第一章  取り引き

 いわゆる“独房”というところらしい。出入り口に小さな格子窓がある以外は、外に繋がる窓は一つもない。おまけに地下にあるものだから、換気が悪くて湿気があり、最悪の住環境である。
 手錠を掛けられた手を行儀良く膝の上に置いて粗末なベッドに腰かけているは、は目だけで室内を見回した。
 明かりは、天井からぶら下げられているランプが一つ。調度品と言えるのは、が腰かけているベッドくらいなものである。部屋の隅に便器に使うらしい桶があるが、目隠しになるような物は何も無く、とても使う気にはなれない代物だ。劣悪な環境は別に構わないが、これだけは困る。
 生理現象が来る前にあの男が来てくれないものかと、は切実に思う。観柳邸で見た人影の正体が彼ならば、昔のよしみで少しはマシな部屋に移してくれるかもしれない。それに、あの男には頼みたいこともあった。
 そんなことを考えていると、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。随分とゆっくりとした足取りで、を此処に連れて来た看守のものではないのようだ。
 足音はだんだんと近付いてきて、の部屋の前で止まった。
 格子窓から見えたのは、警官の制服を着た男の顔の下半分。人並みの身長であれば顔が全て見えるのだが、その男は人並み以上に背が高い。
 かちりと開錠する音がして、扉が重い音を立てて開いた。
「よう、久し振りだな」
 数カ月ぶりの再会のような軽い口調で、その男は言った。
 皮肉っぽい笑い方も口調も、昔のままだ。昔に比べると少し頬の辺りが削げたような感じがするが、それ以外は十年前とさほど変わらない。
 男の顔を見上げ、も同じように口の端を吊り上げる。
「本当に………。会津で別れたきりだから、かれこれ十年ぶりかしらね、斎藤さん」
「今は“藤田五郎と名乗っている」
「また名前変えたんだ」
 が知っているだけで、斎藤は二回名前を変えている。
「“斎藤一”も“山口次郎”も、今の時代では生きづらいんでな」
 今に至るまでに色々あったのだろう。斎藤は苦い笑いを見せた。
 名前を変えても、その姿はが知っている幕末の頃のままだ。今もあの頃のように、“悪・即・斬”の言葉の下に刀を振るっているのだろうか。
 斎藤の腰にある刀に、は目をやった。警官はサーベルを装備しているはずだが、彼の腰にあるのは幕末の頃に使っていたも知っているものだ。無名だが、彼にとっては菊一文字にも勝る刀だと、昔言っていた。
「名前を変えても、姿は昔と変わらないわね。ま、老け顔だからだろうけどさ」
 そう言って、は小さく笑った。
 そんな微妙に失礼なの台詞に、斎藤も皮肉っぽく笑って、
「お前も昔のままだな。化粧のせいか?」
 互いに余計な一言を忘れないのも、昔のままである。歳を取ると人間が出来て丸くなるというが、口の悪さは十年程度では治らないものらしい。
 十年ぶりの再開で、おまけに頼みたいこともあるのだから、今日だけは大人しくしておこうと思っていただったが、斎藤を目の前にすると何故か毒舌を吐いてしまう。は元々は毒舌家ではないし、蒼紫の前では絶対にそんな口は利かない。どうして斎藤が相手だとそうなってしまうのか、昔から不思議に思っていた。まあ、相性というものなのだろう。
 それは兎も角、今日は斎藤に頼み事があるから、少し下手に出なければならない。気持ちを切り替えるように、は目を閉じて小さく息を吐いた。
「斎藤さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「厠か? それ使え」
 媚を含んだ上目遣いのに、斎藤はけんもほろろに言う。
「違うっ! つか、そんなもん使えるかっっ」
 耳まで真っ赤にして、は思いっきり否定する。いくら彼女の神経が図太いとはいえ、妙齢の女なのだ。死んでもこんなものでは出来ない。
「じゃあ、これか?」
 の反応ににこりともせず、斎藤は後ろに回していた右手を出した。その手に握られていたのは、蘇芳色の鞘に収められた日本刀―――――
「返して!! それ、私の―――――」
 その刀を見た途端、はベッドを蹴るように立ち上がって刀に飛びかかる。
 が、その手が刀に触れる寸前、斎藤は身を翻し、同時にの足を払った。手錠をかけられた不自由な体で受け身を取れず、は肩から無様に倒れる。
「いた………何するのよ?!」
「和泉守兼定か………。良い刀だな」
 の抗議の声など聞こえないように、斎藤は刀をしみじみと見て独りごちる。この刀を見るのも、十年ぶりだ。まさか今頃になってこの刀と再会することになろうとは、彼自身思わなかった。
