第九章 激突
錠前の開錠は得意なだが、洋式の鍵を扱うのは初めてのことだ。鍵穴にヘアピンを突っ込んでガチャガチャいわせているが、全く開きそうな気配が無い。こんなことをしている間にも、抜刀斎は迫っている。あの男がダンスホールに辿り着く前に、何が何でも外に出たいのに。
鍵の原理は洋の東西を問わず同じはずなのだから、こうやって開かないはずはないのだ。金庫の鍵ではあるまいし、そう難しい造りでもないはずだ。どうしてこんなにも手間取ってしまうのかと、は自分に苛立ってきた。
「あの……さん?」
苛立ちで目を吊り上げ、この世に鍵と自分しか存在しないかのように集中しているに、恵がおずおずと声を掛けた。
「何っ?」
鍵に集中したまま、は鬱陶しそうに応える。今は恵とのんびり話をしている時ではないのだ。
恵を守るのがに与えられた仕事だが、今の彼女には蒼紫のことしか考えられない。抜刀斎が此処に辿り着けようが着けまいが、恵のことはどうにでもなる。けれど蒼紫のことは、そうはいかないのだ。彼が傷付けられることがあったらと思うと、それだけで居ても立ってもいられない。
蒼紫の強さはも知っている。それと同じくらい、抜刀斎の強さも知っている。だからこそ、こんな所に恵と閉じ込められているわけにはいかないのだ。
迂闊に話しかければ殴りかかりそうなの様子に怯みながらも、恵は勇気を振り絞って訊ねた。
「あなた、一体何者なの? 敵なの? 味方なの?」
ついこの間までは味方だと信じていた。。高荷隆生に世話になったと言い、屋敷を出て立派な医者になれと言っていたから。そして御庭番衆を向こうに回して、恵を逃がしてくれたのだ。この世でただ一人の自分の味方とさえ思っていた。
けれど今は、蒼紫と共に、恵を取り戻しに来た抜刀斎と戦おうとしている。さっきまでの蒼紫との会話を聞いていると、二人はどうやら仲間らしいのだ。仲間だというのに、一度は敵に回して恵を逃がしたのは何故だったのだろう。の行動には一貫性が無く、考えれば考えるほど解らない。
この女は一体どんな立場の女なのか。誰の味方なのか。には謎が多すぎる。そんな女と二人きりで閉じ込められているというのは、蒼紫よりも、これから行われるかもしれない拷問よりも、恵には恐ろしい。
「ねえ、答えてよ! あなたは一体何者なの?!」
恐怖心が臨界点を突破して、恵は金切り声を上げた。その声に、の手が止まる。
「あああああっっ、もうっっっ!!!」
突然、が力任せに扉を殴りつけた。
「何で開かないんだよっ! このクサレ鍵がぁっっ!!」
ヤクザ隊の連中のように下品に絶叫しながら、は取っ手周辺を何度も何度も蹴りつける。開錠が無理と悟って壊すことにしたのか、それとも単に癇癪を起こしただけなのか。
普段は人形のようなメイドが鬼の形相で暴れるのだから、ある意味ヤクザ隊の連中よりも恐ろしい。その異様な迫力に圧されて、恵はそれ以上話しかけることが出来なくなってしまった。下手に話しかければ、今度は恵が蹴られそうだ。
どれくらい蹴り続けたのか、扉の表面がぼこぼこになった頃、金具が折れるような小さな音がした。
「やった!」
嬉しそうな声を上げると、は止めとばかりに思いっきり扉を蹴った。派手な音を立てて、扉が開く。
漸く扉が開いて素に戻ったのか、は恵を振り返り、いつもの穏やかな声で、
「一時間後、抜刀斎が此処に辿り着けなくても、私があなたを逃がすわ。だから安心して。
一寸ダンスホールに行ってくるから、此処で大人しくしててね」
恵を安心させるように穏やかに微笑みながら、けれど有無を言わさぬ口調でそういい残して、は部屋を出て行った。
部屋を出ると、微かな血の臭いが鼻を突いた。普通の人間なら気にもしない程度の臭いであるが、にとっては吐き気を催させるに十分な臭いだ。
<こんな時に………!>
胃からせり上がってくるものを押さえるように、は両手で鼻と口を覆う。
何度蒼紫に誘われても御庭番衆に戻らなかったのは、これのせいだ。十年前のあの日、目の前で大切な人を失ったあの日以来、どうしても血の臭いが駄目になってしまったのだ。あの日、の手にこびり付いた血を思い出して、貧血のように気が遠くなってしまう。立っていることさえ難しいほどだ。
