夜桜見物

 早いもので、桜が散り始めている。ついこの間満開になったと思ったら、あっという間だ。今週末には完全に散ってしまうだろう。
 散々迷った挙げ句、盛りを過ぎた頃になってやっと、蒼紫を夜桜見物に誘ってみた。空想の中のように満開の桜の下を歩く、とはいかないけれど、これ以上ぐずぐずしていたら次の機会は来年になってしまうのだ。
 時期がずれてしまったせいで断られるかと思ったが、蒼紫は快諾してくれた。見かけによらず、付き合いの良い男である。
「もっと早くにお誘いすればよかったのですが………」
「いえ、こちらも桜の時期は忙しいですから。今が丁度良いくらいです」
 恐縮するの言葉を、蒼紫は軽く流す。忙しいのは本当だろうが、気を遣ってくれたのだろう。
 来年の春こそは、満開の時期に誘いたいものだ。その頃にはきっと、迷わず誘える仲になっていると思う。否、誘えるようになっていないと困る。
 盛りは過ぎたものの、まだ公園には屋台が出ていた。たちのように遅れてやって来る花見客は少なくないのだろう。
 さすがに宴会をしている者はもういないけれど、散歩がてらに来ている者はまだいるようだ。周りを見ると家族連れや、たちのように男女で連れ立っている者もいる。男女連れは、ひょっとしたら人が減る時期をねらってわざと今にしたのかもしれない。
 一人の時や女友達と一緒の時には気にしたことが無かったけれど、こうして見ていると男女で歩いている者は多い。二人の間の距離で、どの程度の関係なのか想像してしまう。
 半歩前を歩く蒼紫を、はちらりと見た。武子と歩いている時には気にも留めない距離なのに、蒼紫と一緒だと不思議と遠く感じてしまう。周りと比べるせいなのか、相手が蒼紫だからなのかは判らないけれど。
 考えてみれば、蒼紫と歩く時はいつも、これくらいの微妙な距離があるような気がする。あと少し前に出るだけで解決する距離なのに、何故かその“少し”が踏み出せないのだ。
 いつまでもこのままでは、何も変わらないことは判っている。しかし、こちらから距離を詰めて、引かれたりしないだろうか。
 一応、が蒼紫のことを好きなのは伝わっていると思う。蒼紫だっての誘いを断らないのだから、一方通行というわけではないはずだ。それならそれで、蒼紫の方から何か動きがあっても良さそうなものだが、何も無いところを見ると、の思う“好き”とは違うのかもしれない。
 だけど、「誰にでも春は来る」と言っていたのだから、蒼紫の“好き”との“好き”は同じ種類のもののはずだ。なのに何も変わらないというのは、どういうことなのだろう。
 桜を見ることも忘れて、が悶々と考えていると、突然腕を掴まれて引っ張られた。
「ひゃっ………?!」
「花ばかり見ていると、危ないですよ」
 蒼紫が苦笑する。が人とぶつかりそうになったのを、自分の方に引き寄せて避けさせたのだ。
「あ……すみません………」
 消え入りそうな声で恐縮した後、思いがけず蒼紫との距離が縮まって、は顔を紅くした。
 もの凄く遠かったはずの半歩の距離が無くなった上に、腕を掴まれているのだ。
 思わず奇声を上げそうになったが、寸でのところでぐっと飲み込む。あまり大袈裟に驚くのは失礼だ。前回で学習している。
 けれどこんなに蒼紫と近いというのは、緊張で頭がくらくらしてしまう。さっきまで距離を無くしたいと願っていたくせに、いざ近付くと何もできなくなるなんて情けない。
「人が多いから、こうしておかないとはぐれそうです」
 こんなに近くてもの顔色は判らないらしく、蒼紫の声はいつもと変わらず穏やかだ。本当に、夜桜見物にしておいて良かったと、はほっとした。
 と、をじっと見ていた蒼紫が、何かに気付いたような顔をした。やはり顔色に気付かれたのかと焦っていると、蒼紫は腕を掴んでいる手を離して、そのままの手を握った。
「こっちの方が良いですね」
「………………っ!!」
 蒼紫に手を握られるなんて、全身の血が沸騰しそうだ。手を繋いで歩くのは何度も想像していたけれど、こんなにあっさり現実になるなんて信じられない。
 きっとは今、あり得ないくらい顔が強張っているだろう。こんな顔を見られたら、また蒼紫の気を悪くさせてしまう。
