の奥が鈍く痛む。御庭番衆の一員として育ちながら、何処にも居場所が無かった子供時代。のこれまでの人生は“安住の地”を求める旅の連続だった。けれどそんな居場所は何処にも無くて、結局蒼紫と一緒にいられたあの頃が一番幸せだったのではないかと、今になって思う。厄介者扱いされても居場所が無くても、蒼紫だけはいつでも優しかった。
最後に会ったあの夜、もしも蒼紫の許に残っていたら、今頃どうなっていただろう。考えてみても仕方のないことではあるが、少しだけ想像してみる。
江戸城が無血開場して、御庭番衆がばらばらになって、今頃は新しい人生を求めて日本中を旅していただろうか。それは今までのの生活と全く変わらないが、蒼紫と一緒ならどんな時でもきっと楽しかったに違いない。
あの時、蒼紫といることを選んでいたら―――――あの時の自分の選択を後悔はしていない。あの時はそうするべきだと信じていたし、蒼紫を選んでいれば、それはそれで後悔していたと思う。あの時選んだ“あの人”は、今のにとっても蒼紫と同じくらい大切な人だったから。
でもあの時、蒼紫を選んでいたら、少なくとも今のように独りではなかった。言いようの無い孤独感に押し潰されそうになる夜も無かっただろう。誰でも良いから傍にいて欲しいと泣くことも無かった。あの時の選択は間違っていたのだろうか。
「…………………」
やはり今日は疲れている。今更考えても仕方のないことをぐだぐだと考えてしまうのは、弱っている証拠だ。
疲れているのもそうだが、月が明るいのもいけない。明るい月は、蒼紫と別れた夜を思い出してしまう。なきたくなるほど誰かに傍にいて欲しいのは、いつもこんな夜だ。
こんな夜は、さっさと寝てしまうに限る。眠ってしまえば、悲しいとか淋しいとか感じることも無いのだ。
寝間着に着替えようと起き上がった時、部屋の外に誰かがいる気配がした。中を窺っているようでもなく、ただそこに立っているだけのような感じだ。
同僚や上司にしては、すぐに声を掛けないのがおかしい。息を殺して相手の動きを待ってみるが、向こうもの動きを待っているのか、全く動く様子が無い。
この観柳邸は昼夜を問わず私兵団が警護していて、外から誰かが侵入することは無いはずだ。内部の人間でこんな不審な動きをする人間は限られている。
「………誰?」
おおよその見当は付いているが、警戒しながら声を掛ける。
と蒼紫が接触することを恐れる御庭番衆の誰かが、先走って彼女を消しに来たのかもしれない。もしそうだとしても、返り討ちにする自信はある。現役を退いて長いとはいえ、かつては蒼紫に並ぶ力を持つ隠密だったのだ。簡単にはやられない。
躊躇うような長い沈黙の後、扉の向こうから静かな声で返事が返ってきた。
「………俺だ」
「………蒼紫?」
その声は、昼間に少しだけ聞いた蒼紫のものだった。御庭番衆には声帯模写が得意な者もいたが、この声は間違いない。
部屋から飛び出して抱きつきたい衝動に駆られたが、扉の取っ手に手をかけたところで、今の自分には許されないことなのだと思い出した。はあの夜に、蒼紫ではなく“あの人”を選んだのだ。いつでも優しくしてくれた蒼紫ではなく違う人を選んだ女が、どんな顔をして彼の前に出ることができるだろう。
「何でしょうか?」
溢れ出しそうな感情を必死に押さえ込み、は素っ気無い声を出した。
今のはメイドで、蒼紫は護衛。同じ主人に仕える使用人同士というだけの関係だ。昔のことは知らない。
そう自分に言い聞かせ、“新人メイドの”を演じる。与えられた役を演じるのは、昔から得意だった。相手を騙しおおせるどころか、自分が何者か判らなくなってしまうほどに。
「開けてくれ。話がしたい」
「使用人同士が個人的に会うのは禁止されていると聞いています」
あくまでも一使用人として、は冷たく突っ撥ねる。
蒼紫の話が何なのかは分からないが、少なくとも旧交を温めるという類のものではないだろう。普通の別れ方なら兎も角、あの時の別れはそんな綺麗なものではなかった。
あの時のことを蒸し返されて恨み言を聞かされるくらいなら、このまま会わない方が良い。もう一度近くで顔を見たいけれど、誰かに拒絶されるような悲しい思いは、もうしたくない。
「誰かに見られたら誤解されてしまいます。帰って下さい」
