第四章 接触
最近、『赤べこ』の賄いを作るのはの仕事になっている。それまでは当番制だったのだが、自分は料理が好きだからと、の方から買って出たのだ。料理が好きと宣言するだけあって、の料理は賄いだけで済ますのは惜しいくらいのものだ。余り物でもそれなりのものを拵えるし、店に出しても十分に商品として通用するだろう。実際、常連客には時々出していて、好評である。
「弥彦君は、あの剣客さんに剣術を習ってるの?」
料理を出しながら、は弥彦に尋ねる。
こうやって弥彦とゆっくり話ができるのは、食事を出す時くらいなものだ。だからはわざわざ賄いを作る役を買って出たのである。料理は上手いけれど、本当は作るのはあまり好きではない。
「いやー、それが剣心のやつ、神谷活心流で強くなれって言うんだ」
出された料理を早速頬張りながら、弥彦は不満げに答えた。神谷活心流の剣に不満は無いし、薫の強さも解ってはいるけれど、剣心からも剣を習いたい気持ちはあるのだ。
「ふーん………」
は気の無い返事をしてみせたが、弥彦の答えは意外だった。観柳邸で見た弥彦は、まるで剣心の弟子のような様子だったから、てっきり彼が道場で剣術を教えていると思っていたのに。ということは、あの神谷薫という娘が一人で道場を仕切っているということか。
弥彦に剣術を教えていないというのなら、剣心は一体何をしているのだろう、とは疑問に思う。何もせずにゴロゴロしていられるほど神谷家の財政状況は良くないようであるし、薫の様子を見ても、ヒモを飼うような娘ではないと思う。というより、あの歳でヒモを飼っていたら怖い。
「じゃあ、あの剣客さんは何をしているの? まさか、一日中ゴロゴロしてるわけじゃないでしょう?」
探っているのを悟られないように細心の注意を払いながら、は何気ない様子を装って訊いた。こういうことを昔もやっていたから、慣れたものである。
どうでも良い世間話をするようなの軽い口調に、弥彦も軽い口調で答える。
「家事に追われて、ゴロゴロしてる暇なんて無いさ。薫のやつ、家事はからきし駄目なんだぜ。とくに料理なんか食えたもんじゃねぇからな」
「へーぇ………」
これもまた意外な情報だった。人斬り抜刀斎が家事に追われているなんて、には想像もつかない。抜刀斎が家事ができるというのも意外だったし、そんな生活に不満を持ってなさそうなことも意外だ。が知っている抜刀斎は、そんな生活感のある男ではなかった。
神谷道場の人間たちは多分、緋村剣心が人斬り抜刀斎であることを知っている。そんな男と一緒に生活して、あまつさえ家事全般をやらせているということも、には理解不能だ。薫にしろ弥彦にしろ、“あの時代”をほとんど知らない世代ではあるが、それにしたって人斬りと生活を共にするなんて、恐ろしくはないのだろうか。彼はにそう思わせないほど、人斬り抜刀斎は緋村剣心になってしまったのだろうか。
もう少し突っ込んだところを訊いてみたいが、はまだ剣心の過去を知らないことになっている。これから弥彦たちにあの男の過去を聞き出して、自然に核心に迫らなくては。そのためには、神谷道場に入り込まなければならない。
はふと思いついた様子で、弥彦に提案してみる。
「じゃあ、お休みの日にでも私がご飯を作りに行っちゃおうかしら。剣客さんだって、たまには他の人が作ったご飯を食べたいでしょうし」
「あー、それいいな。ついでに薫にも飯の作り方を教えてやってくれよ。あいつの料理、本当にマズいんだぜ」
の思惑には全く気付いていない様子で、弥彦は大喜びで快諾した。しっかりしているようでも、簡単に餌付けされるところは、まだまだ子供である。
とりあえず、第一段階は成功のようだ。弥彦に気付かれないように、は微かに口の端を吊り上げた。
そして『赤べこ』の定休日、神谷道場にはの姿があった。稽古をしている薫と弥彦、そして初めて見る少年の様子を、剣心と並んで座って眺めている。
初めて見る少年は塚山由太郎という名前で、神谷道場の門下生かと思いきや、そうではないらしい。詳しい事情はにはよく解らないが、最近になって毎日のようにけいこに出入りしているという。“お試し入門”のようなものか。
「剣客さんは、稽古は付けないんですか?」
竹刀で打ち合う弥彦と由太郎を見ている剣心に、が尋ねる。
先日、弥彦が、剣心から剣術を教えてもらったことが無いと言っていたが、せめて稽古の相手くらいはしているだろうと思っていた。稽古が始まってからずっと見ているが、剣心が腰を上げる様子は全く無く、微笑ましげに三人の様子を眺めているだけだ。本当に剣心は稽古に全く手を出さないらしい。
