姉の恋人

 に男の影が見え隠れするようになったと思っていたら、男が結婚の申し込みに来たという。展開が速い。しかも男は老舗の若旦那で、役者のような美形だという。そんな男がに求婚だなんて、弟である周治の目から見たると何かの間違いだとしか思えない。
 というわけで、周治は相手の男を見に行くことにした。順調に話が進めば、義理の兄になるかもしれない相手である。周治にも姉の結婚相手を見る権利はあるはずだ。
 相手の家は、旅館兼料亭『葵屋』だ。周治も名前くらいは知っている有名店である。
「あの店か………」
 物陰から『葵屋』の外観を観察する。老舗だけあって、立派な店構えだ。客の姿は見えないが、料亭だから忙しくなるのは日が落ちてからなのだろう。
 料亭の女将というのがどういうものなのか周治にはよく分からないけれど、こういう立派な店をが仕切れるのかと心配になる。
 と、突然、後ろから肩を叩かれた。
「うちの店に何か御用ですか?」
 周治が振り返ると、大柄な男が立っていた。格好から察するに『葵屋』の板前なのだろうが、いつ真後ろに立たれたのかも気付かなかった。
「いや……えーと………」
 こんな大男なのに全く気配を感じさせなかったなんて、ただ者ではない。もしかして『葵屋』というのはとんでもないところなのではないかと、周治は不安になった。





