第七章  蘇る狼

 雷十太の一件の後も、は相変わらず神谷道場に出入りしている。また何か大きな事件が起きないかと期待しているのだが、幕末の京都なら兎も角、此処は明治の東京。“人斬り抜刀斎“を狙う剣客が現れる様子は無い。これでは本当に斎藤が相手になるしかないようだ。
 いっそのこと抜刀斎を引き出せるような強い男を探してけしかけてみようかとも考えてみるが、そんな男が簡単に見付かるわけもない。何も起こらないまま時間が無駄に過ぎていく中で、の焦りは日増しに大きくなっていく。
「緋村さんは出稽古でも竹刀は握らないんですね」
 薫の出稽古の帰り、は剣心の隣を歩きながら言った。
 門弟が弥彦一人の神谷道場では、師範代の薫の稽古相手がいない。そのため、付き合いのある近隣の道場へよく出稽古に行っているのだ。部外者のまで付いてくるのは相手の道場では少し妙な顔をされるが、このところずっと神谷道場に出入りしているから誰も怪しんでいない。剣心にべったりと張り付いていることについては、流石に薫も面白くなさそうな顔をしているが。
 道場にいる間、は何度も剣心に竹刀を握るようにけしかけたのだが、結局薫と弥彦の稽古の見学だけで終わってしまった。お陰で二人の剣の癖や実力など、心の底からどうでもいい情報には詳しくなった。この現状に、自分は一体何をやっているのだろうとは溜め息をつきたくなる。こんなつまらないことを知るために、こんな奴らに付き纏っているわけではないのだ。
 隣を歩いている剣心は、心此処に在らずといった様子でぼんやりとしている。何だかよく分からないが、道場を出た時からずっとこの調子だ。
「緋村さん?」
 一体どうしたのかと、は剣心の顔を覗き込む。その声に、剣心ははっとした顔をした。
「あ……ああ、一寸考え事をしていたでござるよ」
「考え事?」
 薫が怪訝な顔で尋ねた。
「昔のことでござる。さっき、京都の頃の夢を見たから………」
「それって幕末の頃の?」
「新選組の夢を、見たでござる」
 剣心と薫の会話に、は一瞬表情を強張らせた。が、すぐにいつもの曖昧な微笑を浮かべる。
「新選組?」
「新選組っていうと、維新志士達の宿敵で有名な、あの新選組だよな。知らないのか?」
 前を歩く弥彦がを振り返って言った。
「名前だけは知ってるけど………」
「拙者も幾度となく剣を交えたことのある、一番の宿敵でござるよ」
 昔のことを懐かしむような表情で剣心が言う。彼にとっては幕末はもう、懐かしむ過去になっているのだろうか。はまだあの頃に縛られているというのに。
 これが勝者と敗者、失った者と失わなかった者の差なのだろうかと考えるが、には判らない。同じ場所で同じ時を過ごしたけれど、二人の“幕末”は全く違うものだということだけは解った。
 の顔から微笑が消え、無表情で剣心に視線を遣る。
「幹部級―――――特に十番まであった実働隊のうちでも、一、二、三番隊の組長は文句無しに強かった。一と二、そして三番の組長とは幾度か一対一で戦ったが、結局決着は着かず終いでござった………」
 三番隊の組長となら近いうちに決着をつけられるけどね、とは心の中で呟いた。
 多分、近いうちに斎藤が動くだろう。出来るだけ引き延ばそうと思っていたが、彼も以上に痺れを切らしている。
 きっと斎藤は、自分の任務をそっちのけで“人斬り抜刀斎”と対決したいのだと思う。幕末のやり残しを、明治の今になっても始末したいのだろう。蒼紫も斎藤も、とは違うところであの頃に縛られている。
 今更あの頃の決着を着けたところで、自分たちの立ち位置は何も変わらない。それなのにどうして戦いを求めるのだろう。どうしてただの傍にいてくれないのだろう。