少年たちが稽古をしているのを見ていて、手を出したくなることはないのだろうかと、は不思議に思う。あれだけの剣の使い手なのだから、薫の教え方に突っ込みを入れたり、手直しをしてやりたくならないのだろうか。それとも、他人に教えるのは興味が無いのだろうか。そういえば新撰組の沖田も、剣術は凄かったが、教えるのは下手だったようだ。自分でやるのと教えるのは違うのだろう。
「此処は神谷活心流の道場でござるから、稽古は師範代の薫殿が付けるでござるよ。
それから拙者、“緋村剣心”という名前でがあるのだから、名前で呼んでほしいでござる」
困ったように笑いながら、剣心は応える。
「じゃあ、緋村さん。弥彦君たち、緋村さんにも稽古を付けてもらいたいんじゃありません? 教えてあげればいいのに。私も、緋村さんが剣を振るうところ見てみたいわ」
含むように色っぽく笑って、はすっと剣心に近付く。
たとえ竹刀でも、剣心の剣術を見なければ。わざわざ神谷道場まで来て、食事を作って終わりでは、折角の休日を潰した甲斐が無いではないか。
剣心の実力を見ることができれば、斎藤への義理を果たして自由の身になれる。そうなれば、警視庁を後ろ盾に蒼紫を捜して日本全国を回ることだってできるのだ。早く任務を完了させて、蒼紫を捜しに行きたい。
斎藤は蒼紫を捜していると言っていたけれど、はっきり言って当てにはしていない。真剣に探してくれていないことは、彼の顔を見ればすぐに判る。やはり、本当に捜し出したいものは、他人を当てにしていては駄目なのだ。だから、早いところ剣心に竹刀を握らせなくては。
熱っぽい潤んだ目で見詰められ、剣心は焦ったように身を引いて視線を逸らした。
「殿も剣術に興味をお持ちなら、薫殿に習ってみては如何でござる? 神谷活心流は、初心者も大歓迎でござるよ」
「いいえ。私は自分でするよりも、他人がするのを見るのが好きなんです。私、強い殿方って大好き」
さらにずいとにじり寄るに、剣心は完全に落ち着きを無くしている。普通の男なら、がここまで言えば逆上せあがって竹刀を握りそうなものであるが、どうやら剣心には逆効果のようだ。“抜刀斎”の頃もそうだっただろうかと、は昔の記憶を手繰り寄せる。
一方、剣心は、に見つめられると居心地が悪いというか、尻の辺りが落ち着かない。薫や恵に見詰められるのは何とも思わないのだが、の目だけはどうしても駄目なのだ。心が吸い込まれるというか、理性が揺らぐというか、自分が自分でなくなりそうな気がする。妖術のような眼をした女だ。
ふと、こんな目をした女に会ったことがある、と剣心は思った。京都にいた頃、色街で会ったのだろうか。何処で会ったのかは思い出せないが、その手の店にはこういう目をした女が何人もいた。初めてを見た時に何処かで会ったことがあるような気がしたのは、そういう女たちを連想したせいかもしれない。
「この時代にわざわざ刀を差しておいでなんだもの。さぞ腕に自信がおありなんでしょう? 一度見せて―――――」
「剣術は見世物じゃありませんっっ!!」
薫の鋭い声と共に、剣心との鼻先に竹刀が振り下ろされた。驚いて見上げると、引き攣った顔の薫がを睨みつけている。
「大体、道場で何やってるんですかっ?! 剣心だって困ってるでしょっ!!」
「あら、ごめんなさい」
頬を紅潮させて怒鳴る薫に、は少しも悪いとは思っていないようにふわりと笑った。こう笑えば許してもらえると思っているような笑い方が、薫にはますます癇に障る。男には通用するかもしれないが、薫には通用しないのだ。
一緒に働いている妙や弥彦は良い人だと言っているけれど、薫はのことがあまり好きになれない。今日は料理を作りに来たと言っているし、悪い人間ではないのだろうが、彼女の持つ“女臭さ”が何となく厭なのだ。その上、剣心に関心を持っているようだから、薫には気が気でない。
一方、焼きもちを隠そうともしない薫の真っ直ぐさが、には少し羨ましい。が薫と同じくらいの歳の頃は、そんな風に感情を出すことは許されなかった。幕末と明治、密偵と道場主では、時代も環境も違うと言ってしまえばそれまでだが、好きな相手にそうやって負の感情を曝け出せる薫の素直さが羨ましくて、そして憎らしくもある。多分、自分が出来なかったことを易々とやってのけることへの僻みなのだろう。