けれど今は、そんな甘えたことは言ってはいられない。胃の中のものを全部吐いても、息が出来ないほど苦しくても、は戦わなくてはならないのだ。そうしなければ、蒼紫まで失ってしまうかもしれない。何も出来ずに大切な人を失うのは、もう御免だ。
ダンスホールでは、既に蒼紫と抜刀斎の戦いが始まっていた。
見たところ、血の臭いは満身創痍の抜刀斎から出ているらしい。蒼紫の服はまだ血に汚れていないようだ。はひとまず安心して、小さく溜息をついた。
やはり蒼紫は強い。たった十五で江戸城御庭番衆御頭に就任したのだから、強いのは当たり前だ。将軍を守る御頭が、人斬り風情に負けるわけがないではないか。
そう思ってはみても、何かに追い立てられるような焦燥は消えない。誰が見ても蒼紫が圧倒的に有利なはずなのに、言いようの無い不安が湧き上がってくる。
と、抜刀斎と対峙していた蒼紫の身体が、ふわりと舞い上がった。流れるようなゆっくりとした動きは、剣舞のようにも見える。勿論、それはただの剣舞などではなく―――――
「………回天剣舞?」
先代御頭が得意とした技だった。先代は二刀流だったが。
この技を蒼紫も会得しているとは知らなかった。きっと、が江戸を離れてから会得したのだろう。
緩急自在のその動きは、静動のはっきり分かれた剣術に慣れた者には捕らえにくいものだ。それは抜刀斎も例外ではない。蒼紫に斬りかかることも出来ず、間一髪のところで攻撃をかわすのが精一杯のようだ。
そして―――――
「死ね」
蒼紫の動きが“緩”から“急”に変わったと思った刹那、一息に抜刀斎に斬りつけた。
胸を切り裂かれ、抜刀斎は仰向けに倒れる。京の町を震え上がらせた伝説の人斬りの最期にしてはあっけないものだと、は遠い出来事のように思った。
どんな人間であれ、最期というのは案外あっけないものだ。“鬼”と恐れられた“あの人”も、たった一発の銃弾であっけなく死んでしまったのだから。劇的な人生を送った人間が劇的な最期を迎えるとは限らない。
「剣心!!!!」
抜刀斎の連れの少年が、悲鳴のように叫んだ。
緋村抜刀斎の名前は“剣心”というのか、とは今更どうでもいいことを思った。あの少年は木刀を持っているが、抜刀斎の弟子だったのか。だが、“師匠”と呼ばないところを見ると、そうではないのかもしれない。
弟子でもなく、戦力にもならない少年を連れて歩くなんて、の知っている抜刀斎には考えられないことだ。逆刃刀とあの少年―――――十年という歳月は、人を変えてしまうには十分過ぎる時間なのかもしれない。
そう、十年前とは何もかもが変わってしまった。“剣心”ではなく“抜刀斎”であれば、あんなに一方的に蒼紫にやられることは無かっただろう。何があったのかは知らないが、十年という時間が抜刀斎を弱くした。弱くなった抜刀斎は、今のの姿そのものだ。
「次は俺が相手だ! 刺し違えてでも、てめえは必ずブッ殺す!!」
少年の声で、は我に返った。
子供のくせに、気迫だけは一人前だ。この少年は死なせたくないな、とは思う。このまま成長すれば、きっと良い剣士になるだろう。
とりあえず二階に下りようと、は歩き始めた。血の臭いは、もう感じない。
そして吹き抜けの階段を下りようとしたその時。
「弥彦は神谷活心流の大事な後継者でござる。こんなところで死なせはせぬよ」
苦しげなその声と共に、抜刀斎がゆっくりと起き上がった。立っているのが精一杯といった様相ではあるが、回天剣舞をまともに受けてなお、この男は生きていたのだ。
「不死身か………!! 貴様」
氷の無表情を通していた蒼紫の顔が、初めて驚きに変わった。
階段に片足だけかけていたも、驚きで息を呑む。
いくら人斬り抜刀斎でも、不死身なわけがない。どうやら斬り付けられた瞬間、とっさに鉄ごしらえの鞘を楯にしていたらしい。
回天剣舞でも仕留められなかったとなると、やはりも戦うしかない。
