第三章 再始動
『赤べこ』に新しい女給が入ってから、明らかに男性客が増えた。“看板娘”というには少しトウが立っているから、“看板女給”といったところか。「でも、牛鍋屋の女給って感じじゃねぇよなあ」
座敷席に茶を運んでいる女給を見遣りながら、左之助が呟いた。
左之助の言う通り、その女給の雰囲気は『赤べこ』の雰囲気には合っていない。上手く表現できないのだが、彼女は一寸普通の女と違うような感じがするのだ。はっきり言ってしまうと、素人女ではない匂いがする。
顔立ちがそう思わせるのだろうか。一寸垂れ気味の大きな潤んだ目と、ぽってりとした唇。唇の上には黒子があるのだが、その位置がまた絶妙で色っぽいのだ。歳の頃も二十代半ばと若過ぎず年増過ぎず、良い感じである。
話し方も笑い方も、下品にならないぎりぎりの色っぽさで、男心を掴むツボをしっかり心得ている。玄人女にもそうそうできる業ではない。
楽しそうに客と話している女給を見ながら、店主である妙が応える。
「前はお茶屋さんにいたって言うてましたもんねぇ」
「ああ、道理で―――――」
「男の扱いに慣れてます、って感じだよなあ」
左之助の言葉を弥彦が継いだ。その生意気な口調に、薫がポコッと頭を叩いて、
「子供がそんなこと言うもんじゃないの!」
とはいえ、弥彦の言う通り、あの女給は男客のあしらいが巧いと薫も思う。酔客の軽口も誘いもさらりと受け流して、その上相手を上機嫌にさせるのだから、只者ではない。しかも、お色気たっぷりの美人なのだ。男相手の商売を長くやっていたのだろうとは思う。
その女給が通ると、男客は誰でも目を奪われる。薫には何も感じられないが、男を引き寄せる何かを持っているのだろう。何だかんだ言いながら、左之助だって気にしている様子だし、剣心も―――――
「剣心も、ああいうのが良いんだ?」
女給の横顔をじっと見ている剣心に、薫が一寸怒ったような冷やかな口調で尋ねた。特定の女性に強い関心を持たない剣心でも、ああいう絵に描いたような色気のある女には弱いのかと思うと、自分でも良く解らないが薫は腹が立つ。ああいう色気は自分には無いことを自覚しているせいだろう。
あの手の女は、男には好かれるのかもしれないが、女には嫌われる典型だと薫は思う。彼女も色気のある女は良いなと思うが、あの女給は女臭過ぎるのだ。昼間の仕事をしているくせに、あんな水商売の雰囲気を引きずっているような女は、何となく気持ちが悪い。剣心にはそういうのが判らないのだろうか。
一寸むくれた顔をする薫に、左之助がからかうように楽しげに笑って、
「そりゃあ、男だったらああいうのが良いに決まってるよなあ? 嬢ちゃんもちったぁ見習ったらどうでぇ?」
「や、そういうわけではないでござるよ。何処かで見た顔だと思って………」
胸の前で両手を振って、剣心は誤魔化すように笑顔で言った。
ああいう色気過剰な雰囲気の女は、剣心はどちらかというと苦手な部類の女である。苦手ではあるのだが、あの女は何処かで会ったような気がして、目が離せないのだ。ああいう特徴のある顔立ちなら、すぐに思い出せそうなものであるが、記憶に靄がかかったような感じでどうしても思い出せない。
思い出せそうで思い出せないというのは、どうにも気分が悪い。頭の中が痒くなるような、何とも不快な感じがする。それで記憶の糸を手繰るために、女給の顔をじっと見ていたのだ。それでもまだ思い出せないのだが。
いつものほほんとしている彼にしては珍しく眉間に皺を寄せているのを見て、妙が一寸面白そうに提案した。
「もっと近くで見たら、思い出せるかもしれませんねぇ。さーん、一寸」
「あ、いや………」
剣心が止めるよりも先に、妙が女給を呼んだ。薫はますます面白くなさそうな顔をするが、妙にはそれがまた面白いようである。何か一波乱起こるのを期待しているのだろうか。ちょっと軽めの男女間の縺れというのは、他人には結構面白いものなのだ。
と呼ばれた女給は、一緒に話していた客に何やら言って軽く頭を下げると、妙の方に小走りに駆け寄って来た。そして零れるような色っぽい笑顔で、
「何でしょう?」
一寸低めの落ち着いた声も、“大人の女”といった感じだ。“大人の女”というと、薫が知っているのは目の前の妙か、最近親しくなった恵くらいのものであるが、その二人とも全く違う種類の“大人の女”だ。