僻みを自覚しながら、は意地悪な気持ちになって反論する。
「だって、弥彦君だって、そっちの由太郎君だって、緋村さんにも剣術を教えてもらいたいと思うの。私も、緋村さんが剣術やってるところを見てみたいし。だから、剣術をしているところを見せてください、ってお願いしていたの。別に見世物だなんて思っていないわ」
そう言いながら大きな目を潤ませるものだから、傍から見ると薫がを虐めているようである。そんなの様子に、薫は言葉に詰まってしまった。
この顔に変装すると、男も女もちょろいものだと、は腹の中で舌を出す。やはり女は顔だ。
弥彦も由太郎も、稽古の手を止めてこちらをじっと見ている。怒る薫と目を潤ませるしか見ていなかったから、二人とも薫を咎めるような目をしていて、ますます薫はあわあわしてしまう。
もう少し追い込んでやっても良かったのだが、あまり虐めるのも可哀想だから、この辺りで勘弁してやるかと、はにっこりと微笑んだ。
「誤解させてしまったのなら、ごめんなさい。
私、そろそろお食事の支度をしますね。今日は由太郎君も食べていくのかしら?」
の作った料理が、食卓にずらりと並べられる。神谷家の台所事情を考えて、安い食材で作ったものであるが、料理人の腕のせいか盛りつけのお陰か、見栄えのする夕食だ。
食事を作っている間に当たり前のように左之助もやって来て、我が家のように茶の間に座っている。どうやらこの様子では、いつも此処で御相伴にあずかっているようだ。パッとしない貧乏道場なのに三人も食客を養って、よく破産しないものだとは感心した。
「いただきまーす!」
食卓に全員が揃うと、一斉に皿に箸が伸びた。
稽古の後ということもあって、みんな箸が進んでいる。料理を作るのがあまり好きでなくても、自分が作った料理がどんどん無くなっていく様子を見るのは、やはり嬉しい。
「嬢ちゃんが作るのとは違うなあ。此処にあるもので作ったんだろ?」
「ええ。その辺にあるもので適当に」
食客のくせに一番よく食べている左之助に、はにこやかに答える。煮るだけとか焼くだけとか、すぐにできる簡単な料理ばかりなのに、こんなに喜んで食べてもらえると、は少し恥ずかしくなってしまう。好きでも何でもない連中だけど、こんなに喜ばれると、も嬉しい。
そういえば、蒼紫に自分の手料理を食べてもらったことは一度も無かった。蒼紫に作るのだったら、こんな手抜き料理ではなく、ちゃんとしたものを作ったのに。が作ったものを、こうやって喜んで食べてくれたら、どんなに嬉しかっただろう。
蒼紫は今頃、何を食べているのだろう。いつかのところに帰ってきたら、腕を振るって美味しいものを食べさせてあげたい。美味しいものをたくさん食べさせて、幸せな気持ちにさせてあげたい。
「適当に、でこれだけ作れるなんて、凄ぇよな。薫も見習えよ」
「うるさい! 私だってその気になれば、これくらいできるんだから」
偉そうに言う弥彦に、薫が怒鳴りつける。
「いやいや。嬢ちゃんは洒落にならねぇ料理下手だからな。姉さんも話のネタに一度食ってみるといいぜ」
「毎日食べに来てるくせに、何言ってんのよっ!」
「まあまあ。薫殿も以前に比べれば格段に上達しているし、なかなか味のある料理でござるよ」
「それって珍味かよ」
神谷道場の面々の会話が面白いように弾んでいく。人数が多いということもあるだろうが、賑やかな食卓である。こんなに賑やかな食事は何年振りだろうかとは思った。
新撰組の世話になっていた頃は、こんな風に賑やかに食事をしたこともあった。けれどそれも、密偵の仕事を本格的にある前の僅かな期間で、の食事の大部分は独りで済ませている。それが当たり前だと思っていたからさびしいと感じることは無いが、こんな賑やかな食事風景を見せられると、自分の食卓というのはやはり寂しいものののだろうかと少し考える。
まるで家族のような彼らの中に入り込めなくて、は黙って食べている由太郎をちらりと見た。彼もこの賑やかな食卓に唖然としているらしい。育ちが良さそうな少年だから、食事中にはお喋りをしないように躾けられているのかもしれない。
さっきから気になっていたこともあって、は由太郎に話しかけてみることにした。
「由太郎君だっけ? 君は正式に此処の門下生にはならないの? 剣術、好きなんでしょ?」
「うん……此処の剣術も楽しいけど、やっぱり先生に習いたいから」