「いやあ、さんの弟さんだったとは」
 周治の身元を説明したら、座敷に連れ込まれてしまった。外からこっそり蒼紫の姿を見るだけのつもりだったのに、とんだことになった。に知られたら面倒だ。
「ごめんなさいね。黒さんが脅かしちゃったみたいで」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
 お増という仲居の言葉に、“黒さん”と呼ばれた男が口を尖らせた。
 こういう様子を見ていると、さっきのただ者ではないと思った雰囲気は錯覚だったのかと思えてくる。気配を感じさせずに立っていたのは事実なのだから、ただの板前ではないと思うのだが。
さんの弟さんなら、いつでも大歓迎ですよ。隠れてないで、普通に遊びに来てくださればよかったのに」
「はあ………」
 に内緒で蒼紫の姿を見たかったから隠れていたのだ。大体、蒼紫に紹介されていない弟が『葵屋』に“遊びに”来るのも変ではないか。
「その……四乃森さんにはまだ会ったこと無いから………」
「それなら、せっかくですから蒼紫様を呼んできますよ」
「えっ……でも………」
 お増に提案され、周治は困ってしまう。蒼紫を見には来たけれど、話すことまでは考えていなかったのだ。
 蒼紫と会ったとしても、何を話せばいいのか分からない。共通の話題なんてのことくらいなのだが、それだって何を話せばいいのか。
「今日のところはいいです。四乃森さんも忙しいでしょうから」
さんの弟さんなら、蒼紫様も大歓迎ですよ。じゃ、呼んできますね」
 周治は早口で捲し立てて遠慮するが、お増と黒は部屋を出て行ってしまった。
 ほどなくして、背の高い男が入ってきた。これが四乃森蒼紫なのだろう。確かに二枚目役者のような男である。
「お初にお目にかかります。四乃森蒼紫です」
 蒼紫が礼儀正しく頭を下げる。周治も慌てて頭を下げて、
「あの、こちらこそ初めまして。周治です」
 挨拶はしたものの、先が続かない。話すことなど何も無いのだから、当然だ。
 しかし黙り続けているのも気まずい。のことで話を繋げて、早々に帰るか。
「えー……姉のこと、聞きました。その……結婚したいと………」
 話を切り出したのはよかったが、そこから話が続かない。別のところから切り出せばよかったか。
 周治は困っているが、蒼紫は表情一つ変えず、
「はい。これからは義理の兄弟というものになるそうなので、俺のことは“お義兄さん”と呼んでください」
「“お義兄さん”はちょっと………」
 いきなり呼び方の話とは、予想外である。しかも義理の兄弟とは気が早い。親から聞いたところでは、まだ結婚の承諾はしていないのだ。
「“お義兄さん”は固いというのなら、“お義兄ちゃん”にしますか」
「いや、そういうことでは………」
「別に“お”は付けなくても結構です」
 冗談を言っているのかと思いきや、蒼紫は大真面目のようである。それとも真顔で冗談を言うという、周治には理解できない高度な笑いなのだろうか。
 そういえば、両親揃って“少し変わった人だった”と言っていたから、蒼紫は一筋縄ではいかない人間なのかもしれない。道理で老舗の若旦那のくせにと結婚しようと思ったはずである。
「まだ父が承諾していないのに、“お義兄さん”と呼ぶのは………」
「えっ?」
 蒼紫が驚いた顔をする。
「えっ?」
 この反応には、周治もびっくりだ。冗談で呼び方の話をしていたと思ってたら、本気で話していたらしい。
 しかし、父親はまだ返事を保留にしているはずである。だが、蒼紫の中ではもう決定になっていたようだ。
 まあ、老舗の若旦那の上に役者のような二枚目となれば、断られる理由を探す方が難しい。蒼紫がもう承諾を貰ったと勘違いするのも、無理はないのかもしれない。
 蒼紫は少し考えて、
「“考えさせてもらいたい”というのは、断りの返事だったということですか………」
「それも違いますって!」
 落ち込む蒼紫に、周治は慌てて全力で否定した。内緒で『葵屋』に行った上に、この話が破談にでもなったら、周治はに殺されてしまう。
 もう二度とこんな縁は無いに決まっているのだから、周治は必死に説得する。
「ああ言いましたけど、この話は両親も喜んでいますから。すぐに承諾しなかったのは、形式みたいなものですから」
「なるほど………。確かに形式は大事です」
 何とか蒼紫は納得してくれたようである。周治はほっとした。
 それにしても、蒼紫という男は本当に変わっている。この短い会話でそう思うくらいなのだから、長く付き合ったら違和感だらけだろう。
 こんな変わった男と義理の兄弟になるのは少し考えてしまうが、悪い男ではないようだ。人間性が悪くないなら、変人でもどうにか付き合えそうな気がする。
「そういうことなので、姉のことをお願いします。あと、今日のことは内緒にしておいてください」
「何故です?」
「姉に知られたら、いろいろ面倒なんで。男同士の秘密ということにしておいてください」
「ああ………」
 “男同士の秘密”という言葉に、それまで怪訝そうだった蒼紫の表情が明るくなった。とはいえ、微妙な変化であるが。それでも、彼を取り巻く空気は一気に明るくなった。
「男同士の秘密ですか。分かりました」
 弾んだ声で蒼紫は応えた。





 思いがけず蒼紫と直接話せたのは収穫だった。どんな男なのかも、何となく理解できたような気がする。
「姉ちゃんと結婚しようって男だから、やっぱり変な奴だよなあ」
「は?」
 唐突な周治の言葉に、は怪訝な顔をした。
「まあ、姉ちゃんを貰ってくれるって言うくらいだから、神様みたいな人なんだろうけどさ」
「はぁ?」
 の眉間に皺が寄る。
 蒼紫は変な男だったが、いい人なのだろうとも思った。蒼紫のことを“お義兄さん”と呼ぶにはまだ抵抗があるけれど、本人はそう呼んでもらいたそうであったし、次に会う時は“お義兄さん”と呼んでやるべきなのだろうかと、周治は考えた。
<あとがき>
 今回は主人公さんの影が薄い……。
 わざわざ蒼紫を見に行くとは、弟君は行動力があるようです。一歩間違えば、縁のようなシスコン弟になっていたかもしれません。主人公さんが弟をシスコンにするような姉でなくて良かった(笑)。
 さて、弟君は蒼紫を“お義兄さん”と呼ぶべきなのか、“お義兄ちゃん”と呼ぶべきなのか。いっそ突き抜けて“にぃにぃ”もアリかもしれません。
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