「返してよ! それ、私の刀よ!」
「お前の刀じゃないだろうが」
 床に這いつくばって甲高い声で叫ぶに、斎藤は冷やかに言う。そして手錠を掴み、の上体を引き上げた。
「どうして土方さんの刀を、お前が持ってるんだ?」
「市村君から預かったのよ」
 憮然とした顔で、が言い訳がましく小声で答える。
 函館戦争の末期、新撰組副長・土方歳三の小姓だった市村鉄之助が五稜郭脱出の際に形見として預けられた兼定を、が彼から預かったのだ。土方は死ぬ気だけれど、の手で彼を五稜郭から脱出させ、兼定を返すと、市村と約束した。その約束を果たされることは無かったけれど。
 勿論、この刀は土方の縁者に返さなければならないと、も思っている。本当の持ち主である土方がそれを望んでいたのだから。けれど、この刀を失ってしまったら、自分と土方との繋がりが消えてしまいそうで、怖かった。
「お願い。その刀が無いと生きていけないの。だから返して」
 今度はすがるような目で、は哀願する。今、この刀を取り上げられるわけにはいかなかった。土方を失い、蒼紫も失って、この上に兼定まで失ってしまったら、は生きる支えを失ってしまう。
 が、斎藤は冷ややかな目でを見下ろして、
「お前はまだ、あの人に縛られているのか?」
 まだ少女だったが土方を慕っていたことは、斎藤も知っていた。少女が大人の男に憧れる淡い気持ではなく、大人の女が男を慕うように、そして少女の直向きさでその気持ちをぶつけていたことも知っている。彼のためにどんな仕事も引き受け、自分が壊れてしまうような辛いことさえこなしてきた。そんな時のを支えていたのが斎藤だったから、よく知っている。
 報われもしないのに、そうやって自分を壊すほどに土方を慕っている姿を見て、馬鹿な娘だと思っていた。そして、土方が死んだ後も変わらず慕っているような姿に、斎藤は本格的に馬鹿な女だと思う。あの頃、彼女を大切に思う男はいたし、今だって愛してくれる男の一人や二人は出来そうなのに、それでも死んでしまった男に縛られている姿が愚かしくて、斎藤は苛々する。
 斎藤は片膝をついて、に目線を合わせる。
「この刀は返せない。証拠物件だからな。それでなくても、廃刀令違反で没収だ」
「この刀がただの刀じゃないことは、あなただって解ってるでしょ? お願い。何でもするから、何でも言うこと聞くから、返して」
 目に涙さえ浮かべ、は斎藤の目を見た。縋るように僅かに目を細め、薄く唇を開く。
 自分のこういう表情が閨での表情を連想させて、男の理性を揺るがせることはよく知っている。自分の容姿や肉体が男にとってどれほど魅力があるものなのかも、実体験で学習している。斎藤だって男だ。これを自由にさせてやると言ったら、靡かないわけがない。兼定を取り戻せるのなら、この体くらい安いものだ。
 が、斎藤はの腹の内を見透かしたかのように冷たく、
「安い芝居だな。そんなのに俺が靡くと思ったか」
 その言葉に、は羞恥で顔を紅潮させる。真っ赤になって強張る顔が可笑しかったのか、斎藤は喉の奥でくくっと嗤って、
「何年付き合っていたと思ってるんだ。お前の手の内なんかお見通しさ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 この方法は幕末の頃、斎藤と組んで仕事をしていた時によく使っていた。手の内を知り尽くしている相手に、色仕掛けなんか通用しないのだ。それどころか、余計に相手の態度を硬化させる恐れもある。
 やり方を間違えたことに今更ながら気付いて、は小さく舌打ちをした。素直に土下座の一つもした方が効果的だったのかもしれない。まあ、そんなことをしたところで、斎藤がおいそれと刀を返してくれるとは思えないが。
 次の手を考えるに、斎藤が口の端を吊り上げて言った。
「そんなに刀を返して欲しければ、取り引きをしないか?」
「取り引き?」
 斎藤の提案に、は訝しげに聞き返す。
「欲しいものを手に入れるなら、それ相応の対価が必要だ。なぁに、悪いようにはしない」
「“悪いようにはしない”って、悪いようにする奴が言う台詞じゃないの?」
「お前なぁ………」
 あからさまに疑いの目を向けるに、斎藤は呆れたような苦い顔をした。
 この女は自分の立場というものを理解していないのか。幕末の頃ならいざ知らず、今は警官と容疑者という立場である。容疑者のくせに、その口のきき方は無いだろう。
 憮然としながらも、斎藤は話を続ける。