 この男のそうなのだろうかと、は薫と話している剣心を見る。もしもあの頃の勝負の決着を着けられると言ったら、この男も戦おうとするのだろうか。薫が止めても戦うのだろうか。
「緋村さん」
 静かに足を止め、は薫たちと話している剣心に声をかけた。その顔にいつもの微笑みは無く、剣心だけを真っ直ぐに見詰めている。
 三人も足を止めて訝しげにを見た。いつも微笑みを絶やさないの真剣な顔に驚いているようだ。
 けれどはそんな三人の表情など目に入らないように、は剣心の目だけを見て静かに尋ねた。
「もしも、その組長と決着を着ける機会があったら、どうします?」
 の質問に、剣心は一瞬きょとんとした顔をした。が、すぐに困ったような苦笑いを浮かべて、
「今更決着を着けようとは思わんでござるよ。もう何もかも、終わった話でござる」




 道場の近くで恵に会った。今日と明日、彼女が住み込みで働いている診療所が休みなのだそうで、夕飯を作ってくれるのだそうだ。
 観柳邸での一件以来、どうやら恵は剣心に好意を抱いているらしい。暇があればこうやって神谷道場に出入りして剣心にちょっかいを出しているものだから、薫は面白くないようだ。恵が来ると言った時も、あからさまに嫌そうな様子を見せていた。
 何処にそんな魅力があるのかにはさっぱり解らないが、緋村剣心という男は薫と恵が取り合うほど魅力的な男らしい。何処がそんなに魅力的なのか、機会があれば二人に訊いてみたいとは思っている。
さんも一緒に御夕飯どうです? 大勢で食べた方が美味しいわ」
「ありがとうございます」
 恵の誘いには笑顔で応えた。
 もともと、恵に誘われなくても神谷道場に寄るつもりでいた。夕飯を作るつもりでいたのだが、恵が作ってくれるのなら楽ができる。それに、彼女は薫と違って料理上手だから安心だ。
「それにしてもさんって、前に何処かで会ったような気がするのよねぇ………」
 じっと見詰めて考える恵の言葉に、はぎくりとした。
 観柳邸で一寸しか顔を合わせていない剣心たちは気付いていないようだが、何度も顔を合わせたことのある恵はがあのメイドだと気付くかもしれない。化粧でかなり顔を変えているけれど、男の剣心や左之助と違い、女の恵には化粧を落とした素顔を想像しやすいはずだ。
 今の顔に変えてからは声の調子も表情の作り方も全部変えた。観柳邸のメイドと今のに共通点が無いように振舞っているし、変装にかけては幕末の頃から自信があったから正体に気付かれる心配は無いと思うが、油断はできない。
「そうですか? よくそう言われるんですけど、ありふれた顔なのかしら」
 内心焦りながらも、はおっとりとした口調で応える。
「うーん、そうかしら………」
「そうですよ。そんなことより、今日の御夕飯どうします?」
 この話題を長引かせてはまずい。は強引に話題を変えた。
「そうねぇ………みんな、何が良い?」
 恵もそれほど気にしていなかったのだろう。の顔のことなど忘れて、剣心たちに夕飯の希望を聞き始める。
 それぞれが好き勝手に食べたい物を言っているうちに、道場に着いた。が、門を開けた瞬間、微かな血の匂いがの鼻をついた。
 道場の壁に大きな穴が空いている。まさか―――――
「何があったのよ」
 顔色を失ったの横で、薫が呆然として呟いた。
 今神谷道場を襲う人間がいるとしたら、斎藤しかいない。近いうちに動くとは言っていたが、事前にに一言も無いとは思わなかった。
 それにしても壁に大穴を空けるなんて、一体何をやったのだろう。剣心を挑発するためとはいえ、随分と派手にやったものである。
 そして、この血の臭い―――――
 剣心も血の匂いに気付いたらしく、一目散に道場に走った。と薫も後を追う。
「左之!!!」