歳の割には落ち着きの無い妙と違うのは当然だが、美人で気の強いしっかり者の恵とも違う。何というかは、なよなよしていて捉えどころの無い、それでいて強かな感じがする。この女は良くない、と本能的に拒絶したくなるような類の女だ。
が、妙はそんな薫の様子など知らぬ風に、相変わらずにこにこしたままを紹介する。
「こちらね、私のお友達で、お店にもよく来てくれはる神谷薫さん。弥彦君の剣術のお師匠さんで、神谷道場っていう剣術道場をしてはるの。で、こちらの赤毛の人が、居候の緋村剣心さん。こっちの大きい人が、そのお友達の相楽左之助さん。うちにツケが溜まってるんだけど、全然払ってくれないの」
「初めまして。先週から此処でお世話になってます、です。よろしくお願いします」
座敷席の一同を見回すように視線を流すと、はふわりと頭を下げた。こうやって礼儀正しく頭を下げる姿は、何処ぞの御新造さんのように上品だ。色気たっぷりでも下品にならないのは、こういう肝心なところは上品に纏めているからなのだろう。なかなかのやり手である。
「でね、こちらの緋村さんが、さんと何処かで会ったことがあるような気がするって、言われてね。さん、憶えある?」
妙の言葉に、は一寸考え込むように首を傾げた。記憶の糸を手繰るような悩ましい表情にも、また風情がある。そういう一寸した仕草も、男にどう見られているのか研究しているのではないかと、薫はちょっと厭な感じがした。
暫くそうやって考えていたが、にも憶えが無いのか、申し訳なさそうな顔をした。
「すみません。一寸判らないですねぇ。もしかしたら、前に働いていたお店でお会いしたのかしら?」
「お店って?」
身を乗り出して訊きたいのをぐっと堪えて、薫はさりげなさを装って尋ねる。が、目は興味津々だ。
そんな薫の様子に、は一瞬驚いた表情を見せた。が、すぐに元の捉えどころの無い柔らかな笑顔に戻って、
「お茶屋さんですよ」
「剣心、そんなところに行ってたの?」
横目でちらりと冷やかな視線を送って、薫が面白くなさそうに尋ねる。
薫はよく知らないが、お茶屋さんというのは、美人が茶や酒を出して、男の相手をする店らしい。話をするだけでそれ以上の行為は無く、それほどいかがわしい店ではないのだが、好きな男が行っていると思うと薫には面白くはない。
「ち……違うでござるよ! 行ってないでござるよ」
身に覚えの無い疑惑をかけられて剣心は慌てて否定するが、それが薫には余計に怪しく感じられる。
不機嫌になる薫と、誤解を解こうとする剣心の姿を見て、は可笑しそうにくすくす笑った。
「大丈夫ですよ。こんな赤毛の剣客さん、一度お見えになったら忘れませんもの。私がいた店には、多分いらしたことはありませんよ」
「他の店には言ったことがあるって言い方だなあ」
の言葉尻を捉えて、左之助が突っ込んだ。それに対しても、は少しも動じずに微笑んだまま、
「お茶屋さんに行ったことの無い男の人なんて、あまりいらっしゃらないでしょう? 左之助さんは行かれたこと無いんですか?」
「う………」
それには左之助も言葉に詰まってしまった。確かにいい歳した男で、お茶屋に行ったことが無いなんてあまりいないだろう。勿論左之助だって、行ったことがある。
そんな彼の様子を面白そうに見遣っただったが、離れた席にいる客に呼ばれ、一礼してその場から離れた。
注文を取るを見ながら、左之助は腕を組んで小さく唸る。
「何ていうか、あの女狐とは違った意味で曲者な女だなあ」
恵も本性が出たら一癖ある女だったが、もどうやら色気だけの女ではないらしい。恵は直球攻撃だが、は色気と上品さを併せて攻撃してくるのだから、余計に性質が悪いのだ。ああいう女は絡みづらくて、恵を相手にするような調子ですぐに言い返すことが出来ない。
「でも、とても良い人ですよ。お客さんの評判も良いですしね」
「ま、あいつ目当ての客もいるしな。一緒に働いてても、悪い奴じゃないと思うぜ」
妙と弥彦が一緒に言った。
昼休み、は『赤べこ』近くの蕎麦屋に行った。『赤べこ』では賄いが出るのだが、今日は人に会う用事があるからと、店を抜けてきたのだ。
店内を見回すが、まだ相手は来ていないようである。は奥の座敷席に入ると、茶を持ってきた店員に天ざる蕎麦を注文した。
