錦絵新聞
百人一首がきっかけで、蒼紫と本を貸し合う仲になれた。どうやら蒼紫は古典文学が好きらしい。茶の湯といい、古典文学といい、高尚な趣味の持ち主である。対するは、古典文学よりも大衆小説の方が好きだ。古典文学もそれなりに読むが、肩が凝って仕方がない。楽しみのために読むというより、蒼紫と話を合わせるために読んでいるような状態だ。
そんなの最近の趣味は、錦絵新聞の収集である。新聞記事を基に描かれているものだから情報は遅いが、人気絵師を使っているせいか売れ行きは良いらしい。
普通の新聞も読むけれど、この記事が次の錦絵新聞で出ないかなあ、と考えるのが楽しい。芸能記事の時は特にだ。
そして今日は、錦絵新聞の発売日である。今回は人気役者の三角関係が題材になっているらしい。美男美女の絵なら、早く買わないと売り切れてしまうかもしれない。
仕事の昼休み、は昼食を買うついでに錦絵新聞を売っている店に向かった。
「あったあった」
今回は売れると睨んでか、錦絵新聞はいつもより多く入荷している。は早速一枚手に取って会計した。
今回の記事は版元も力を入れているらしく、一番人気の絵師による美男美女の絵だ。人気役者と美人芸者の修羅場である。
どうやら本命とお楽しみの最中に、二股相手の芸者が乗り込んできた瞬間らしい。記事を基に絵師の想像で描かれたものであるが、見てきたような臨場感がたまらない。
「本当なのかしら………」
別に贔屓の役者ではないが、読んでいるの鼻息は荒くなる。絵を見ていると、二股をかけられた芸者の金切り声が聞こえてきそうだ。
記事によると、女二人で髪の毛を引っ張り合ったり、引っ掻いたりの大乱闘だったらしい。肝心の役者は這々の体で逃げ出したそうで、本当に情けない。こういう時に男の器量が判るというものだ。
自分がこんな修羅場を経験するのは御免だが、他人の修羅場を見るのは楽しい。この後どうなったのだろうかと想像を逞しくしてしまう。
「さん、買い物ですか?」
錦絵新聞を見ながら修羅場のその後を想像していると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこにいたのは蒼紫である。は慌てて錦絵新聞を隠した。
「あ……あら、四乃森さん。ええ、お昼を買いにですね」
突然のことに、の声は上擦ってしまう。それにしても錦絵新聞を持っている時なんて、間が悪い。
芸能事件や猟奇事件を多く扱う錦絵新聞は、知識層の間では三流紙扱いされている。蒼紫のような人間は手に取ったことも無いだろう。そんな相手に錦絵新聞の愛読者だと知られるのは恥ずかしい。
しかも今回は、下世話な修羅場ネタである。せっかく今日まで蒼紫に合わせて知的なふりをしていたというのに、こんなのを読んでいるなんて知られたら、今までの努力が水の泡だ。
とにかく此処を離れなければと焦っていると、蒼紫が錦絵新聞の山に目を落とした。
「これは………」
やはり蒼紫には初めて見るものらしい。興味深そうな顔をしてる。
「錦絵新聞なんて、四乃森さんが御覧になるようなものじゃありませんわ」
は慌てて興味を逸らそうとする。妖怪騒動のような馬鹿馬鹿しい記事ならまだしも、今回の記事は非常にまずい。
「新聞とは名ばかりの三流紙ですもの。記事なんて、役者の色恋沙汰や猟奇事件に、嘘八百の妖怪騒動ばっかりで―――――」
「………詳しいですね」
「………………っ!」
蒼紫に突っ込まれて、は顔を紅くした。
如何につまらないものか説明しようと思っていたら、余計なことを喋りすぎた。これでは読んでいると白状しているようなものだ。
「あ、いや、それは………あ、人に聞いた話です! 本当にくだらないって」
「ひどい言い種だねぇ」
言い訳していると、店主がにやにやしながら茶々を入れてきた。
「お姉ちゃんだって、さっき買っ―――――」
「うわあああああっっ!!」
店主の言葉を、は大声で遮る。商売人なのだから空気を読めと言いたい。
