第六章  真打

「ごちそうさまでした。じゃあ、また」
 会計を済ませると、薫は妙とに軽く頭を下げて『赤べこ』を出て行った。今日も神谷道場一行は牛鍋で夕食である。貧乏道場のはずなのに一体何処から金が湧いて出てくるのかと、はいつも不思議で仕方が無い。
 最後の客である薫たちを見送ると、は暖簾を店の中にしまう。外はもう真っ暗で、星が出ていた。
 薫たちは由太郎を送って帰ると言っていたから、おそらくいつもの雑木林を通るはずだ。予定通りであれば、あそこには雷十太が潜んでいる。彼らが雑木林に入ったら、剣心に不意打ちをかける手筈になっていた。
 不意打ちを提案した時、それは卑怯ではないかと渋られると思っていたが、雷十太は意外とすんなり話に乗った。尋常に勝負を求めたところで“殺人剣”での勝負はできないと思ったのか、“殺人剣”において不意打ちは卑怯ではないと思っているのか。案外、尋常に勝負を仕掛けても勝算が低いと判断したのかもしれない。どう判断して提案を受け入れたのかは、はどうでも良かった。
さん、お皿洗ったらもう上がってもらってええよ。あとはうちがやっとくさかいに」
「はい。ありがとうございます」
 いつもは何だかんだ言いながら最後まで片付けて帰るのだが、今日はそういうわけにはいかない。申し訳なさそうな素振りを見せ、は頭を下げた。





 『赤べこ』を出ると、は全速力で例の雑木林に走った。予定通りに事が運んでいれば、もう勝負は始まっているはずである。
 が、駆け付けたに見えたのは、雷十太と左之助が話している姿だけ。緋村剣心の姿は無かった。
「あれ?」
 困難早く決着がつくはずが無い。仮に決着がついたとしても、雷十太が無傷であるはずがない。一体どうなっているのか。
「一寸した事故があってな。勝負は中断だ」
 背後から音も無く斎藤が現れた。この男にはいつも気配というものが無い。
「事故?」
「あの男に付いていた子供が腕を斬られた。幸い、切断までには至らなかったが、骨が見えるまでやられていたからな。おそらく一生使い物にはなるまい」
「え………?」
 由太郎が斬られたというのか。の顔から血の気が引いた。
 道場で少し見ただけだったが、由太郎はなかなか筋の良い少年だった。剣術が好きで、これからという時に片腕が使えなくなるなんて。それでなくても由太郎はまだ子供だ。これから先、片腕が使えない人生はあまりにも長い。
 直接が手を下したわけではないが、由太郎の怪我のきっかけを作ったのは彼女だ。こんなところでの不意打ちを持ちかけなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
 目を伏せて悲しげに睫毛を震わせるに、斎藤が慰めるように言う。
「別にお前のせいじゃないさ。抜刀斎が最初から本気を出していれば、こんなことにはならなかった。あの子供にも運が無かっただけだ」
「………………」
 “運が無かった”で済ませるにはあまりにも大きな事故だ。だけのせいではないかもしれないけれど、彼女が由太郎の夢も将来も潰してしまったことには変わりはない。
 沈んだ表情のまま黙り込んでいるを見て、斎藤は小さく溜め息をついた。この女は冷血かと思いきや、妙なところで甘いところがある。そういうところも昔と変わらない。
 暗い空気を変えるように、斎藤は仕事の声に戻った。
「まあこれで奴も本気になるだろう。
 ほら、主役のお出ましだ」
 斎藤が顎で指し示す先には剣心の姿があった。右腕に包帯を巻いているところを見ると、由太郎の事故の時に負傷したのかもしれない。
 雷十太が剣を構え、勢いよく振り下ろす。
「…………何、あれ?」
 雷十太の剣を初めて目の当たりにして、は驚いた声を上げた。
 使っている刀は普通の日本刀のようだが、木どころか石も綺麗に斬っている。この切れ味はただ事ではない。しかも間合いの外にあるものまで同じように斬っているところを見ると、刃ではなく剣圧で斬っているということなのか。
 まるで妖術を見ているかのように大きく目を見開いて見入っているに、斎藤が説明する。