 道場にあったのは、折れた刀の切っ先が右肩に刺さったまま血まみれで倒れている左之助の姿。生きているのか死んでいるのか、ぴくりとも動かない。
 その凄惨な光景よりも、酔ってしまいそうな血の臭いよりも、これを斎藤がやったのだという事実に頭がくらくらした。あの男はあの頃と何も変わっていない。剣心と対決することになったら任務をそっちのけにして、新撰組三番隊組長として人斬り抜刀斎と勝負するつもりだ。
 そして剣心も、今度こそ人斬り抜刀斎に戻るだろう。恵や由太郎と違い、左之助は彼の大切な友人だ。きっと剣心は下手人を許さない。
「まだ脈があるわ。薫さん、先生を呼んできて!」
 流石医者の卵だけあって、恵は気丈だ。血まみれの左之助の脈を取って薫に指示を出すと、すぐさま止血を始める。
「は……はいっ!」
 蒼白になって茫然としていた薫だったが、その声に弾かれるように道場から出て行った。
 左之助がまだ生きているとは、には意外だった。これだけ派手にやって、斎藤が仕損じるとは考えにくい。あえて止めを刺さなかったのだろうか。だとしたら、斎藤も甘くなったのかもしれない。
 ふと横を見ると、行商の薬箱が置かれていた。箱には傘に丸の印が描かれている。あれは石田散薬の印で、新撰組の密偵が薬売りに変装する時によく使っていたものだ。
 石田散薬の薬箱に、水平に突き刺さったまま折れた剣先―――――誰がやったか、十分程の証拠が残されている。険しい顔で薬箱を見ている剣心も、下手人に気付いたようだ。
 今になって新選組の斎藤一が現れたことを、剣心はどう思っているのだろう。この破壊力を見れば、“不殺”の逆刃刀では勝ち目が無いのは判るはずだ。それでも“不殺”の信念を貫き通すのか。それとも―――――
さんは母屋に戻ってて。今はこの人だけで手一杯なの。あなたまで倒れたら処置できないわ」
 止血の手を止めずに恵は命令する。その声は先ほどまでのものとは全く違う、医者としてのものだ。その言葉で、は漸く自分が厚化粧でも判るほどに顔色を失っていることに気付いた。
 が此処にいたところで今は何も出来ない。昼間に左之助を襲撃したばかりだから、今日のところは斎藤に新しい動きは無いだろう。それならばこんな所に用は無い。
「そうですね………。じゃあ、あの……申し訳ないですけど、今日はこれで帰らせていただきます」
 兎に角、今夜は何が何でも斎藤を捕まえなくては。彼に会って話さなければならないことが沢山ある。
 恵と剣心に軽く頭を下げると、は急ぎ足で道場を後にした。





 人気の無い道の真ん中に、ぽつんと女が立っているのが見えた。女は身じろぎもせずにこちらをじっと見ている。
 これが男なら不審者として職務質問の一つもしたくなる雰囲気だが、斎藤は平然として女に近付いた。
「こんな所で何をしている?」
「どういうつもり?」
 睨みつけるように真っ直ぐに見上げ、は唐突に尋ねた。
「何がだ?」
「あのトリ頭のことよ。何なの、あれ? あそこまでやる必要があったの?」
「ああ、そのことか」
 責め立てるとは対照的に、斎藤はわざとらしいほどのんびりと応える。
 の反応は予想していたことだが、斎藤はやり過ぎだとは思ってはいない。あれくらい派手にやらなければ、緋村剣心を“人斬り抜刀斎”に戻すことはできないだろう。
 斎藤の任務は人斬り抜刀斎の今の力量を調べることだ。そのためには手段を選ばないし、選んでいる時間も無い。
「一応手加減はしておいた。あれが報告通りの男なら死にはせんだろう」
「そうじゃなくて!」
 あんなことの後とは思えないほど淡々としている斎藤の様子に、は苛立ったように声を上げた。