突然のの奇声に、蒼紫は唖然としている。いきなりあんな大声を出したら、誰だってびっくりするだろう。同じ遮るなら、もっと他の方法にすべきだった。
これ以上話していたら化けの皮が剥がれてしまいそうである。は思い立ったふりをして後退った。
「いけない。そろそろ戻らなきゃ。じゃあ、また」
それだけ言うと、は逃げるように店を出ていった。
はくだらない三流紙だと言い張っていたが、蒼紫も錦絵新聞とやらを買ってみた。店主によると、人気のあるものらしい。
内容は、確かに下世話なものだ。特に今回は覗き趣味に近い。けれど、こんな下世話な感じが世間に受けているのだろうということは、蒼紫にも理解できる。錦絵新聞というのは、視線の欲望を叶えるのにうってつけの媒体だ。
それにしても、はどうしてあんなに錦絵新聞を悪く言っていたのだろう。店主の話では、どうも彼女も買っているような雰囲気だった。やたらと内容に詳しかったのも、本人は聞いた話だと言い張っていたが、頻繁に読んでいるような感じである。
「失礼します」
その声の後に障子が開いて、お増が入ってきた。
「あら、錦絵新聞じゃないですか。蒼紫様もこんな俗っぼいものを読まれるようになったんですね」
文机に置かれた錦絵新聞に気付いて、お増は可笑しそうに笑う。蒼紫がこういうものを読むのは意外なものらしい。
まあ、こういうものは買ったことが無いから、意外に思われるのは当然のことだ。今日、と話さなければ、一生手に取ることが無かったかもしれない。
「こういうのを読むのはおかしいか?」
錦絵新聞に目を落として、は尋ねる。
は、自分が錦絵新聞を読んでいることを知られたくないようだった。内容は下世話であるが、一枚の絵としてはなかなかの出来であるから、絵に釣られて買うのも納得できるのだが。
「いえいえ、蒼紫様はこういうのを積極的に御覧になるべきだと思いますよ。もっと世間のことをお知りにならないと」
「う〜ん………」
まるで蒼紫が世間知らずのような言われようである。その辺の男よりは修羅場を潜ってきたつもりだがそんなに世間知らずのように見えるのだろうか。
例えば、この錦絵新聞の題材になっている役者のことを知っているのかと問われれば、蒼紫は知らない。人気役者らしいが、初めて見る名前だ。こういうことを知らないことを“世間知らず”というのなら、蒼紫は確かに世間知らずだ。
それならば、錦絵新聞をよく知っているは、蒼紫よりも世間を知っているということなのだろうか。まあ、世間の事件や役者の事情には詳しそうではある。
「こういうのをお読みになるのは良いことだと思いますよ。話題も豊富になりますしね。それに、女性はあんなに難しい本ばかりでは退屈しますよ」
そう言って、お増は意味ありげにくすっと笑う。
「………………」
との本の貸し借りは外でやっているのだが、お増たちにはお見通しだったらしい。に本を貸しているということは誰にも言っていないが、どうして判ったのだろう。
は古典文学が好きだと思っていたから貸していたのだが、退屈していたのだろうか。言われてみれば、から借りているのは最近の小説が多い。
「まあ……たまにはこういうのも悪くないかもしれない」
下世話なものではあるが、世の中の動きを知るには手っとり早いものなのかもしれない。話題が豊富になるというのなら、これも勉強のうちだ。
今度に会った時に話題に出してみようかと、蒼紫は錦絵新聞を手に取った。
今回の錦絵新聞は、警官に扮した男に美人が強姦されて殺されたという事件だ。警官の制服を着た若い男が、死体とおぼしき美人を肩に担いでいる。女の髪や着物が乱れているのが生々しい。
「うーん………」
買ったばかりの錦絵新聞を見て、は唸る。
好きな絵師の作品だから思わず買ってしまったが、これは猟奇絵に近い。美人の肌の色など、本当に死体を見て描いたのかと思うほどだ。悪趣味ではあるが、巧い絵師にかかると目を離せない魅力がある。
「あ………」
ふと顔を上げると、蒼紫がこちらに来るのが見えた。先日のことといい、この辺りは蒼紫の生活圏内らしい。
