第十一章  めぐりあう時間たち

 もしもあの世というものがあったとして、そこに行く時にはどんな死に方をしても五体満足で行けるものなのだろうかと、は思うことがある。
 回転式機関砲で蜂の巣にされた身体は、あの世では元に戻るのだろうか。そして、死んだ後に切り離された首と身体は?
 蒼紫が小太刀を取ったのは、四人の首を切り離すためだった。遺体を運び出すのは無理だから、せめて首だけでも自分の手で葬ってやろうと思ったのだろう。大切な人の遺体は誰にも触らせたくないし、自分以外の手で葬らせたくはない。その気持ちはが一番よく知っているから、は蒼紫のやることを黙って見ていた。
 肉を斬り、骨を断つ力強い音を聞きながら、蒼紫にはまだ生きる意志が残っていることを確信した。大切な存在を失っても、それを自分の手で葬ろうと思えるうちは、人はまだ死なない。自身がそうだったから。蒼紫はよりもずっと強いから、絶対に死んだりなんかしない。
 切り離された首を両手に掴むと、蒼紫はに一瞥もくれないまま無言で隠し通路に向かう。その眼は世界のすべてを拒絶しているようで、は声を掛けることすらできなかった。
 それでもは黙って蒼紫の後をついて行く。何ができるというわけでもなかったが、蒼紫について行かなければならないと思ったのだ。
 だが一緒に歩くことはできなくて、一定の距離を保ったまま、は蒼紫の後ろについて裏の雑木林に出た。
 恵を逃がした時と同じく、そこは真っ暗で何も見えない。けれど蒼紫はそんなことは全く気にならないように塀に向かって歩いて行く。隠密として現役の蒼紫には、太陽の下も月の光さえも届かない雑木林の中も同じなのだろう。
「………蒼紫」
 まだ暗闇に慣れていないには蒼紫の足音しか聞こえず、言いようの無い不安を覚えた。このまま蒼紫が暗闇に溶けて無くなってしまうのではないかと、あり得ないことさえ考えてしまう。
 蒼紫の足音を頼りに歩いていたの耳に、タンッと地面を蹴る音が聞こえた。
「蒼紫?!」
 一緒に連れて言ってとは言えない。彼の傷を癒すのは、きっと独りの時間だけだから。
 けれど、このまま何も言わずに別れてしまうのは嫌だった。今は何を言っても蒼紫の耳には届かないだろうが、それでも何か言葉を交わしたかった。
 暗闇に漸く目が慣れ、音のした方に走ると、塀の上に立つ蒼紫の後ろ姿が見えた。
「蒼紫!!」
 の声に、初めて蒼紫が振り返った。けれどその目はやはりの姿を映してはおらず、その暗い光に彼女はそれ以上かける言葉を失ってしまった。
 声帯が凍りついたように、声が出せない。薄く開いた唇からは息が漏れる音しか出なくて、こんな時に気の利いた言葉一つ掛けられない自分が腹立たしい。
 “御頭”の無表情とは違う、何の感情も表わさない無表情を見上げて、は両手で日本刀の鞘を握りしめた。そして一つ深呼吸をして、ゆっくりと話しかける。
「あのね、蒼紫。あなたに必要なのは心の休養だと思うの。暫く戦うことは忘れて、静かな時間を過ごすことが必要だわ」
 何も映さない蒼紫の目をじっと見つめて、は説得するような懇願するような声で訴える。
 かつてが大切な人を失った時、何もしない独りの時間と、戦いから完全に離れた日々が彼女の心を癒してくれた。完全に治してくれることは無かったけれど、時間が解決してくれる、と人が言うのはそういうことなのかと思えるくらいには癒してくれた。もし、心の傷を忘れるために更に戦いに没頭していたら、痛みを忘れることはできたかもしれないが、人の心も忘れてしまっていただろう。
 だから蒼紫にも、そうやって心の傷を癒して欲しかった。“最強”という名の華よりも、それがあの四人が望んでいることだろう。今日のこのことに縛られ続けることではなく、新しい人生を求めることを、あの四人も望んでいるはずだ。
 けれど蒼紫は何も応えない。の言葉など聞こえないように、凍りついた無表情のままだ。
 それでもは言葉を続ける。
「四人を弔ってあげたら、京都に行こう。翁たち、まだ京都にいるんでしょ? 暫く、『葵屋』で休ませてもらおう。私も一緒に行くから、少しの間だけ何も考えないでゆっくりしようよ」
 京都では、かつて御庭番衆の仲間だった者たちが旅館兼料亭を営んでいるという。幕府が瓦解した後、蒼紫たちも一時期世話になっていたらしい。今頃になって戻ってきて、もしかしたら厄介者扱いされるかもしれないが、が二人分働いてでも置いてもらおうと思っていた。蒼紫が一緒なのだから、頼み込めば置いてくれるはずだ。
 『葵屋』で暫く働いて、また新しい仕事を見つけたら、何処かに家を借りて蒼紫と一緒に暮らそう。戦いを忘れてただ静かに生きる生活は、蒼紫にとってはもしかしたら退屈でたまらないものかもしれないが、今の状態でいるよりはずっと良いはずだ。
