第十章 終幕
「何だ、ありゃあ!!」一番にダンスホールに辿り着いた左之助とかいう抜刀斎の連れが驚きの声を上げた。
彼の視線の先にあったのは、観柳と回転式機関砲。そして、両膝を撃たれて蹲っている蒼紫の姿だった。
「蒼紫!!」
血の匂いで、は頭がくらくらしてきた。否、くらくらするのは血の匂いのせいだけではない。蒼紫が回転式機関砲で撃たれるなんて。“あの人”と同じように。
全身から血の気が引いていく。刀を両手で握りしめたまま、足が凍りついたように動かない。
と、人形のように立ち尽くしていたの横から式尉が走り出した。
「今だ! 抜刀斎、走れ!」
般若の声に、抜刀斎が少年の襟首を掴んでこちらに走ってくる。
標的が三つに増え、どれを狙うべきか観柳の目が忙しなく動く。が、すぐに重工が動けない蒼紫に向けられた。
「ええい、まずは動けない蒼紫から!」
「そうはいかせねぇ!」
銃声と同時に、式尉が盾になるように蒼紫の前に飛び出した。
「式尉!!」
「いやあああああああ――――――――っっっ!!」
左之助の声との悲鳴が重なる。
血の臭いと銃声に、の忌まわしい記憶が蘇った。あの日の、“あの人”の記憶―――――
銃弾の雨の中を、“あの人”と共に馬で駆け抜けた。鬼神のようなあの人の後をついて行きながら、このまま死んでも良いとさえ思っていた。そして戦場を駆け抜けた後に見たのは、変わり果てた“あの人”の姿。腹部に受けた銃弾が致命傷で、ほぼ即死だった。
その後の記憶は混濁していて、霧の中の出来事のようになってしまっている。その中ではっきりと憶えているのは、三つの色。空の青、血の赤、そして肌の白。死体を見るのは初めてではないのに、死んだ人間の肌はこんなにも白いのかと思った。
目の前の光景と古い記憶がの中で交錯して、呼吸さえも儘ならなくなる。その顔からは血の気が完全に失われ、立っているのが不思議なくらいだ。
こんなことではいけないと思っているのに、蒼紫を守らなくてはと思っているのに、身体がいうことをきかない。心と身体が切り離されてしまっているような奇妙な感覚に、は呆然とするしかない。
目の前では、ひょっとこの頭が吹き飛ばされ、べしみも蜂の巣にされていた。それを何も出来ないまま見詰めている蒼紫の顔は、以上に呆然としている。それはが彼に絶対にさせたくなかった“絶望”の表情だった。
そんな顔をさせないことがの一番の役目だと思っていたのに。何があっても蒼紫を守ると決めていたのに。それが自分に与えた任務だったのに。そんなことさえできない自分が、自分の弱さが、観柳より憎かった。
「様」
真っ青になって呼吸が荒くなっているに気付いて、般若が囁くように耳打ちした。
「蒼紫様を死なせはしません。あなたは此処にいてください。いいですね、何があっても絶対に動いてはいけません」
「………般若?」
何を考えているのかと、は訝しげに般若の顔を見た。彼が何の策も無しに動くはずが無い。
だが、般若はそれ以上は何も言わず、今度は抜刀斎に何やら耳打ちをする。そして二人が同時に別方向に走り出した。
回転式機関砲が火を噴き、般若を蜂の巣にする。同時に、抜刀斎が逆刃刀を拾った。般若は我が身を犠牲にして、抜刀斎に勝機を賭けたのだ。
「………こんなことって………」
がたがたと震えるの唇から、弱弱しい声が漏れた。
みんな死んでしまった。が一番恐れてたことが起こってしまったのだ。しかも彼らを殺したのは、抜刀斎ではなく、観柳の回転式機関砲。抜刀斎であった方が、どんなに救われたことか。
瞬きもできない大きく瞠った目から涙が零れたが、それを拭うことさえできない。何もかもが遠くの出来事のようで、自分の身体さえ見知らぬ器のように感じられた。
「そこまでだ、抜刀斎!」
今度は抜刀斎に銃口が向けられた。勝ち誇ったような高笑いを響かせながら、観柳が引き金を回す。が―――――
回転式機関砲は何の反応も見せない。弾切れだ。
頼りの回転式機関砲がただの鉄の塊になり、観柳は恐怖で顔を引き攣らせる。
「たしゅけ………」
「命乞いなら貴様の大好きなお金様に頼んでみろ!!」
人斬りの顔でそう怒鳴ると、抜刀斎は観柳の頭蓋骨を砕かんばかりの勢いで、彼の頬に刀身を叩きつけた。
流石にこれは死んだと思ったが、顔が完全に歪んでいるのに、どうやら観柳は生きているらしい。衝撃で筋肉が萎縮したのか、気絶しているのに全身が痙攣しているのがの目にも判った。
抜刀斎たちが恵のいる展望室へと向かっていく。これで恵は“蜘蛛の巣”から解放されることになるだろう。阿片密造は死を以て償わなければならない罪だが、それでも日の当たらぬ地下室で“蜘蛛の巣”を作り続ける生活からは解放される。これで何もかもが終わったのだ。
否、まだ終わってはいない。には最後の後始末がある。それまで止まっていた漸く時間が動き出したように、それまで固まっていた両足がゆっくりと前へと動き出した。
観柳の息の根を止めること、それがの後始末だ。蒼紫と般若たちを守ることができなかったせめてもの償いに、この男を殺さなくては。四人の命がこんな男の命で贖えるわけがないが、それでも何もしないよりはマシだ。
全身が軋むようなぎこちない動きで、は倒れている観柳に近付く。こんな男を斬るためにこの刀を使うとは思わなかったが、の大切な人間のために使うのだから、きっと“あの人”も許してくれるだろう。
が鯉口を切った時、視界の端で何かが動いた。
それまで人形のように動かなかった蒼紫が、ゆらりと立ち上がった。両足を撃たれたというのに、もう立ち上がることができるとは驚異の回復力だ。
「蒼紫!」
は歓喜の声を上げたが、その表情を見てそれも一瞬で掻き消えてしまった。
蒼紫の顔はすべての感情を失ってしまったかのように凍りつき、その眼は何も映してはいない。観柳も四人の部下も、目の前のの姿さえも。
「蒼紫………」
呼びかけてはみるものの、近付くことも手を伸ばすこともできない。二人の間に見えない壁が立ちはだかっているようで、は動けない。
時間が止まったかのように、すべてのものが動かない。蒼紫も、も。
それくらいの時間が過ぎたか、突然蒼紫が動いた。が、を見ることは無く、彼は床に落ちた小太刀を無言で拾い上げる。
小太刀の刀身をじっと見つめる蒼紫の後ろ姿がひどく思い詰めたもので、もしかしてこのまま自害するのではないかとは思った。そんな弱い男ではないと解ってはいても、そうしてしまうのではないかと思うほど彼の姿は危うげなものだった。
この人を死なせてはいけない。般若たちが身を呈して守ったこの人を、そしてにとって誰よりも大切なこの人を死なせるわけにはいかない。
今にもその刀身を我が身に突き立てそうな蒼紫に、は何かに弾かれたように抱きついた。
「お願い。あなただけは生きて」