ピンチはチャンスになる。その倍ぐらいチャンスはピンチになっている。
の家族にも好意的に受け入れられて、順調に話が進んでいるはずだったのだが、ここにきて肝心のが臍を曲げてしまった。何が原因なのか蒼紫には分からないけれど、どうやら彼が怒らせてしまったらしい。しかし思い返してみても、を怒らせるような失敗はしていないはずだ。母親と弟とは非常に和やかに話ができたし、父親は面白くなさそうだったが、男親とはそういうものだと聞く。最終的には認めてくれたのだから、特にまずいことはしていないと思う。
以前から思っていtことだが、は何が逆鱗に触れるのかよく判らない女である。もしかしたら相性が良くないのかもしれない。
だが、今更相性が良くないとなっても蒼紫は困る。挨拶はしてしまったのだし、もう取り消しはできないのだ。それに、訳の分からないことで怒り出すこと以外は、は蒼紫の妻としても次期御頭の妻としても、条件に適っている。また新たにと同等の女を探すのは難しいだろう。正直言って、蒼紫には新しい出会いを求めるほどの気力も器量も無い。
そうなると、の怒りどころを探り、円滑な関係を築く必要がある。蒼紫にはの微妙な心の動きは理解できないけれど、お近やお増であれば何か判るかもしれない。あの二人は普通とは少し違うけれど、一応女なのだ。女のことは女に訊くのが一番だろう。
「さんのご家族とは話せたのだが、何故かさんを怒らせてしまったらしい。何故だろう?」
「………は?」
蒼紫は真剣に困っているのだが、何故かお近もお増も呆れたように眉間に皺を寄せた。
どうやら二人には、が怒りそうなことに思い当たる節があるらしい。やはり女心というのは女にしか解らないもののようだ。
眉間に皺を寄せたまま、お近が尋ねる。
「またさんに変なことを仰ったんじゃないですか?」
“また”とは失礼な言い草である。まるで蒼紫がいつも変なことを言っているようではないか。
確かに蒼紫の発言でが怒ることはあったけれど、あれは言葉の行き違いというか、の怒りどころが一寸変わっているだけである。その証拠に、以外の人間を怒らせたことは無い。
「そんなことはない。ご家族とも楽しく話をできたくらいだ。怒っているのはさんだけだ」
「―――――一番怒らせちゃいけないところを怒らせてるじゃないですか」
「まあ、お父上とは楽しくとはいかなかったが、そこはそういうものだと白尉も黒尉も言っていたから大丈夫だ」
「………全然大丈夫じゃないでしょ」
お増が心底呆れた顔で呟く。
「お父上の許しは得られたのだから大丈夫だ」
結婚したいと親に伝えたら後には引き返せないのだとも言っていた。二人はに逃げれらるのではないかと心配しているようだが、もう白紙にはできないのだから大丈夫だ。
きっぱりと言い切る蒼紫とは対照的に、お近とお増はますます顔を曇らせる。
「お父様が許してくださっても、肝心のさんがそれじゃあ………」
「ここにきて破談なんてなったら、翁が寝込んじゃうかも………」
「何を言っているんだ、お前たちは」
こそこそ話し合っている二人に、今度は蒼紫が眉間に皺を寄せる。
せっかく上手くいっているのに、破談とは縁起でもない。隠密たるもの、常に最悪の状況を頭に入れておくのは大事だが、こんな時にまで最悪の状況を考えることはないだろう。二人して蒼紫の不幸を願っているのかと勘繰りたくなる。
「そうやって人の不幸を願っているから、お前たちは未だに独り身なんだ」
「まあ!」
蒼紫の言葉に、二人は心底呆れたように顔を見合わせた。そしてお近が深く溜息をついて、
「そんな余裕かまして、さんに振られても知りませんからね!」
「今更振られるわけがない」
ただ付き合っている頃ならともかく、もうとは親への挨拶を済ませた仲なのだ。どちらかが死ぬか、人の道に反することをしない限り、別れるなんてことはありえない。
「その油断が危ないんですよ。別れ話って“今更”って時に出るんですから」
「そうなのか?!」
自分に限ってそんなことはないと蒼紫は思っているが、お増にきっぱりと言い切られると少し不安になってきた。色恋沙汰だの男女の機微に関して、この中では確実に蒼紫が一番の素人である。
かといって目の前の二人が玄人かというと、それはそれで異議があるが、まあ蒼紫よりは上だろう。その二人が全力で不安を煽るようなことを言うということは、意外と危機的状況のような気がしてきた。
とはいえ、の家族に挨拶を済ませた直後である。この頃が人生で一番楽しい時とも聞く。そんな時に別れ話なんて出るだろうか。
「だが、今が一番楽しい時とも聞くから………」
「我に返る時でもありますよ」