 そんなことを考えているの耳に、大勢の足音が聞こえてきた。振り返ると、数十人と思われる警官たちがこちらに走ってきている。その中に赤毛の男の姿を見つけて、は顔を強張らせた。
 こんな時に抜刀斎が姿を見せたら、蒼紫を刺激してしまう。どうしてこの男は十年前からずっとの邪魔をし続けるのだろう。幕末の京都でも邪魔され続けてきたが、明治の世になっても抜刀斎に邪魔をされるとは。は初めて、この男を心底憎んだ。
 蒼紫を捕縛しようと駆け付けた警官たちだったが、彼の凍りついた眼に動けなくなってしまう。四つの首を両手にぶら下げて立っている姿は、残忍な幽鬼のようだった。
「何している。早く捕まえ―――――」
「やめとけ。おめーらじゃ殺されるのがオチだ」
 一番偉そうな眼鏡の警官が部下たちを叱咤するが、それを遮るように無理やり押しのけて左之助が冷静な声で言った。続けて蒼紫に向かって、
「おめーのせいじゃねぇよ。あの回転式機関砲はどうしようもねえ。御庭番衆はおめーを生かすために死んだんだ。けど、決して恨んでなんかいねーよ」
 も左之助と同意見だ。あの回転式機関砲の威力は、蒼紫の力を以てしてもどうしようもなかったのだ。蒼紫の力が足りなかったわけではない。刀の時代から銃の時代へと移り変わってしまったのだ。
 そこにいる全員が、蒼紫の反応を注視している。は勿論、恵たちも警官たちも。けれど蒼紫の表情は動かない。
 緊迫した沈黙の中で、抜刀斎がゆっくりと口を開いた。
「お主がもし、どうしても自分を許せないのなら、今一度拙者と闘え」
 その言葉に、恵と抜刀斎の連れが、驚きの表情で一斉に抜刀斎を見た。だけが不快そうに眉間に皺を寄せている。
 どうしてこの男は、そうやって蒼紫を戦いへと引きずり込もうとするのか。戦うことで心の傷が癒されるのなら、誰も苦労はしない。そんなもので癒されるのなら、は今もこうやって苦しんではいない。
 指の関節が白くなるほどに刀を握りしめて不快な表情を露わにしているの様子など目に入らないのか、抜刀斎は蒼紫を見据えたまま言葉を続ける。
「闘って拙者を倒して、『最強』の二文字を二人の墓前に添えてやれ」
 今の蒼紫がやるべきことは、『最強』の称号を手に入れることではない。心の傷を癒すことだ。どうしてそんな当たり前のことが、この男には解らないのか。戦うように煽り立てて、蒼紫の心を壊してしまいたいのか。
 抜刀斎の言葉に反論しようとが口を開きかけた時、蒼紫が突然踵を返した。そして、再びこちらを振り返る。
「俺がお前を殺すまで、誰にも殺されるなよ」
 今まで聞いたことの無いような暗い声に、は初めて背筋がぞっとした。目の前にいるのは蒼紫に間違いないのに、見知らぬ男に見えた。抜刀斎のあの言葉で、蒼紫の中で何かが変質してしまったのか。
 はまた、自分の弱さのせいで大切な人を失ってしまったのだと痛感した。蒼紫は死んではいないけれど、目の前のあの男はの知っている“四乃森蒼紫”ではない。四乃森蒼紫はたった今、抜刀斎に殺されてしまった。
 最後に一度だけ、を見てくれるかと思っていた。が知っている蒼紫なら、別れ際に一瞬でも視線を交わしてくれるはずだ。別れの言葉は無くても、視線を交わすだけで幾百の言葉を交わすのと同じくらいのことが伝わるはずだから。けれど、蒼紫はなど存在しないかのように、そのまま姿を消してしまった。
 蒼紫が姿を消すと同時に、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
「逃がすな、追え!」
 その号令と共に、警官隊が走り出した。
 数十の警官といえども、宵闇に紛れた蒼紫を捕えることは不可能だろう。けれど、今の蒼紫は両足に怪我を負っている。蒼紫が警官なんかに捕まることは無いだろうが―――――
 考えるより先に、は刀を抜いて走り出した。
 足音も無く、獣のような駿足で警官隊に追いつくと、鞘と刀の二刀流で警官たちを叩き伏せていく。抜刀斎ではないが、無駄な殺生はしたくなかった。彼らを足止めして、蒼紫が逃がすことができればそれで良い。
 十年前だったら、何も考えずに斬り捨てていただろう。それが犯罪だからとかそういうのではなく、単純に人を殺めることを恐れる心が生まれたのは“弱さ”なのだろうかと、は少し考えた。
 メイド服の女が刀を振るう姿は異様で、まだ無事な警官たちも取り押さえるどころか唖然とした顔で立ち尽くしているだけだ。遠巻きに見ていた抜刀斎たちの唖然とした顔も、の視界の端に一瞬だけ映った。
 全ての警官の足止めに成功したことを確認すると、は漸く動きを止めた。