茶を啜りながら、さっき相手をした客のことを思い出す。緋村剣心は―――――にとっては緋村“抜刀斎”といった方が馴染みが良いのだが―――――まだ彼女の正体に気付いてはいない。観柳邸で会った時も、今も気付いていないようだし、それどころか観柳邸のメイドと同一人物であるということにすら気付いていない様子だった。あの時一緒にいた左之助も、今では一緒に働いている弥彦ですら、まだ気付いていないようだ。
確かにメイドだった時の化粧はかなり若作りしていたし、声も喋り方も今とは少し変えてはいた。それでも、何度か間近で顔を見せているのである。それで気付かないというのは、の変装の技術が尋常でないのか、それとも彼らが尋常でなくぼんやりしているのか。
新撰組にいた頃、監察方の山崎から「お前のような特徴の無い美人顔は変装に向いている」と言われたことがあった。あの時は“特徴の無い”という部分を強調されたようで少しむっとしたものだが、今思うと褒められていたのだろう。密偵の仕事をする時は、いくらでも別人になりすませるのは、やはり得である。
久し振りに昔のことを懐かしく思い出していると、待ち人が座敷に上がってきた。
「待たせたな」
腰に帯びた日本刀を外し、警官の制服を着た斎藤がの対面に座る。
「別に。さっき来たばかりだから」
湯呑を置いて、は静かに応える。
注文を取りにきた店員にかけ蕎麦を注文すると、斎藤はおもむろに茶封筒を出した。
「今月の分だ」
「どうも」
封筒を受け取ると、は中身を確認する。傍から見ると、“今月の御手当”を貰う愛人のようだが、警視庁からの給料だ。密偵の仕事をしている間は警視庁に登庁することが無いから、こうやって外で上司から給料を貰うのだ。
すぐに持っていた巾着袋に封筒をしまうと、は早速本題に入った。
「やっと抜刀斎に接触できたけど、やっぱり昔とは違うわね。すっかり今の世の中に溶け込んでる」
昔の抜刀斎だったら、あんな和やかな雰囲気で食事をするなんたことは無かったはずだ。まだ“恋人”とはいかないまでも、そうなりそうな親しい少女がいて、友人がいて、抜刀斎自身もあの頃とは別人のような穏やかな雰囲気を纏っている。彼はもう、“人斬り抜刀斎“であった頃の自分を忘れて、“緋村剣心”として明治の世を生きているのだろうか。
だとしたら何故あの時、蒼紫に“もう一度自分と戦え”と言ったのか。“緋村剣心”として生きるのなら、そんな蒼紫を煽るようなことを言うべきではなかったのに。あの男があんなことを言わなければ、蒼紫が行方不明になることはなかったのに。あんなことを言ったくせに、今日の剣心の様子は、蒼紫のことも忘れているように見えた。
蒼紫の行方は、未だに手掛かりすら掴めていない。自決はしていないと思う。けれど、剣心のように穏やかに過ごしてもいないだろう。今何をしているのか、何を思っているのか、はいつも考える。
「お前の目から見て、どう思う? “人斬り”として使えそうか?」
「さあ……どうかしらね。観柳の屋敷で見た時は、かなりの使い手だと思ったけれど」
蒼紫が勝てなかったということは、剣心の腕は衰えていないということだ。けれど、人斬りとして使えるかと問われると、にはまだ何とも答えられない。
人を斬るというのは、ある程度の技術があれば誰にでもできる。いくら技術があっても、人を殺すことに抵抗を覚えるようでは、人斬りとしては使えない。
快楽殺人者でもない限り、大抵の人間は人を殺すことを恐れるものだ。命を奪う罪悪感のためなのか、自分が斬った相手を通して未来の自分の姿を見るからなのかは判らないが、人を殺して平静でいられる人間はなかなかいない。たとえそれを乗り越えられたとしても、何人も斬っていくうちに、自覚の無いまま精神は不安定になっていく。そしていつか、心の均衡を失ってしまうのだ。今ののように。
罪の意識にも恐怖にも、そして自分の中に溜まっていく澱のようなものにも耐えられる強靭な精神力が無ければ、人斬りとしては使えない。さて、緋村剣心はどうだろう。
「調べるには、もう少し時間が要るわ。あの男が住んでる神谷道場に入り込まないと」
店員が天ざる蕎麦とかけ蕎麦を持って来たので、一旦話を打ち切る。
警官と玄人の匂いのする女の組み合わせに、店員は一瞬妙な表情を見せたが、あまり二人の顔を見ないようにしてそれぞれの前に器を置いた。大方、水商売の女が常連客相手に営業をかけていると思ったのだろう。
「じゃ、いただきますか」
そう言うと、はパチンと割り箸を割った。斎藤も無言で箸を割って、かけ蕎麦を啜り始める。