は錦絵新聞を隠すと、蒼紫に駆け寄った。
「こんにちは。お買い物ですか?」
「ああ。一寸錦絵新聞を………」
「え?」
意外な言葉に、は耳を疑った。
蒼紫のような人が錦絵新聞に興味を持つなんて意外だ。ああいう下世話なものは嫌いだと思っていたのに。
驚いているを見て、蒼紫は苦笑する。
「こういうものも読んで、世間のことを勉強しろと言われました」
「錦絵新聞で、ですか?」
錦絵新聞で世間のことを学ぶなんて、一寸ズレているような気がする。だが、話題の事件を多く扱っていることを考えれば、優れた教材なのかもしれない。下世話なのが難点だが。
しかし今回のは猟奇絵である。この前の男女の修羅場とは別の方向でまずい。
「今回はおやめになった方が………」
あまり言うので藪蛇になりそうなので、は控え目に言ってみる。蒼紫にはああいう猟奇絵は刺激が強すぎるだろう。
が、蒼紫は平然として錦絵新聞を手に取った。
「この前とは違う絵師のようですね。これはまた凄い………」
絵柄を見て、蒼紫は頻りに感心している。この絵師は写実的な描写が売りなのだ。
蒼紫が見ていると、三流紙も芸術品のように見えてくるから不思議だ。美形というのは何でも一流品に見せてしまうものらしい。
「この人は動きのある絵が凄いんですよ。今回は立ち絵だから、死体の方が目立っちゃって。まあ、美人の死体を目立たせたかったんでしょうけど………」
「詳しいんですね。好きなんですか、こういうの?」
蒼紫の言葉に、は顔を紅くする。好きな絵師の作品だから喋りすぎた。
「あ、いや、私は別にっ………! 猟奇絵なんて………」
「猟奇絵というんですか」
蒼紫は感心したように改めて錦絵新聞を見る。
猟奇絵という言葉が普通に出てくる時点で、もう駄目だ。こういうのが好きな女だと思われたらどうしよう、とははらはらする。まあ、好きなのは事実なのだが。
蒼紫の様子を観察してみると、嫌悪感より物珍しさが先立っているようだ。意外とこういうものに理解があるのかもしれない。
「さんは、こういうのはいろいろ持っているんですか?」
「えっ?!」
やはり好きだと思われているのだ。は心臓が縮み上がる思いがした。
此処は興味が無いふりを押し通すべきか。しかし蒼紫も錦絵新聞に興味を持ち始めているようである。思い切って打ち明けて、錦絵新聞の世界に引き入れるのもアリな気もしてきた。
蒼紫と錦絵新聞や絵師について語り合えたら、きっと楽しいだろう。いつまでも背伸びして知的なふりをするのは、正直疲れる。
「あ、えっと……いろいろってほどじゃないですけど………」
本当は毎回買っているが、そこはまだ正直には言えなかった。こういうのは蒼紫の様子を見ながら小出しにするのが良いだろう。
「それなら、今度見せてください。こういうものを見るのも面白そうだ」
「えっ? あー………」
蒼紫は錦絵新聞に興味を持ったようだ。下世話な記事がかえって新鮮だったのかもしれない。
蒼紫のような男でもこんなものに興味を持つのかと意外だったが、人間なのだからお上品だけでは生きてはいけない。のようにどっぷり嵌まることは無いだろうが、共通の話題が増えるのは良いことだ。
「はい。じゃあ今度………」
蒼紫に見せるのは、美人画のようなものが良いだろうか。それとも、妖怪もののような面白記事が良いだろうか。好みが判らないから難しいが、無難なところから始めてみよう。
いつか蒼紫と二人で錦絵新聞を買いに行けるようになればいい。どうやって錦絵新聞の世界に引き入れようかと考えたら、は楽しくなってきた。
主人公さん、蒼紫を美化しすぎだろ(笑)。恋は盲目状態です。無理して蒼紫の趣味に合わせてたりしてるようでしたけど、もう無理しなくていい……かな?
錦絵新聞は、今で言ったらコンビニに売ってある実録系の漫画でしょうか。実録系漫画を毎回買ってコレクションしてる女……一寸イヤかも(汗)。お増さんもそんなの蒼紫に勧めるなよ。