春告鳥

 梅の季節が終わり、桜の季節がやってきた。まだ満開にはほど遠いが、鶯も鳴き始めている。
 たまに変な声の鶯もいるけれど、これは若い鶯のものだと蒼紫が言っていた。良い声で鳴くのは熟練した鶯なのだそうだ。鶯は生まれつきああ鳴くのではなく、先輩鶯の声を真似て練習に練習を重ね、あの声を手に入れるものらしい。
 そう思って聞くと、下手くそな鶯の鳴き声もこれからやって来る恋の季節に備えて努力しているのだと思うと、は親近感が湧いてくる。
 あんな小さな鳥も努力をしているのだから、も頑張らなければ。何をどう頑張ればいいか分からないが、とにかく蒼紫に相応しい女になりたい。
 しかし蒼紫に相応しい女というのは、どんな女なのだろう。知的でおしとやかな感じを漠然と考えるが、具体的にどうすればいいのか思いつかない。
「まあ、こうやって鯛焼きを歩き食いする女じゃないのは確かよねぇ」
「ははは………」
 武子の言う通りだと、は乾いた笑い声を上げる。
 蒼紫の前ではそれなりに上品ぶっているものの、の本性は“鯛焼きを歩き食いする女”なのだ。錦絵新聞は一緒に見る仲になったけれど、この姿は見せられない。
 蒼紫はきっと、鯛焼きなんか食べないだろう。細工菓子とか、そういう高級品しか口にしないような気がする。というより、鯛焼きを食う蒼紫の姿なんて、には想像ができない。
 そういうことを考えると、蒼紫とは住む世界が違うのだろうなあ、と改めて思う。外見の格差もさることながら、育った環境が違いすぎると、蒼紫に近付くことに後込みしてしまうのだ。
 確かに蒼紫はのことを“面白い人”と好意的に見てくれていて、庶民的すぎる趣味にも理解を示しているけれど、きっとそれは今まで接したことのない種類の人間に対する好奇心みたいなものだと思う。それが色恋に発展するかと考えると、望みは薄そうだ。
「四乃森さんに釣り合うようになりたいんだけどねぇ……」
 そう言って、は溜め息をつく。鯛焼きをかじりながら言っても真剣味が感じられないのだが。
 蒼紫に釣り合うように、流行小説だけでなく、古典小説も読むようになった。頑張って漢文の勉強もしている。外見の向上は限界があるが、教養なら何とかなると思いたい。
「無理しても長続きしないよ」
 他人事だと思って、武子の反応は冷淡だ。そこは友人として、頑張れの一言が欲しいのだが。
「いや、そこはさあ―――――」
「あ、四乃森さんだ。四乃森さーん!」
 が言いかけたのと同時に、武子が前に向かって声を張り上げた。見ると、蒼紫らしき人影が遙か前方を歩いている。
「ちょっ………!」
 よりにもよって、鯛焼きを歩き食いしている時に声をかけなくてもいいではないか。は慌てて横から止めようとするが、武子は全く気にせずに手を振る。
 武子としては知り合いを見つけたから声をかけただけなのだろうが、こういう時は気付かないふりをして欲しかった。鯛焼きを歩き食いするような女は蒼紫と釣り合わないと話していたばかりなのに、そんなことはすっかり忘れているようである。
 ここまでやったら、流石に蒼紫も気付いたようだ。こちらに近付いてきた。
 蒼紫に会えたのは嬉しいけれど、今来られたら困る。の手には食べかけの鯛焼きがあるのだ。都合の悪いことに、口に押し込むには大きすぎて、どうしようかと焦ってしまう。
「この前はどうも。お買い物ですか?」
 蒼紫が持っている小さな箱を見て、武子が無邪気に話しかける。片手に鯛焼きの紙袋、もう片方には食べかけの鯛焼きという姿は、武子にはどうでもいいらしい。意識していない相手にはそんなものだろう。
 しかしは違うのだ。こんな姿を見られるなんて、穴があったら入りたい。
 しかしそんなことを気にしているのはだけのようで、蒼紫はいつものように淡々と、
「ええ、茶菓子を一寸………。今度の茶会の参考にと」
「ああ、桜の時期にもやるって仰ってましたものね」
 武子はにこにこして応える。
 前回もそうだったが、武子と蒼紫が話していると、が口を挟む隙が無い。
 そういえば前の茶会の時に、桜の季節にも茶会をするようなことを言っていた。きっと昼間にやるのだろうが、としてはせっかくなら夜桜見物と洒落込みたいところである。蒼紫と夜桜の組み合わせは、きっと似合うだろう。想像するだけではうっとりしてしまう。
 春とはいえまだ肌寒いから、いつもより一寸近くても不自然には思われないだろう。暗いから手を引いてもらったりして―――――
さん、どうかしましたか?」
 蒼紫の声で一気に現実に引き戻されてしまった。
「あっ、いや、えっと―――――」
 蒼紫の前だというのに、完全に妄想世界に入り込んでしまっていた。間抜けな顔を見られていたかもしれないと思うと、は真っ赤になってしまう。
 何とかして誤魔化さなければと焦っていると、蒼紫の後ろの気に緑色の小鳥がとまっているのに気付いた。