由太郎の口は一寸重い。此処で剣術を習っているものの、本当は別の人間から習いたいと思っていることを申し訳なく思っているのかもしれない。
「先生?」
「石動雷十太っていう、真古流剣術の先生。今の道場だけの剣術じゃなくて、実戦剣術の流派なんだ」
「へーぇ………」
“真古流”なんて、聞いたことの無い流派だ。新興の流派なのだろうか。
だが、実戦剣術の流派というのは気になる。その石動雷十太という男の力量によっては、今度の仕事に使えるかもしれない。
の仕事は“人斬り抜刀斎”の力量を調べることだが、片手間に別の剣客を発掘するのも良いかもしれない。抜刀斎が使えなかった時のことを考えて、“保険”が必要だ。
「その先生は強いの?」
「強いに決まってるさ。先生は最強なんだ」
「ふーん………」
自信たっぷりに言う由太郎の目は、本当に“先生”が最強であることを心の底から信じているように強い光を放っている。
自身も思い当たるのだが、少年少女というのは尊敬する人物を過大評価しがちなものである。だから由太郎の言葉をどこまで信じて良いものか疑問ではあるものの、会ってみる価値はあるかもしれない。しかし蒼紫といい抜刀斎といい斎藤といい、世の中は“最強”の大安売りだと、は由太郎に気付かれないように小さく笑った。
「ねえ、由太郎君。その先生に会わせてくれない?」
「何で?」
ずいと身を乗り出して興味津々のに、由太郎は訝しげな顔をした。剣術をやっているわけでもない女が雷十太にただ事ではない関心を持つことを、不審に思っているのだろう。徳川の時代ならいざ知らず、明治の世になって剣術が強い男に興味を持つ女なんて、珍しいのだろう。
不審がる由太郎を納得させるように、は艶然と微笑んで言った。
「私、強い男の人が好きなの。特に、剣術の強い男の人がね」
神谷道場を持する頃には外はすっかり暗くなっていた。女の一人歩きは危ないからと、剣心と左之助が途中まで送ると申し出てくれたのだが、はそれを断って一人で歩いている。これから斎藤に会う約束があるのだから、ばったり鉢合わせてしまっては何かと都合が悪い。
今日は剣心の力量を見ることはできなかったが、思わぬ収穫があった。“石動雷十太”という名前も“真古流”という流派も聞いたことはないが、強ければ問題は無い。薫たちにそれとなく訊いたところ、前川道場という大きな道場の道場主を一撃で倒したというから、少しは期待できそうだ。
「随分とご機嫌じゃないか」
鼻歌交じりで歩いていたの後ろから、低い男の声がした。気配も無くいきなり声をかけられたものだから、は思わずびくりと身体を震わせる。
「びっくりするじゃないの。変質者かと思ったわ」
鼻歌を聞かれたのと、みっともない反応が恥ずかしくて、は怒ったような口調で背後の男―――――斎藤を睨みつけた。
変質者呼ばわりをされても、斎藤は眉一つ動かさず、いきなり本題に入った。
「抜刀斎はどうだった?」
「どうもこうも無いわ。あいつ、竹刀も握らないし、稽古を見てるだけなんだもの。でもね、別の収穫があったのよ」
「何だ?」
「“真古流”の石動雷十太」
「何だ、それは?」
初めて聞く名前に、斎藤は興味を持ったようにすっと目を細めた。それに対して、は得意げに鼻を鳴らして、
「実戦剣術をやってる男なんだってさ。そいつにくっついてる子が言うには、最強の剣客なんだって。会ってみる価値はあると思うな」
「全部伝聞、しかも子供の話か。つまらん」
自信満々に言うから何かと思えば。斎藤は失望したように小さく息を漏らした。
馬鹿にしたような斎藤の反応に、はむっとして、
「抜刀斎が使えるか使えないか判らないんだから、使えそうなのを新しく発掘するのも大事な仕事じゃないの。近いうちにその石動とかいう男と会ってみるから」
「ふん………まあいいさ。こっちも時間が無いんだ。あまり待たせるなよ」
何処までも偉そうな態度の斎藤に、は呆れたように小さく溜め息をつく。この男は昔からこうだった。いつも過剰なくらい偉そうで、なんでこんなに偉そうなのだろうと、はいつも不思議に思っていたものだ。
新撰組では幹部だったからそれでも許されたのだろうが、今はただの警部補で、それでよく通用するものだとは感心するやら呆れるやらで、思わず笑いが出てしまう。
いきなりくすくす笑い出したに、斎藤は怪訝な顔をした。
「何だ?」
「何でもない。まあ任せておいてよ。抜刀斎も雷十太も、近いうちにはっきりさせるからさ」
まだ笑いながら、それでもは自信たっぷりに胸を張った。