は方向転換をすると、吹き抜け廊下にある隠し通路に走った。屋敷のあらゆる所に隠し通路を作っていた観柳のことを臆病だと嘲笑っていただったが、今日ばかりはそのことに心から感謝した。
三階の壁の中を通り、メイド部屋に走った。そして箪笥の奥深くに隠しておいた“あの人”の刀を掴む。
正直、人を斬るのは怖い。あの血の臭いに耐えられるのか、自分でも分からない。けれど、この刀を使うことを恐れ、身体が震える一方で、自分の中にあるのが恐怖だけではないことも自覚している。
倒れそうな恐怖と同時に、蒼紫と共に戦える悦びも感じている。大切な人と共に戦う、大切な人のために戦う―――――すっかり忘れたはずの甘美な悦びに、身体が貫かれるようだ。やはり自分は戦いの中に生きる女なのだと、は苦笑した。
この刀を抜くことを、“あの人”は許してくれるだろうか、と少し考えてみる。相手はしょうもないチンピラではなく、人斬り抜刀斎。きっと許してくれるだろう。否、たとえ許してくれなくても、蒼紫のためだったらこの刀を抜くことに躊躇いは無い。
「よし!」
気合を入れるように一声上げると、は刀を握り締めて立ち上がる。
が、その時、爆音のような銃声のような音がの耳を打った。
「なっ……何っ?!」
この音は昔、何度か聞いたことがある。だが、こんな所にあんなものがあるわけが無い。あれは個人で所有できるものではないはずだ。
けれどもし、“あれ”の音だとしたら―――――刀を持つ両手から血の気が引いていくのが分かる。
もし、あの音の正体がの予想通りのものだとしたら、蒼紫であっても抜刀斎であっても勝ち目は無い。否、唯一つだけ勝機はあるが、それまで持ち堪えるのは難しいだろう。
廊下を全速力で走り、ダンスホールへと向かう。“あれ”はの手に負えるものではないが、それでも蒼紫の勝機を作るために、一刻も早くあそこへ行かなければならなかった。
「様」
「!?」
廊下で忍装束の男に声を掛けられ、は一瞬息を呑んだ。
目蓋も鼻も唇も無い、徹底的に破壊された顔。一体何事かと思うような顔だが、男は般若らしい。
そういえば以前、蒼紫と般若について話していた時に、「昔とは少し変わっているが………」と言葉を濁していたことがあった。少しどころではなく、面影も何も無いほどの変わりようではないか。道理でいつも般若の面を被っていたわけである。
唖然としているの表情に気付いて、般若は片手で自分の顔を隠す。
「失礼致しました。面を割られました故―――――」
「あ……いや、一寸びっくりしたの。ほら、般若のことは子供の頃の顔しか知らないから………あの頃と一寸変わってびっくりしたのよ。十年も経つんだから、顔も変わるってもんよねぇ、うん」
何と言って良いのか分からないまま、は早口でまくし立てる。が、言葉を重ねるほどわざとらしくなってしまい、は口を噤んだ。
どうして良いか分からないと思っているのはだけのようで、般若の様子は変わらない。このような反応は慣れているのだろう。そうされると、変に言い訳したのが余計に傷付けてしまったのではないかと、は恥ずかしくなる。
姿はどんなものになっても、般若は般若なのだ。中身は昔と変わっていない、と蒼紫も言っていたではないか。般若が般若のままなら、顔なんてどうでも良い。
きっとこの顔も、蒼紫のために壊した顔なのだろう。般若は蒼紫のためなら何でもする男だ。それこそ、も敵わないほどに。そう思ったら破壊されつくした顔も、個性的な味のある顔に見えてきた。
「さっきの音なんだけど、知ってる?」
嘘のように静まり返った上を見上げ、は訊ねる。
「私たちも初めて聞く音です」
般若も知らないらしい。観柳邸にある武器なら般若にも知らされていると思っていたから、意外だった。
ということは、あの音の正体はますます“あれ”としか考えられない。あれが怪しげな青年実業家の所に流れ込むなんて信じられないが、蒼紫の腹心にも秘密にされている武器となったら、それしかない。
「
「―――――ってぇことは、こんな所でお喋りしてる場合じゃねぇな」
二人の背後から、式尉が呟いた。