 左之助が死のうが助かろうが、にはどうでもいいのだ。彼女が気にしているのは、これからのこと。あんなに派手に左之助をやったら、剣心は幕末の頃のように斎藤を殺しにかかるだろう。そうなったらいくら斎藤が強くても無傷ではいられない。
 蒼紫を失って、もうこれ以上自分の大切な人間が傷付くところを見たくはない。斎藤まで蒼紫のようにの前から消えてしまったら、もう自分を保つことができないだろう。
「前から思っていたけど、わざわざあんたが出る必要は無いんじゃないの? 抜刀斎とやり合って、肝心の志々雄の相手を出来なくなったらどうするの?」
 人斬り抜刀斎としての剣心の実力を見るためというのは解るが、それで二人が潰れてしまったら元も子もないではないか。斎藤が負けるとは思えないけれど、人斬り抜刀斎に戻った剣心を相手にして無傷でいられるとも思えない。
 だが、斎藤はいつもの不敵な笑みを浮かべて、
「俺があんな奴に負けると思ってるのか?」
「それは………」
 そう言われると、はそれ以上何も言えない。斎藤が剣心に斬られることを想像するなんて、彼を侮辱することになる。
 けれど二人が戦うことを想像すると、どうしても斎藤が斬られる姿が浮かんでしまうのだ。その想像はあり得ないものだと必死に否定するけれど、そうすると今度は観柳邸での蒼紫の姿が思い出されて、余計に不安になる。
 斎藤と蒼紫が違うことは解っている。蒼紫は御庭番衆御頭を務めるほどの男だったが、幕末の京都は知らない。あそこを生きて、更に会津戦争も生き抜いた斎藤は“生き残る”ということには長けている。そして幕末の京都を生きた斎藤と抜刀斎の戦いは、生き残った方が勝者だ。だから斎藤は負けない。
「そうね。あんたが死ぬところなんて想像できないわ」
 斎藤は絶対にを置いて何処かへ行ったりなんかしない。彼はいつだっての傍にいようとしてくれていたではないか。これからもきっとそうだ。
 安心した様子のを見下ろして、斎藤は面白そうににやりと笑う。
「お前がそんなに俺のことを心配しているとは思わなかったな」
「なっ……馬っ鹿じゃないの?! だれがあんたのことなんかっ………!!」
 何故か恥ずかしくなって、は顔を真っ赤にして怒鳴った。
 心配していたのは事実だが、それを悟られるのは腹が立つ。どういうわけかは昔から、心配するのは斎藤の仕事で、自分は彼以外の人間のことを考えているのが当然のことと思っているのだ。そんな自分が斎藤のことを心配しているなんて、絶対に気付かれたくない。
「私はただ、あんたに何かあったら蒼紫を捜してもらえなくなるのが困るだけよ! 他に理由なんか無いんだからねっ!」
「あー、はいはい」
 が顔を真っ赤にして怒鳴っても、斎藤はにやにや笑いをやめない。が何を言おうと、本心は解っているようだ。それがまたには腹が立つ。
 こんな奴の心配をしてやって損をした。こいつが死ぬかもしれないなんて、一瞬でも考えてしまった自分は人を見る目が無いとは思う。こんな図々しい奴は、日本が滅んでも生き残るに決まっているのだ。
「そんなことより、ちゃんと蒼紫のこと捜してるの? さぼったりしたら承知しないからね!」
「はいはい」
 これまた軽く受け流されてしまった。全く腹の立つ男だ。
 斎藤のことなんか、金輪際心配してやらない。緋村剣心でも人斬り抜刀斎でも好きなだけ相手すればいいのだ。
 まだ赤い顔で鼻息を荒くしているを見下ろして、斎藤は可笑しそうにくくっと笑う。
「お前、鼻の穴膨らみ過ぎ」
「うるさいっ!!」
 斎藤はを怒らせることにかけては天才的だ。この一言には不安も心配も全部吹き飛んで、はますます顔を真っ赤にして怒鳴るのだった。
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