「鶯っ、鶯がですねっ―――――」
「ああ………」
 蒼紫も振り返って小鳥を見る。が、すぐに、
「あれ、目白です」
「………え?」
 蒼紫に訂正されてもう一度小鳥を見てみるが、何度見ても鶯色をしている。色といい、大きさといい、どう見ても鶯っぽいのだが。
 が首を傾げていると、蒼紫が付け足すように説明した。
「鶯はもう少し暗い色をしていますから。目白の羽の色を鶯色というから、間違う人が多いですが」
「はあ………」
 何だか騙されているような気分だが、蒼紫の淡々とした口調には説得力がある。多分本当なのだろう。
 目白色なのに“鶯色”とは紛らわしい。今まで目白を見て「春が来た」としみじみしていたの気持ちを返してもらいたいくらいだ。
「お暇でしたら、うちの年寄りが飼っている目白をお見せしましょうか?」
 の釈然としない顔を疑っていると解釈したのか、蒼紫が提案した。
「あら、いいですわね。折角だし見せていただきなさいよ。目白って、とても良い声で鳴くんですって」
 が誘われているはずなのに、なぜか武子に応えられてしまった。しかも何だか他人事である。
 武子はに目配せして、
「私は一寸寄らなきゃいけないところがあるんで、残念ですけど此処で失礼しますわ」
「えっ………?!」
 これにはが驚いた。武子に用事があるなんて初耳だ。
 多分、と蒼紫を二人きりにしてやろうと、武子なりに気を利かせたのだろう。その心遣いはありがたいが、心の準備も無しにこれでは困ってしまう。
 戸惑うに、武子は鯛焼きの袋を押しつけて、
「これ、四乃森さんと食べて。じゃあね」
 多分、手土産のつもりなのだろう。手ぶらよりは良いかもしれないが、これが手土産というのはどうだろう。
 唖然として言葉も出ないを残し、武子はさっさと立ち去ってしまった。
「慌ただしい人だ………」
 怒濤のように喋って去っていった武子に、蒼紫もついていけなかったらしい。と同じく唖然としている。
 蒼紫が鈍いのか、武子の演技が完璧だったのか、蒼紫はこの流れを全く不自然に思っていないらしい。それだけが幸運だった。
 気を取り直し、は精一杯自然な笑顔を作って言う。
「急用を思い出したんだと思います。さ、行きましょう。目白って、ちゃんと声を聞いたことがないから、楽しみですわぁ」
 残念ながらは武子ほど演技派ではなかったらしいく、蒼紫は怪訝な顔をした。





 蒼紫が持ってきた鳥籠には、が鶯だと思っていたのと同じ小鳥が入っていた。鶯色の羽に、名前通り目の周りが白い。
 この鳥は、『葵屋』の主人が飼っているのだそうだ。主人といっても、“世間的には若旦那”の蒼紫とは親子でも何でもないらしい。老舗には、には分からない事情があるのだろう。
「たまに公園に持って行って、鳴き合わせをしているそうです。今日は緊張しているのか大人しいですが」
 そう言って、蒼紫は鳥籠を指先で叩きながら中を覗き込む。
「外じゃないと鳴かないのでしょうか………」
 も鳥籠に顔を近付けて、目白の様子を窺う。
 目白の表情は判らないけれど、二人に見つめられても怯えているようには見えない。鳥にも気分というものがあるだろうし、今はそういう気分ではないのだろう。
 暫くそうやって目白を観察していると、襖越しに女の声がした。
「失礼します」
 入ってきたのは、初めて来た時にお茶出しをしたのとは別の仲居だ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 茶を出され、は会釈する。そして再び目白に目を遣った。
 人の気も知らないで、目白は相変わらず鳴きもせずに毛繕いをしたり、水を飲んだり、気ままなものである。まあ、見た目も可愛らしいから、ただ動く様を見るのも楽しいのだが。
 と、仲居が可笑しそうにくすりと笑った。大の大人が二人して顔を付き合わせて小鳥の観察なんて、端から見たら可笑しなものだろう。
 ところが、仲居から出たのは意外な言葉だった。
「何だかお邪魔だったようですわね」
 からかうような声音に訝っただったが、この状況に気付いて跳ね上がりそうになった。
 蒼紫の顔が、異様に近いのである。目白に集中しすぎて気付かなかったけれど、小さな鳥籠を挟んでのこの距離は、ただ事ではないくらい近い。
「うわあっっ!」
 前のめりの反動で、今度は後ろに仰け反ってしまった。赤くなるやら青くなるやら、失礼なくらい大げさな反応だ。
 の態度に驚いたように目を瞠った蒼紫だったが、こちらは落ち着いたものである。咎めるように仲居を見て、
「お近、くだらないことを言うんじゃない。それより、買ってきた菓子はどうした?」
「はい、すぐにお持ちしますね」
 蒼紫の視線には全く動じないように含み笑いをすると、お近と呼ばれた仲居は部屋を出ていった。
 再び二人きりになると、は急激に気まずくなった。びっくりしたとはいえ、いくら何でもあの反応は失礼すぎだ。