「どうかしましたか?」
 俯いているに、蒼紫は不思議そうに尋ねる。
「………………」
 声を出したらとんでもないことになりそうで、は黙って首を振った。
 満開ではないけれど、桜の下を蒼紫と手を繋いで歩くなんて、夢みたいだ。嬉しいのと緊張のせいで、は目が潤んでしまう。
 半歩後ろを歩いていた時も桜どころではなかったけれど、手を繋いでいる今はますます桜どころではない。掌に汗をかいていないだろうかとか、手を握る強さは不自然に思われないだろうかとか、そんなことで頭が一杯だ。
「折角だから何か食べましょうか」
 はこんなに緊張しているというのに、蒼紫の声は普段と全く変わらない。きっと彼にとっては、女と手を繋ぐなんて特別なことではないのだろう。これだけの美形なのだから、そうに決まっている。
 蒼紫はきっと、これまでにもいろいろな女と手を繋いで歩いたことがあるのだろう。これだけの男なのだから、相手はよりも上品だったり美人だったに違いない。みたいに声も出せないなんて情けないことはなくて、気の利いた話をしたり、時には冗談を言ったりして、蒼紫を楽しませていただろう。
 そう思うと、はますます自分が情けなくなってきた。俯いて一言も喋らない女なんて、蒼紫はつまらないと思っているかもしれない。こちらから誘ったのにこれでは、きっと面白くないだろう。
 何か気の利いたことを言わなければとが必死に考えていると、不意に蒼紫が足を止めた。
 遂に気を悪くさせてしまったのかと、は恐る恐る顔を上げる。
「あの………」
「こういうところで物を買うのは初めてなのですが、どうすればいいのでしょう」
「は?」
 何を言われたのか理解できなくて、は思わず頓狂な声を上げた。
 屋台なんて、適当に欲しい物を選んで、金を払えば済むことだ。何を悩むことがあるのか、には理解できない。
 けれど蒼紫は本当に分からないようで、建ち並ぶ屋台を困惑したように見回している。この歳まで屋台で買い物をしたことが無いと、こんな簡単なことも分からないものらしい。この歳まで屋台で買ったことが無いということも、には驚きなのだが。
「あの……好きな物を注文して、お金を払うだけで良いんですよ」
「席が無いのですが………」
「え?」
 蒼紫も困惑しているのだろうが、はもっと困惑してしまう。屋台のものを席に座って食べるなんて、考えたことも無かった。
 上品な育ちの人だとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。これでは、屋台のものを食べたら腹を壊すのではないかと心配してしまうほどだ。
 以前、錦絵新聞で世間を知れと言われた、と蒼紫が言っていたことが、何となく理解できたような気がした。どんな育ち方をしていたのか知らないが、が思っていた以上に蒼紫は当たり前のことを知らなすぎる。これでは周りは心配だろう。
「こういうのは立ち食いが普通なんですよ。えっと……とりあえずやってみましょう」
 こういうのはの大得意分野だ。さっきまでの緊張も忘れ、張り切って手を引いた。





 何をどうしていいのか分からないどころか、何を食べたいのかも分からないと蒼紫が言うから、買い物は完全にが主導権を握ることになった。女のが男の蒼紫の手を引いて歩くなんて変な感じだが、こういうのも悪くはない。
「私の好みで買っちゃいましたけど、大丈夫でした?」
 無難なものだけを買ったつもりだが、は一応訊いてみる。何しろ、こういう食べ物が初めてな男なのだ。には無難でも、蒼紫にはびっくりするようなものだったかもしれない。
 けれどそれは要らぬ心配だったようで、蒼紫は上機嫌な様子で、
「はい。屋台というのは変わったものを扱ってるんですね」
 には何が変わっているのか分からないが、蒼紫には未知の物ばかりだったようだ。手渡す度に「これは何ですか?」と訊かれて、少々困った。
 こういうのを見ると、本当にと蒼紫は違う世界で生きてきたのだと思う。屋台で物を買ったことも無いし、が渡す食べ物にいちいち驚いたりして、まるで外国人のようだ。いくら老舗料亭の若旦那とはいえ、あまりにも箱入りすぎる。