二人とも、暫く無言で蕎麦を啜っていたが、斎藤がふと思いついたように言った。
「それにしても、お前の顔は別人のように変わるな」
新撰組時代も思っていたが、の顔は化粧次第で驚くほど別人のようになる。観柳邸でメイドをしていた時は、切れ長の大きな目と薄い唇の、美少女といっても差し支えのない若々しい姿だった。けれど今は、垂れ目がちの潤んだ目とぽってりとした唇の、婀娜っぽい女だ。どちらが本当のの顔だろうと思う。
感心する斎藤に、は小さな含み笑いを見せて、
「昔取った杵柄ってやつかしら。それにね、どんな女も、化粧次第で変わるものなのよ。目の縁に線を入れて、唇も大きめに輪郭を取って、後この付け黒子。黒子で印象はかなり変わるんだから」
「へぇ………」
化粧については斎藤はよく解らないが、がそう言うのなら、そうなのだろう。妻の時尾も化粧を変えたり付け黒子を付けたら全くの別人のような顔になるのだろうかと、一寸考える。変わったら面白いだろうが、化粧を変えてみてくれとは、斎藤の口からは一寸言えない。
化粧を変えた時尾の顔を想像する斎藤に、今度はが質問する。
「そんなことより、蒼紫のこと、ちゃんと捜してくれてるの?」
あれから一ヶ月近く経つが、蒼紫の足取りは未だ掴めない。警察の組織力を使えばすぐに見付かると思っていたのに、まだ何の情報も入って来ないらしいのだ。蒼紫が天才隠密だったということを考えても、手がかり一つ掴めないというのはどういうことなのか。日本の警察というのはそんなにも無能なのか。
不審そうな顔でじっと見るに、斎藤は蕎麦を啜るのを一旦止めて、
「捜してはいるさ。約束だからな」
それは嘘だ。最初の夜にと約束したものの、たかだか女の密偵一人のために警察力を総動員させて人捜しなんか出来るわけがない。たとえ出来たとしても、蒼紫を捜したりはしなかっただろう。蒼紫が見付かったら、は彼と一緒に何処かへ行ってしまうに決まっているのだ。
あれからまだ一ヶ月もたっていないというのに、は顔を合わせる度にこうやって蒼紫を捜しているのかとせっついてくる。それだけ蒼紫に会いたいのだろうが、そうやってせっつかれる度に斎藤は苛々してしまう。多分、新撰組時代に「土方さんは? 土方さんは?」といつも尋ねられていたことを思い出して、嫌な気分になるのだろう。
四乃森蒼紫という男については、斎藤も少し調べた。15歳で江戸城御庭番衆の最後の御頭を務めた、天才隠密だったという。徳川が瓦解した後は、至る所から引き抜きの話があったものの何故か全て蹴って、日本各地を転々としていたらしい。そしてと再会し、今に至るわけだ。戦闘能力は、抜刀斎と対等に渡り合えたのだから、おそらくずば抜けたものを持っているのだろう。けれど、男としてはどうかというと、甚だ疑問だ。
蒼紫が本当にのことを大切に思っているのなら、彼女の前から姿を消すなんてことはしないはずだ。そんな男のことをそんなに心配しているなんて、昔の繰り返しではないか。女というのは、一度悪い男に引っかかると、その次もずっと悪い男に引っ掛かり続けることが多いが、どうやらもそうらしい。斎藤は心の中で溜め息をついた。
しかし、四乃森蒼紫の戦闘能力に斎藤も興味を持っているのも事実。元御庭番衆御頭という経歴は、今度の仕事に使うには魅力的だ。
「人捜しというのは、気が遠くなるような作業なんだよ。それに御頭サンも、そう簡単に足がつくような間抜けな消え方はしてないだろうしな」
話を打ち切るようにそう言いながら、斎藤は蕎麦の汁を啜る。そして、不満そうに口を尖らせて睨むを丼越しにちらりと見て、喉の奥で小さく笑った。
「そんな顔をするな。俺は約束は守る。昔からそうだっただろう?」
昔から、斎藤はとの約束を破ったことは無かった。これからも、彼女との約束は守り続けるつもりだ。
四乃森蒼紫のことは、警察を使ってまでも捜さないし、捜せない。けれど、斎藤の情報網に引っ掛かることがあるかもしれないから、それに引っ掛かれば捜してやろうとは思う。ただし、見つけ出したところで、に会わせるかどうかは、また別の話だが。
次の仕事で抜刀斎が使い物にならないようだったら、四乃森蒼紫を使っても良い。駒は、多くあって困るものではないのだ。利用できるものなら、何でも利用してやる。その男が、を傷付けない限りは。
「………うん」
まだ不満そうであるが、は小さく頷いた。