お増がボソッと突っ込む。
我に返るとは失礼な言い草である。まるで今までを全否定しているようではないか。
しかし考えてみれば蒼紫自身、勢いでここまで来てしまったような気がする。に振り回されて、彼にしては珍しく冷静に考えることが無かったに思う。
結婚というのは勢いでするものだと聞いていたから、こんなものだろうと蒼紫は思っていたのだが、区切りがついた今となれば冷静に考え直す必要があるような気がしてきた。
「確かに頭を冷やして考えるものかもしれん」
結婚とは人生最大の博打でもあるのだから、蒼紫も一度考え直す必要がある。
お近とお増も深く頷いて、
「そうですよ。決まったからって浮かれてたら、足元を掬われますからね」
「油断大敵です」
「そうだな………」
何事も冷静になって考えるべきである。御庭番衆御頭ともあろう者が、大事なことを忘れるところだった。
今一度初心に立ち返りとよく話し合おうと、蒼紫は考えた。
「結婚について、本当にこれでいいのか、もう一度考えるべきだと思うのです」
「は?」
突然の蒼紫の申し出に、は頭が真っ白になった。
蒼紫の言うことは、いつも唐突である。それについてはも慣れたつもりではいたが、これはあまりにも予想外すぎた。
挨拶を済ませ、家族も張り切っているというのに、これは一体何なのか。今更考え直したいなんて、『葵屋』で何かあったのか。
唖然としているに気付かないのか、蒼紫はいつもの調子で淡々と続ける。
「お互い、本当にこれでいいのか考える時間が必要だと思うのです」
「今更そんな………」
「別れ話というのは、“今更”という時期に出るものだと聞きました」
「別れ話?!」
まさか破談を前提にした話だったとは。あんなに乗り気だったのは何だったのか。の制止を振り切って話を話を進めたくせに、今更それはないだろう。
以前からよく解らない人だとは思っていたが、ますます蒼紫という人間が解らなくなってしまった。ここにきて怖気づいてしまったのか。それにしたって無責任すぎる。
こういう時、どんな反応をすればいいのかには分からないが、きっと般若のような顔をしている。こんな屈辱は生まれて初めてなのだ。
「四乃森さんの気持ちはよ〜く分かりました。この話は無かったことにしましょう」
思っていたより冷静な声が出て、自身驚いた。感情が突き抜けると、人は冷静になるものらしい。
の返答に、今度は蒼紫が驚いた顔をした。自分から話を振ってきたくせに、おかしな反応だ。が泣いて縋ってくるとでも思っていたのだろうか。
を試していたのだとしたら、ますます腹立たしい。こんな男だとは思わなかった。
「………そうですか」
蒼紫はがっかりしているようだが、そんなのはの知ったことではない。むしろ、早いうちにこの男の本性が判って良かったくらいだ。
「では、そういうことで。もうお会いすることは無いでしょうけど、お元気で!」
もっと強烈なことを言ってやりたかったが、残念ながら思いつかなかった。叩きつけるようにそう言うと、は荒々しく立ち去った。
、
何だか訳が分からないうちに破談になってしまった。お近とお増に頭を冷やせと言われた結果が、これである。ひょっとして二人の陰謀だったのではないかと思うくらいだ。
やっと蒼紫にも人並みの人生がやってきたというのに、とんだ急展開である。人生の急展開には慣れていたつもりだが、これは無血開城に並ぶ衝撃だ。
「あら、お帰りなさい。早かったんですね」
蒼紫がこんなにも衝撃を受けているというのに、腹が立つほど暢気な声でお増が出迎えた。
元はといえば、この二人がいらぬことを言ったから、こうなったのである。冷静に考え直すなんて提案をしなければ、も破談なんて思いつかなかっただろうに。
冷静に考えてみれば、いい歳をして独り身の連中に相談したのが、そもそもの間違いだったのだ。偉そうに説教してくるから蒼紫もつい本気に受け取ってしまったが、この二人も彼と同じく結婚できていない人間ではないか。女心を理解しようと思っていたが、話す相手を間違えた。
「どうされました?」
自分の馬鹿さ加減に蒼紫がむかむかしていると、お増が怪訝そうな顔をした。
諸悪の根源だと思ったら、お増の顔にも腹が立ってきた。
「さんから、もう会わないと言われた。お前たちのせいだからな!」
蒼紫にしては珍しく怒りを露わにして怒鳴りつけると、腹立たしげに足を踏み鳴らして部屋に向かった。
ピンチはチャンスになるはずが、更に一周回って絶望的状況にしてしまう男………。初めてのことじゃないんだから、そろそろ主人公さんも慣れてほしいところです。
てか蒼紫、もうわざとやってるとしか思えん………。