「俺の部下になって働け。女の密偵に欠員が出てるんだ。お前の経歴は上にも伝えて、話は付けてある。警視庁の密偵になれば、大手を振って帯刀できるぞ。悪い話じゃないだろう?」
「………………」
 確かに悪い話ではない。それどころか、警官として職を得て帯刀できるなど、今のにとっては破格の待遇だ。だが、それだけに裏があるとしか思えない。
 何を企んでいるのかと探るの目に気付いて、斎藤は困ったように苦笑した。
「そんな目で見るなよ。今更お前をかついだりはしないさ」
「それなら、私にも条件が二つある」
 斎藤が自分を騙すとは思いたくはない。けれど、十年もすれば人は変わる。警察という組織のためにを利用しようとしているということも、十分に考えられるではないか。それならそれで構わないから、も与えられた立場を利用してやる。
 警視庁に奉職するとなったら、やりたいことが二つある。それができるのなら、密偵として斎藤の下で働いてもいい。
 の言葉に、斎藤は不快そうな呆れたような微妙な顔をして目を細める。
「お前、自分の立場が解ってるのか?」
 容疑者のくせに“条件”とは。しかも二つも付けるなど、状況を読まないにも程がある。
 思い返してみれば、この女は昔からそうだった。昔から、状況を読まずに自分の主張を通そうとして、何だかんだあってもそれがいつも通っていた。相手は子供だからと甘やかしていた斎藤も悪かったと今になっては思うが、大人になった今でもそれが改められないというのはどういうことなのか。
 が、は斎藤の胸の内など知らぬ風に、勝手に話を続ける。
「一つは、武田観柳を私に引き渡して欲しいの」
「阿呆か」
 予想していたこととはいえ、斎藤は吐き捨てるように呟く。
 いくら死刑確定の重罪人とはいえ、裁判も無しに勝手に切り捨てて良いわけが無い。明治の世では仇討も犯罪なのだ。
 斎藤のつれない態度に、はキッと睨みつけて、
「あいつは御庭番衆のみんなを殺したのよ! あいつのせいで蒼紫は壊れちゃったのよ! そんな奴が絞首台で楽に死ねるなんて、そんなの許されるの?!」
「それが法治国家ってやつだ。で、もう一つは?」
 の怒りの声など右から左に聞き流し、斎藤は続きを促す。まあ、もう一つの条件も予想はついているが。
「もう一つは……四乃森蒼紫を捜して」
 警察のような大きな組織なら、蒼紫を捜すことも不可能ではないはずだ。少なくとも、が一人で捜すよりは手掛かりを掴めるだろう。蒼紫を見付け出せたら、何もかも忘れて休息できる場を与えたい。あのままの状態では、蒼紫は人の心さえ失ってしまう。
 蒼紫が抜刀斎と再会する前に、何が何でも捜し出したい。彼に必要なのは、抜刀斎との再戦ではなく、何も無い穏やかな時間なのだ。“最強”の称号など、彼には必要ない。
 一つ目の条件を提示した時とは目の色が変わっていることに気付いて、斎藤は興味深そうにの顔を見た。観柳の名を出した時は怒りと憎しみを宿らせていたのに、蒼紫を捜してと言うの顔は別人のように弱々しい。まるで、自分の半身を失ってしまったかのように。
 観柳邸の塀の上に立っていた、長身の男の姿を思い出す。あの男が、今のの“いいひと”なのだろうか。はまた、報われない恋をしているらしい。同じことを繰り返すなんて学習能力が無いのかと、斎藤は心底呆れてしまう。そういえば四乃森蒼紫とやらは、どことなく土方に似ていた。
 に気付かれないように、斎藤は小さく溜め息をついた。そして手錠の鎖を放して、すっと立ち上がる。
「観柳の件は兎も角、そっちは善処しよう」
「観柳の件は?」
 話を切り上げて出て行こうとする斎藤の制服を掴んで、は彼を見上げる。観柳の件も約束させるまでは帰さないとでも言いたげな強い目に、斎藤は鬱陶しそうに顔を顰めた。
 観柳の件は、警部補ごときの判断でどうこうできる問題ではない。もそれくらい解らないはずが無いだろうに。それでも今すぐ答えを求めたがるほど、切羽詰まっているのだろう。そう思うと、斎藤も可哀想な気がしないでもない。
 昔から自分との関係はこうだったと、斎藤は改めて思う。あの頃も、必死に縋るの姿が哀れで、斎藤がどうにかして叶えてやったことが何度もあった。それを憶えているから、もしつこく頼むのだろう。悪い癖をつけたものだと、斎藤は昔の自分を少し恨んだ。
 今度は大袈裟に溜め息をついて、斎藤はの手を引き剥がす。
「前向きに対処する」
 その場凌ぎの逃げ口上だが、きっと観柳をの前に差し出すために奔走するだろう。そんな自分の姿がありありと想像できて、斎藤は小さく溜め息をついた。
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