「あ、あの………」
 俯いて座りなおしながら、何と言おうかとは考える。仰け反ってしまったのは蒼紫が嫌だったわけではなく、ただ驚いただけなのだと伝えるだけでいいのだが、まだ混乱して上手く言葉が纏まらない。
「………流石に一寸傷つきました」
 蒼紫がぼそっと呟いた。表情の変化が無いから判らないが、怒っているか落ち込んでいるかのどちらかだろう。
 あれだけ派手にやれば、蒼紫でなくても傷つくに決まっている。が逆の立場だったらと想像すると、こんなに落ち着いてはいられない。
「あっ、いやっ、そのっ………」
 ますます頭に血が上って、は言葉が出ない。ひょっとしたら蒼紫は、が無理して彼に会っていると思っているのかもしれない。これまでの挙動不審も、嫌々会っているせいだと解釈されていたらどうしよう。
 無理をしているように見えるのも挙動不審になってしまうのも、蒼紫が苦手だからではなく、彼に合わせようとして失敗してしまうせいだ。本当は自然にお近付きになりたいくらいなのに。
 おたおたするを見て、蒼紫は悲しげに溜め息をつく。
「こうやって何度もお会いしていれば、そのうち慣れてくださると思っていたのですが………。さんの負担になるようでしたら―――――」
「そんなことないですっ!」
 は咄嗟に大きな声を出した。
 折角定期的に会うまでに漕ぎ着けたのに、こんな誤解で途切れさせるわけには行かない。蒼紫に会う時は緊張して疲れたりもするけれど、それ以上にドキドキして楽しいのだ。
「私、四乃森さんと会うの楽しいですし、そりゃあ緊張しますけど、いつも楽しみにしてますし、だから……その………」
 負担になっているわけではないと伝えるつもりが、言っているうちに訳が分からなくなってきた。
 蒼紫と会うようになってから難しい本も読むようになったし、以前に比べてお洒落もするようになった。大変なのは大変だけど、自分が良い方に変わっていことは分かる。だから、蒼紫が思うような悪いことばかりではない。
「あのー、お取り込み中のところ失礼します」
 何と言っていいかが悩んでいると、遠慮がちな声と共にお近が入ってきた。この様子では、さっきのの言葉は絶対聞かれている。
 そう思ったら、の顔が急激に紅くなった。蒼紫と会うのをいつも楽しみにしているなんて、よく考えたら告白じみているではないか。
「あっ…あのっ………」
 真っ赤になってお近に話しかけようとするが、何から話せばいいのか分からない。蒼紫に好意を持っているのは事実だから取り消すようなことは言えないし、かといって知らぬふりをするのも不自然だ。
 焦るを見て、お近はくすくす笑う。
「そう言っていただけて、私どもも安心しましたわ。はい、どうぞ」
 そう言って、練りきりで作られた緑色の小鳥の菓子を出した。色は目白のようだが、鶯を模ったものだろう。
「“春告鳥はるつげどり ”です。お二人にぴったりですわね」
 からかうような声音で言うお近に、はきょとんとする。
「蒼紫様にもやっと春が来たみたいで―――――」
「お近」
 蒼紫が窘めるように遮った。
「え? えっ?」
 何が何だか理解できなかっただが、にやにや笑うお近と仏頂面の蒼紫を見比べて、漸く流れを把握した。と同時に、前進が茹で蛸のように赤くなる。
 「春が来た」なんて言われたら、もどうしていいのか分からなくなってしまう。本当に春が来たのなら嬉しいけれど、蒼紫は仏頂面だし、だけが盛り上がっているのではないかと不安になってきた。
 蒼紫の顔をまともに見られない。俯いて黙っていると、蒼紫が静かに言った。
「まあ……誰にでも春は来るものだ」
 素っ気ない言い方だが、その声は笑っているようにも聞こえる。だけでなく、蒼紫にも春は来ていたらしい。
 蒼紫がどんな顔をしているのか見てみたいけれど、顔の火照りは収まらないし、蒼紫の顔を見たらまた挙動不審になりそうだ。
 だけど、二人に春が来たのだから、もう挙動不審なんて言ってはいられない。これからは今まで以上にお近付きになる機会だってできるかもしれないのだ。
 そんな未来の姿を想像するだけで頭がくらくらしてきて、が蒼紫と“普通に”接するようになるまでには先が長そうである。
<あとがき>
 wikiによると、目白は「チーチー」と鳴くそうです。鶯は警戒心が強くてあまり姿を見せることが無く、梅や桜にとまっている姿を見せるのは殆どが目白なのだとか。私もですが、鶯と目白を混同している人は結構多いらしいですよ。
 ところで目白は、小金を持ってるご隠居さんが道楽で飼ってるイメージ。あとは土建屋の社長とか。目白を飼ってる人は身近にいないんだけど、どうしてそんなイメージを持ってるんだろうなあ(笑)。
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