第二章  復讐

 斎藤との短い会談の後、は部屋を移動させられた。今度の部屋も独房だが、部屋は地上にあって、しかも小さくはあるが鉄格子付きの窓があり、さっきの部屋よりは空気が良くて開放感がある。小さくても窓があるのは良いことだ。
 しかも床は畳敷きで、いつ干したのかは不明だが、一応布団もある。それより何より、厠が個室になっているのだ。人間的な生活を送るにはあまりにも基本的なことだが、仕切りがあるのは本当に嬉しい。
 新しい部屋に移動する途中、少しだけ看守と話すことが出来た。彼の話によると、最初に入れられた独房は、凶悪犯や手に負えない囚人を収容する懲罰房だったらしい。道理でひどい部屋だったはずだ。しかも、そこにをぶち込んだのが“藤田警部補“の指示によるものだと聞いて、心底驚いた。あの男は自分に何か恨みでも持っているのかと、は過去の行状を真剣に思い返してしまったほどだ。
 とりあえずその日は翌日の取り調べに備えて熟睡したのだが、次の日はのことなど忘れ去られているかのように一日中放置状態だった。まあ、観柳の取り調べと屋敷の捜索に時間も人員も割かれて、のような小物を相手にしている暇など無いのだろう。放置されているとはいっても、時間になれば三度の食事は運ばれてくるのだから、としては何の問題も無いのだが。問題があるとすれば、暇つぶしをするものが何一つ無くて、長い一日をどう消費すれば良いか分からないということくらいか。
 しかし、何もすることが無くても夜が来れば自然と眠くなる。支給された寝間着に着替えると、は長すぎる一日を一分でも早く終わらせるかのように、消灯時間前に布団に入ってしまった。
 どんな場所でもどんな状況でも熟睡できるというのが、の特技である。いつ干したのか判らないような湿っぽい煎餅布団でも、布団があれば即行で熟睡だ。神経が図太いというか、無神経というか、それくらいでなければ隠密も密偵も務まらない。
 そういうわけで、夢も見ないほどに熟睡していただったのだが―――――
「おい、起きろ。バカ女」
 不機嫌な男の声と共に、腹に何かが圧し掛かったような重圧感を感じて、は目を醒ました。
「ぐえぇぇぇ〜〜〜〜〜っっっ!!!」
 押し潰された食用蛙のような悲鳴を上げて目を開けると、そこには布団の上からの腹を片足で踏みつけている斎藤が立っていた。苦虫を噛み潰したような顔をしているが、別に寝込みを襲いに来たわけではないらしい。
 抵抗をするように両手で宙を掻くを見て、斎藤は漸く腹の上に乗せた足から力を抜く。けれど、足は腹に乗せたまま、
「やっと起きたか」
「あ……あんたねっ! もう少し人間らしい起こし方しなさいよっっ!」
 状態を中途半端に起こして、は抗議の声を上げた。他人が熟睡しているところに、いきなり腹を踏みつけるなんて、人としてどうかと思うような起こし方だ。いくらが多少のことでは朝まで目を醒まさないとはいえ、仮にも女の腹を踏みつけにするなどあり得ない。
 が、斎藤は鼻先で嗤って、
「声を掛けてやっても起きんからだろうが。それに―――――」
 斎藤の目が細められたかと思うと、腹に乗せられていた足に一気に力が込められ、ぐりぐりと踏みにじられる。
「ぐあぁぁぁぁっっ!!!」
「お前のせいで、こっちは手当無しの時間外勤務なんだよっ!」
 起こすためでなく、時間外勤務の腹いせだったらしい。その時間外勤務がのせいということだが、それにしてもこの仕打ちはひどすぎる。
 暫く無言で腹を踏みにじっていた斎藤だったが、気が済んだのか漸く足を離した。
 やっと腹が解放されて、は肩で息をしながらぐったりと布団に突っ伏す。流石に全体重はかけられていないと思うが、確実に半分はかけられていたと思う。胃袋がつぶれて死ぬかと思った。
 軽く吐きそうになっているを見下ろして、斎藤は感情を出さない声で淡々と言った。
「交渉成立だ。上の承諾が下りた」
 そう言うが早いか、の前に和泉守兼定を置いた。
 驚いて顔を上げるに、斎藤は相変わらずの無表情で話を続ける。
「観柳の奴、予想外に政界に食い込んでいたらしい。奴を締め上げると、非常に困るお偉いさんたちがいるようだ。だから、表向きは自殺ってことで、な」
「ああ………」
 観柳邸の夜会に来ていた客の顔を思い返す。確かにあの場には、新聞にも出てくるような政治家も何人か顔を出していた。大方、資金面や裏社会との繋がりで持ちつ持たれつの関係だったのだろう。