「四乃森さんって、今までお花見の時って、何をされてたんですか?」
 ここまで違うと、箱入り息子の花見がどんなものか知りたくなってきた。
 蒼紫は一寸考えて、
「普通に花見弁当を持って行ったりとか……。あ、野点をしたこともあります」
「野点……ですか」
 茶の湯が趣味だから、野点は驚くほどのことではないのかもしれない。けれどやはり、には縁の無い世界だ。
 そんな男に、イカ焼きだの杏飴だの食べさせて良かったのだろうかと、は今更ながら心配になった。きっと蒼紫にとっては体験したことの無い味だっただろう。後で具合が悪くならなければいいのだが。
 唖然としているに気付かないのか、蒼紫は上機嫌に話し続ける。
「だから今日は初めてのものばかりで楽しかったです。こんなに美味しい物があるなんて、初めて知りました」
「そんな大袈裟な………」
 こんな安い食べ物でそんなことを言われるなんて、は苦笑いしてしまう。蒼紫はもっと上等な物ばかり食べているはずなのに。
 上等な物しか知らないから、こんな安い物が新鮮で感激するのだろうか。そういえば錦絵新聞も、蒼紫は妙に感心していたようである。
 にとって、蒼紫が生きてきた世界が未知なものであるように、蒼紫にとってもの世界は未知なもので、好奇心を刺激するのかもしれない。と会っていて楽しいのであれば何よりだが、好奇心で会っているのだとしたら何だか複雑な気持ちだ。
「この前いただいた鯛焼きもですが、さんと知り合ってから、初めて知ることばかりです。本や新聞で世の中を知ったつもりになっていましたが、自分は何も知らないのだということを知りました。さんには教えてもらってばかりです」
「そんなこと………」
 何だかよく分からないが、どうも過大評価されているような気がする。の知っていることなんて、つまらないことばかりだ。蒼紫の方がよほど何でも知っている。
 から見れば、蒼紫は教養があって物知りで、本当に凄い人だと思う。おまけに品のある雰囲気で美形なのだ。一寸暗い感じがするところさえ“陰がある”と言い換えられるのだから、もう完全無欠だ。そんな相手に「教えてもらってばかり」なんて言われるとは思わなかった。
「四乃森さんに教えることなんて何も………。四乃森さんは、私の知らないことを何でも御存知ですし………」
 蒼紫にそう言われると、どんなに恐縮しても足りないくらいだ。はそんな大層な女ではない。
 もじもじするの様子が可笑しかったのか、蒼紫は息を漏らすように小さく笑う。
「それなら、ずっと一緒にいれば、二人で物知りになれますね」
「えっ………?!」
 その言葉に、は口から心臓が飛び出そうになった。
 ずっと一緒だなんて、つまり来年も一緒だということだ。来年どころか、再来年もその先も一緒という意味かもしれない。
 蒼紫のような人とずっと一緒に過ごすなんて、それこそ未知の世界だ。今も会う度に緊張してしまうというのに、ずっと会い続けるなんて、どうなってしまうのだろう。
 少し先のことはよく想像するけれど、来年とか再来年とかそんな先のことは想像もつかない。手を繋いだ先のことも想像できない。
 紅い顔のまま絶句しているを見て、蒼紫は少し困ったように苦笑した。
「そんな顔をされると………」
「すっ……すみませんっ! あっ、あのっ……私っ………!」
 何と言っていいのやら、はますます焦ってしまう。
 蒼紫の言葉は凄く嬉しい。嬉しすぎて、どう表現していいのか分からないくらいなのだ。蒼紫が困るようなことを考えているわけじゃない。
「私、嬉しくてっ……だから、そのっ………」
「それは良かった」
 真っ赤な顔で噛みまくりのとは対照的に、蒼紫は穏やかに微笑んだ。
<あとがき>
 私の中では、蒼紫は頭でっかちの世間知らずなイメージ(笑)。幕府の頃は御頭は将軍お目見えの役職らしいし、明治に入ってからは般若辺りが日常のことは何でもお膳立てしてくれてたと思うんですよね。
 世俗まみれの主人公さんは、案外蒼紫にぴったりの人なのかもしれません。
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