 四つの首をぶら下げた幽鬼のような男の次は、メイド服を着た日本刀の女の出現と、これまで経験したことが無いであろう相手を前にして、警官たちの表情は凍りついている。と視線を合わせた者などは、笑ってしまいそうになるほど怯えた様子を見せていた。
 周りの反応を見ながら、自分は蒼紫と同じ目をしているのだろうかと、は思う。きっとそうなのかもしれない。蒼紫とは形は違うけれど、彼女もまた大切な人を失ってしまったのだから。
 けれど、警官たちの目も反応も、今のにはどうでも良いことだった。自分がどんな風に見えるかなど、もうどうでも良かった。ただ、蒼紫がこれからどうなってしまうのか、それだけが気がかりだった。
 突然、突き刺さるような視線を感じて、は反射的に雑木林の方を見た。
 相変わらず暗闇しか見えないが、目を凝らすと薄っすらと人影らしいものが見えた。それは背の高い痩せ形の男のもののようで、その姿形には見覚えがあった。
 だが、記憶の中のその男は、十年前に死んだはず。会津戦争で彼が所属していた隊は全滅したと聞いている。あの悲惨な戦争で最前線で戦っていたであろう彼が、生き残っているはずがない。
 しかし、もあの男の死体を確認したわけではないのだ。もしかしたら本当に彼なのかもしれない。世の中が落ち着いた今になって、戦死したと思われていた人間がひょっこり現れたという話は、たまに耳にする。
 仮にが考えている男だったとして、彼は警官隊と一緒に此処に来たのだろうか。屋敷の中では一度も会ったことは無かった。警官隊と突入したのなら、今の彼は警官ということか。あの頃も似たような仕事をしていたが、明治の世で警官になっているなんて信じられない。それより信じられないのは、彼の出現なのだが。
 封印していた“あの頃”に関わっていた人間が、示し合わせたかのようにの目の前に一斉に押し寄せてきた。進んでいたはずの時計が一気に逆戻りしたような気分だ。
 懐かしい気持にはなれないが、雑木林のあの男がの考えている男なら、彼に会って話してみたいと思った。彼が警官になっているのなら、蒼紫のことも協力を仰げるかもしれない。
 静かに刀を納めると、それまで人形のように無表情だったの顔が、口許からゆっくりと動き出す。
「逮捕、なさいますか?」
 再び警官たちに向き直り、その言葉とは不釣り合いな艶然とした微笑を浮かべたの顔に、警官たちは状況を忘れて呆けた顔になってしまった。彼女のその表情は素人女のそれとは違う、閨での表情を連想させるものだったのだ。
 呆けた顔の男たちを見回し、は可笑しそうにくすりと笑う。男なんて、単純なものだ。蒼紫もこんなに単純な男だったら、どんなに良かっただろう。そう思うと、の瞳が微かに翳った。
「何をしている?!」
 髭と眼鏡の警官が苛立たしげに声を張り上げた。その声に警官たちははっとした顔をしたが、を捕縛しようとする者は誰もいない。今は大人しいが、近付いた途端にまた暴れだしたらと思うと、恐ろしくて手出しできないのだろう。
 誰も動かないことに業を煮やして、眼鏡の警官は部下を押しのけながらに近付いた。そして差し出された手首を乱暴に掴み、手錠をかける。
「公務執行妨害、並びに廃刀令違反で逮捕する」
「はい」
 静かに返事をすると、は刀を振るっていた姿が嘘のように大人しく連行されていく。憑き物が落ちたかのようなしおらしさに一同が唖然としたが、はそんな視線など感じないように無表情だ。
「………おぬし」
 抜刀斎の目の前を通った時、彼が何か探るような目で声をかけた。
「おぬし、以前、何処かで会ったことがござらぬか?」
 どうやら抜刀斎は、のことなど憶えていないらしい。否、化粧と髪型があの頃と違うから、京都の頃ののことは憶えていても、同一人物だと判らないのかもしれない。
 何度も会っているのに面影すら判らないのかと思うと、は何だか可笑しくて小さく笑ってしまった。きっと彼は、自分が斬った相手のことも忘れているのかもしれない。生きながら伝説になった人斬りなのだから、それくらい不思議は無い。
 は笑いをおさめて、ゆっくりと抜刀斎の方を向いた。そして、彼の目をじっと見て、静かに答える。
「お会いしたこと、ありますよ。姿を変えて、あなたには何度もお会いしています」
「………………?」
 の言葉に、抜刀斎は怪訝な顔をした。“姿を変えて”の意味が解らなかったのだろう。しかしはその言葉通り、姿を変えて何度も抜刀斎の前に現われていた。そしてこれからも、きっと―――――
「これからも、姿を変えて何度もあなたの前に現れますよ」
 そう言って、は抜刀斎だけに向けて婉然と微笑んだ。
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