 観柳の自白によっては、下手すれば政界を揺るがす大醜聞に発展するかもしれない。政治家の中からも逮捕者が出るかもしれないし、そうなれば後ろ暗いところがあるお偉いさんが裏から警察に手を回すこともあるだろう。の交換条件は、上の人間にとっては渡りに船だったらしい。
「その格好じゃアレだから、着替えてから行くぞ」
 兼定の鞘を握り、は力強く頷いた。





 観柳も、の部屋と同じ作りの独房に入っていた。あの大豪邸から比べれば天国と地獄のような差だろうが、取り調べに疲れていたのか、粗末な煎餅布団の中でもぐっすりと寝込んでいた。
 は観柳の布団の脇に正座すると、手にしていた刀を後ろ手に隠して囁くように声を掛けた。
「観柳さま、起きてください」
 観柳のメイドだった時と同じ声音だ。いきなり斬りつけるのではなく、少し良い思いをさせてから斬るつもりだった。それは勿論温情などではなく、そっちの方が観柳の絶望が大きいからだ。ただ殺すのではなく、精神的にも打撃を与えてから殺すつもりだった。
 の優しい声に、観柳が薄く目を開ける。そこにはメイド服を着たの姿があって、観柳は信じられないものを見たようにぎょっとして布団から跳び起きた。
っ?! どうして此処に………っ?!」
 腰を抜かさんばかりに驚愕の表情を浮かべる観柳に、はにっこりと微笑んで後ろにいる斎藤を視線で指す。
「あの巡査さんにお願いしたんです」
「な……何を………?」
「観柳さまを此処から出してもらえるようにですよ」
「どうやって………?」
「そりゃあ………私にできることで、と言ったらお解りでしょう?」
 信じられないといった表情の観柳に、は恥ずかしそうに目を伏せる。その表情に淫蕩なものが宿ったのを見て、観柳は全てを理解したように小さく声を上げた。
 観柳が何を想像したのかは、の知ったことではない。そう思わせておけば話が早いし、嘘をついたわけでもないのだ。“私ができること”で取り引きをしたのも事実で、観柳を此処から出すのもまた事実。何一つ嘘はついていない。
「だから観柳様―――――」
 ゆっくりと視線を上げ、は後ろ手に隠していた刀をスラリと抜いた。
「往生しなさいな」
 観柳の鼻先に刀を突き付けたの顔は暗殺者の顔で、その目には人を殺すことへの迷いなど欠片も無い。
「なっ、何を………っ?!」
 此処から出られると思っていたのに日本刀を出され、観柳は失禁しそうなほどの驚愕の表情を浮かべた。真っ青になって後ずさるが、立ち上がって逃げる様子は無い。どうやら腰を抜かして、思うように動けないらしい。こんな情けない男に御庭番衆の四人が殺されて、蒼紫が傷付けられたのかと思うと、改めて憎しみが湧いてくる。
 さてどうやって殺してやろうかと、星座で刀を構えたままは考える。急所を外してザクザクと刺してやるも良し、死なない程度に膾切りにしてから止めを刺すも良し。何しろ五人分の敵討ちである。そう簡単に済ますわけにはいかない。
 口の端を吊り上げて残酷な笑みを浮かべるに、いつの間にやら煙草を吸い始めていた斎藤が口を挟む。
「どうでもいいが、早く済ませろよ。あと30分もすれば看守が見回りに来る」
「そう」
 30分で観柳を殺し、何事も無かったように自分の布団に戻っていなければならないとなると、ゆっくりいたぶっている時間は無い。甚だ不本意ではあるが、一気に片を付けなければならないらしい。
 は緊張を解すように大きく深呼吸をすると、片膝を立てると同時に一気に観柳の腹を斬りつけた。
「―――――――――っっっ!!!」
 獣じみた悲鳴を上げながらのた打ち回る観柳の口に、斎藤がすかさず枕を押し付けた。それでも枕の下からくぐもった声が漏れる。
「踏み込みが甘いな。腕が鈍ったか」
「まさか。わざとよ。簡単に死なせるつもりは無いの」
 斎藤の皮肉に吐き捨てるように答えると、は兼定を鞘に収めて立ち上がった。
 血の臭いで吐き気がしたが、斎藤の前でそんな素振りを見せるのは嫌だった。そんな姿を見せたら、何を言われるか分かったものではない。
 観柳と斎藤への意地だけで立っているような状態だが、それでもは冷たい声で観柳に語りかける。
「みっともないわねぇ。蒼紫も御庭番衆のみんなも、そんなに見苦しくのたうち回ったり、悲鳴を上げたりなんかしなかったわよ。全身を回転式機関砲(ガトリングガン)で撃ち抜かれて、あんたの何倍も痛かったはずなのに」