「間合いの中にあるのを斬るのが“纏い飯綱”、間合いの外にあるのを斬るのが“飛び飯綱”というものらしい。おそらく、かまいたちと同じ理屈のものだろう」
「かまいたち?」
「空気の断層によって生じる真空の波のことだ。俺は経験が無いが、風が吹いたと思ったら突然傷口が開いているらしい。だが―――――」
 斎藤の説明の途中で、剣心の右腕が斬られた。
「深く切れる割には、ああいう風に思ったほど血は出ない」
「ああ………」
 確かに斎藤の言う通り、傷口がぱっくりと開いている割には出血が少ない。とはいえ、一度負傷したところをまた負傷するとは、“人斬り抜刀斎”だった頃には考えられないことだ。もしかして、まだ右腕が使えないのだろうか。
 右腕が使えないとしたら、お得意の抜刀術は使えない。左手一本でどうするつもりなのか。緋村剣心の本当の実力を見られないのは残念だが、これはこれで興味深い。
 間合いの中は“纏い飯綱”、間合いの外は“飛び飯綱”を使われては、剣心の間合いでは戦えない。石さえも真っ二つにする飯綱を受けることもできず、の目には逃げるしか手が無いように見える。この状況を打開することができれば、緋村剣心も衰えていないと思えるのだが。
 ふと斎藤を見上げると、彼は真剣に二人の勝負を見ていた。この話を持ってきた時は何だかんだと乗り気ではなかったようだが、いざ始まるとやはり気になるものらしい。折角斎藤も興味を持っていることであるし、雷十太にはせいぜい気張ってもらって飛天御剣流の技の一つも引き出してもらいたいものだ。
「ねえ、斎藤さん―――――」
「飛天御剣流抜刀術!!」
 思ったより使えるでしょう、と言いかけたの声に、剣心の声が重なった。
「飛龍閃!!」
 その声と同時に鞘から刀が矢のように弾き飛ばされ、雷十太の眉間を撃った。そのまま雷十太は大木が倒れるように大の字に倒れる。
「すごい………」
 唖然としては小さく呟く。まさか刀を飛ばすとは思わなかった。これなら間合いの外からでも攻撃ができる。
 雷十太はぴくりとも動かない。死んではいないようだが、眉間を割られて暫くは正気に戻らないだろう。
「どうする? 帰る?」
 一撃で終わってしまったが、緋村剣心の実力の一端を見ることは出来た。由太郎に一生ものの傷を許したところは“人斬り抜刀斎”の頃より衰えているのかもしれないが、それでも実戦に使える程度には強いと思う。
 雷十太に関しては―――――まあ見掛け倒しだったということか。しかし抜刀斎に負傷させたのだから、咬ませ犬くらいにはなってくれたと思う。それくらいの役は果たしてもらわなくては、の立場が無い。
 もう見る価値は無いと判断したか、斎藤は早々に踵を返して、
「ああ。どうやら止めは刺さんようだしな」
「あ、待ってよ」
 さっさと歩いて行く斎藤の後ろを、は慌ててついていく。
 剣心たちが雷十太をどうするか気にならないではなかったが、あの男がの名前を出さなければどうでもいい。いくら雷十太がどうしようもない小物でも、女にけしかけられて闇討ちをしたとは、恥ずかしくて口が裂けても言えないだろう。
 斎藤と並んで歩きながら、は彼の横顔を窺う。一緒に歩いていても何も言ってくれないし、何かを考えているように眉間に皺を寄せているしで、何だか気まずい。もしかして雷十太が期待外れの小物だったのを怒っているのだろうか。しかし剣心の技を引き出すことが出来たのだから、一応目的は果たせたと思うのだが。
 斎藤のような人相の悪い男が眉間に皺を寄せて黙っていると、慣れているでも気まずくて落ち着かない。沈黙に耐えられなくなって、は不本意ながら斎藤の機嫌を取るように声をかけた。
「怒ってるの?」
「いや」
 否定はするものの、相変わらず斎藤はの方を見ない。それどころか彼女の存在自体忘れ去っているようだ。斎藤がと一緒にいて、彼女の存在を無視するほど何かに没頭するなんて珍しい。
 怒っていないなら良いけれど、自分のことを完全に無視しているというのは面白くない。別に斎藤のことが好きとかそういうことは無いけれど、自分の存在が眼中に無いというのは腹が立つ。
「何考えてるの?」
「ああ………」