これ以上話していると泣いてしまいそうだ。本当に言いたいのは、こんなことではないのに。
扉の向こうからは何の返答も無い。諦めて帰ったのだろうか。扉に耳を当てて外の様子を窺うと、蒼紫の気配は消えていた。
これで良いのだ。と関われば、御庭番衆の皆が黙ってはいない。今は良くても、いつかきっと蒼紫にとって良くないことになるだろう。だけど―――――
やはり会いたい。話さなくても良い。せめて後ろ姿だけでも見たい。
は弾かれるように部屋から飛び出した。
「?!」
飛び出したそこには、まだ蒼紫が立っていたのだ。
目を見開いて驚愕するを、蒼紫は無言で部屋の中に押し戻した。そして後ろ手で鍵を閉める。
「話が済んだらすぐに出て行く。時間は取らせない」
とは反対に、蒼紫は相変わらずの無表情だ。声もとても静かで、何を考えているのか全く読めない。
「話すことなんて………」
そう言ったきり、は言葉を詰まらせる。
蒼紫の顔を見たら色々な思いが溢れ出て、言葉にできない。ただ泣きそうになるのを堪えるので精一杯で、ぐっと唇を結ぶ。
月明かりに浮かび上がる蒼紫の顔は、別れの夜と変わらない。髪を切り、背が随分伸びたけれど、を見詰める目は昔と変わらない。
あの日と同じ月夜、あの頃と変わらない蒼紫の眼差し―――――あの夜に戻ったかのような錯覚に陥りそうになる。今までのことをすべて無かったことにして蒼紫の許に戻るのも許されるのではないかと、そんな都合の良いことさえ考えてしまう。
蒼紫の手が、の顔を優しくなぞった。
「生きていたんだな………」
その声はこれ以上望めないほど優しくて、は張りつめていたものが切れるのを感じた。
「ごめんなさい………ごめんなさい………」
何を謝っているのか自分でも分からないが、は泣きながら謝罪の言葉を口にする。
言わなければならないことは他にもあるはずなのに、言葉が出てこない。
「謝らなくても良い」
子供のように泣き続けるをあやすように、蒼紫は優しく抱き締める。
「生きていたことが判っただけで嬉しい。それを伝えたかった」
別れてからのの消息は、御庭番衆の情報網をもってしても辿ることが出来なかった。明治になってからも消息が掴めないまま諦めていたところに、予想外の姿で現れたのには蒼紫も驚いたが、本当に嬉しかった。
蒼紫の知らない空白の時間に、がどうやって生きてきたのかは聞かない。独りでいたにしろ、誰かと一緒にいたことがあるにしろ、話したいと思えるようなことはあまりないだろう。それは蒼紫も同じだ。
だから昔のことなんて、どうでもいい。こうやって見て、触れて、無事な姿を確認できれば、それで良いのだ。
「怒らないの?」
「今更怒っても仕方ないだろう」
不安げな顔で見上げるに、蒼紫は優しく応える。そして身体を離すと、
「こんな時間に悪かったな。どうしても顔が見たかったんだ」
どんな姿であれ、が生きていたことを確認できて良かった。メイドとして観柳邸に入ってきたのは、過去を捨て、隠密ではない普通の人生を求めようとしているのだろう。普通の人生を求めているのなら、未だ戦いを求める自分はの邪魔になってしまう。
だから蒼紫も、もうと関わらないと決意する。此処に来たのは、十年前にきちんと別れられなかったことにけじめをつけるためだったのだ。
「もう此処には来ないから安心しろ。これで本当に最後だ」
「…………………」
別れの言葉のはずなのに、蒼紫の声も表情も限りなく優しい。そんな風に言われたら、またやり直せるのではないかと期待してしまうではないか。
蒼紫が許してくれるのなら、またあの頃のように傍にいたい。御庭番衆なんて関係ない。あんなものはもう、とっくの昔になくなってしまったのだ。なくなってしまったものに遠慮する義理は無い。
気が付くと、出て行こうとする蒼紫の背中に抱きついていた。
「行かないで。一人にしないで。独りはもう嫌………」
涙と一緒に、今までずっと押さえ込んでいた感情が迸る。
別れてからの十年、否、もっと昔から、ずっとこう言いたかった。蒼紫は確かに優しかったけれど、自分と同じ子供だった彼に全面的に甘えることは出来なかった。けれど今なら、大人になった彼になら甘えることも許されるような気がした。
の言葉に応えるように、蒼紫は無言で彼女の手に自分の手を重ねた。