 その言葉に、観柳も漸くの正体に気付いたらしい。驚愕したように大きく目を見開いたが、すぐに命乞いをするような目になって、何やら唸り始める。その姿を嘲笑うように、は小さく喉を鳴らした。
「抜刀斎じゃないけど、命乞いならお金様にしたらどう? お金こそ最強なんでしょう?」
 確かに金で買える回転式機関銃は刀に勝る。金さえあれば、大抵のものは手に入れられる。けれど、金の力ではどうしようもないものも、この世には確かにあるのだ。この男は今際の際にそれを知ることになったのだが。
 金の力を盲目的に信じていたこの男の、金ではどうしようもないことがあると知った絶望は如何ほどのものだろう。きっとこの男は、金の力で無罪放免になるとさえ信じていたはずだ。それが、トカゲの尻尾切りで、この様だ。可笑しくて可笑しくて、は笑いを堪えることが出来ない。
「お楽しみのところ悪いが、そろそろ止めを刺してくれないか? さっきの悲鳴で看守が来たらまずい」
 現実に引き戻すように、斎藤が事務的な口調で口を挟んだ。
 もう少しこの男の絶望の表情を楽しみたかったのだが、斎藤の言うことも尤もだ。は残念そうに舌打ちをすると、兼定を抜いて一気に観柳の喉を貫いた。
 観柳の身体が大きくのけ反り、そのまま痙攣したかと思うと、ぐったりと動かなくなった。完全に息絶えたことを確認して、は小さく息を吐いた。
 四人の仇は討てたけれど、蒼紫の代わりに復讐は出来たけれど、でももう何もかも手遅れなのだ。死んだ四人は生き返らないし、蒼紫もの傍にはいてくれない。警察の情報網で蒼紫を見付けることが出来たとして、彼を御頭だった頃の蒼紫に戻すことができるのだろうか。
 の中で張り詰めていた気持ちが一気に緩んで、足許から崩れるようにへたり込んでしまう。とたんに血の匂いが鼻を突いて、思わず両手で口を覆った。
「どうした?」
 真っ青な顔で苦しげに浅い呼吸を繰り返すに気付いて、斎藤が驚いた顔で彼女の前にしゃがんだ。口を覆う手は指先が真っ白で、触れると死体のように冷たい。
 斎藤の前では弱味は見せたくない。正気を保たなくてはと思うのだが、そう思うとますます頭に靄がかかったようになってしまう。全身が冷たくなって自分の身体がひどく重いものに感じられ、はとうとう斎藤の胸に倒れ込んでしまった。
「大丈夫か?!」
 体温を失ったの両肩を掴んで、斎藤は慌てた声を上げた。
「………ごめんなさ……あたし………血の臭いが、もう………」
 息も絶え絶えになりながら、は力の無い声で応える。
「………土方さんが死んでから………いつも、こうなるの………大丈夫だから………」
「こんなになって大丈夫なわけあるか!」
 その言葉と同時に、の身体がふわりと浮いた。それが斎藤に抱き上げられたのだと気付くと、は今度は顔を赤くして力無く抵抗する。
「やっ……降ろしてっ………!」
「一人で歩けんくせに、何言ってるんだ。ぐずぐずしていると看守が来る」
 それを言われると、もそれ以上何も言えない。この状態では、暫くは自力では動けないのだ。
 下を向いて大人しくなったに、斎藤は小さく鼻を鳴らして言った。
「ったく、昔から手間かけさせる奴だな」
 言葉こそ迷惑がっているものの、その声音はどことなく優しくて、まるで手のかかる子供を持った父親のようだ。そう言えば斎藤は、昔からに対してはそうだったような気がする。十歳近く年が離れていて、子供と言ってもいい頃からを知っているから、こんな保護者のような言い方をするのだろう。
 さっきは腹を踏みつけにしていたくせに、今はお姫様抱っこなんかしてくれて、斎藤は意地悪なのか優しいのか、には分からなくなってしまう。
 この男は昔からそうだった。に対して嫌がらせかと思うようなことを言ったりやったりするくせに、こうやって優しくしてくれたり、が危ない目に遭った時には一番に駆けつけてくれていた。
 いつだったかもこうやって抱き上げてもらったことがあったな、とはふと思い出した。あれは何の時だっただろう。
 気が付けば、いつの間にやら呼吸は落ち着いていた。降ろしてもらおうかと思ったが、斎藤の顔を見たら、もう少しだけこのままでいようかと、は甘えたことを思ってしまうのだった。
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