 それでも斎藤は上の空だ。下手をするとの声も耳に入っていないかもしれない。
 ますます面白くなくなって、はむっとした顔で斎藤の制服の袖を思いっきり引っ張る。斎藤がを無視するなんて、ありえない。が斎藤を無視することはあっても、その逆はあってはならないことなのだ。
「ねぇってば!! 何考えてるのっ?!」
 ぐいぐい袖を引っ張られて、斎藤は漸くを見た。自分が相手にされないのは許せないとばかりの不機嫌顔に、斎藤も思わず憮然とした顔をしてしまう。自分が斎藤を無視するのは当たり前のくせに、斎藤が一寸から意識を外すと途端に怒りだすなんて、自分勝手もいいところだ。そんなところも昔と変わらない。
 斎藤は小さく溜め息をつくと、柔らかくの手を払う。それから皺を伸ばすように何度か袖を叩いて、
「俺が直接、抜刀斎の力量を試しに行く。今日のあれは、まだあの男の本気じゃない」
「斎藤さんが?」
 これにはも驚いたように目を見開いた。
 幕末の頃の斎藤は鬼のように強かった。新撰組で一番強いと言う者もいたし、緋村抜刀斎とも何度も引き分けていたらしい。その斎藤が相手になれば、緋村剣心も“人斬り抜刀斎”に戻らざるを得なくなるだろう。斎藤は剣心と違い、明治の世になっても“不殺”を誓ってはいないのだ。
 は最近の斎藤が剣を振るっているところを見たことはないが、彼の雰囲気から察するに幕末の頃と比べて腕は落ちていないと思う。斎藤が本気になれば、緋村剣心には勝てるかもしれない。が、緋村剣心ですら蒼紫を倒しただけの実力を持っているのだから、勝負をすればいくら斎藤でも無事ではいられないはずだ。そしてもし、斎藤との戦闘の途中で緋村剣心が“人斬り抜刀斎”に戻ってしまったら―――――
 斎藤と剣心の戦いを想像すると、観柳邸での蒼紫のことを思い出して、はぞっとした。斎藤まで蒼紫のようになってしまったらどうしよう。斎藤は文句なく強いけれど、蒼紫だってたった15歳で御庭番衆御頭を務めるほどの実力の持ち主だったのだ。その蒼紫ですら敗れたのだから、斎藤が絶対に勝てるという保証はどこにも無い。
「緋村剣心が“人斬り抜刀斎”に戻ったらどうするの? “不殺”を破ったらどうするの?」
 蒼紫の時は“不殺”を守っていたけれど、斎藤の時も同じく守り通せるとは限らない。そもそも斎藤は幕末の頃に幾度となく刀を交えた相手なのだ。戦っているうちに意識が幕末に戻ってしまっても不思議はない。
 不安そうに瞳を震わせて見上げるに、斎藤は困ったように苦笑する。
「“人斬り抜刀斎”に戻すために俺が出るんだ。緋村剣心のままでは志々雄真実には勝てない」
「そんなことして斎藤さんが―――――」
 殺されちゃったらどうするの、と言いかけて、は慌てて口を噤んだ。そんなことを言うのは斎藤を侮辱することになるし、何よりそれを言葉にしてしまうと現実になってしまいそうで怖かった。
 昔のだったら、斎藤の勝利を無条件に信じていただろう。けれど今は違う。蒼紫が消えてからというもの、は勝つことよりも先に負けてしまった時のことを想像してしまう。
 否、負けてしまった時のことを考えるようになったのは、蒼紫が消えるずっと前―――――土方が死んでしまった時からだ。あの時からは身近な人間が戦うことを極端に恐れ、血を恐れるようになった。どんなに強い人間でもある日突然自分の前から消えてしまうのだということを知ってから、どんなに強いと解っていても負けた時のことを想像するようになってしまったのだ。
 の心を知ってか、斎藤は安心させるように自信に満ちた笑みを浮かべた。そしての頭に手を遣り、自分の方へ引き寄せる。
「俺はそう簡単には死なん。会津戦争も斗南の生活も生き延びたんだからな」
「………うん」
 会津で死んだと思っていたのに平気な顔で生き延びていたような男であるから、“人斬り抜刀斎”が相手でも簡単に殺されるわけがない。斎藤ならきっと、どんな手を使ってでも生き残ろうとするだろう。だからきっと大丈夫だ。
 斎藤の胸に頭を預けたまま、は自分の中の不安を打ち消すように小さく頷いた。
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