何事もできるかぎり単純化しなければならない。ただし、必要以上に単純化してはならない。
付き合っている男がいるということを両親に切り出すには、どう話を持っていけばいいものか。今まで経験の無いことだから、は気が重い。蒼紫のことは、家族は誰も知らない。帰りが遅くなることが増えたり、お洒落に気を使うようになったことから、弟は付き合っている男の存在を感じているようだが、まさか相手が二枚目役者のような料亭の跡取りとは思っていないだろう。前情報無しに蒼紫と会わせたら、家族は腰を抜かしてしまうと思う。
それとなく夕食の話題に出してみるか。しかし“それとなく”というのが難易度が高い。
いろいろ考えた挙句、“それとなく”というのは無理と諦めて、正面から切り出すことにした。とはいえ、父親には切り出し難いから、まずは母親からである。
「お母さん、一寸いい?」
夕飯の片付けを終わらせたところを見計らって、は思い切って母親に話しかけた。
「どうしたの、深刻な顔して? あ、お金の話は駄目よ」
母親は笑いながら冗談めかして応える。
「うん………」
会ってほしい人がいると言うべきか、先に付き合っている男の話をするべきか、悩ましいところだ。両親と蒼紫を会わせる約束を取り付けるだけのことなのだが、これがなかなか難しい。
や暫く迷った後、思い切って口を開いた。
「あのね、会って欲しい人がいるんだけど………。その……男の人なんだけど……お父さんとお母さんに挨拶したいって………」
言いながら、ありえないくらい心臓がどきどきする。がこんなに緊張するのだから、両親のことを全く知らない蒼紫はもっと緊張するだろう。挨拶をしたいという言葉を軽く聞いていたが、蒼紫は清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟で言っていたのかもしれない。
の言葉に、母親は意外にもあまり驚いていないようだ。世間話でもするような軽い調子で、
「あら、そう。お父さんの都合もあるけど、いつがいいかしら」
「え……あ…お父さんの都合に合わせてくれると思うけど………」
予想外の反応に、は拍子抜けしてしまった。思い切って言ったのに、緊張していたのが馬鹿みたいだ。
「あの……びっくりしないの?」
「お付き合いしている人がいるみたいって、周治が言ってたのよ。本当にいたとはねぇ」
そう言って、母親はふふっと笑う。
「あ〜………」
弟から話が漏れていたのか。男のくせに口の軽い奴だ。この様子では、父親ももう知っているのかもしれない。
しかし蒼紫の存在を知っているのなら、話は早い。あとは、本人に会って腰を抜かさないことを祈るだけだ。
というわけで、蒼紫がの家に来ることになった。正直、は少し緊張している。何しろ、初めて蒼紫に自分の生活空間を見せるのだ。
家族には、相手はとても上品な育ちの人だからと、しつこく言ってある。の言うことだからと家族があまり真剣に聞いていないようだったのが気になるが、実物の蒼紫を見れば考えを改めるだろう。
「やっぱり緊張してます?」
一緒に家に向かいながら、は蒼紫に話しかける。
途中で手土産の菓子も買った。蒼紫は家出、何を言うか予習と練習をしてきたのだそうだ。準備は万全のはずである。
けれど蒼紫はひどく緊張した様子で、
「聞いた話では、挨拶に行っても話も聞いてもらえずに追い返されることもあるということですが………」
蒼紫は、の父親をとても恐ろしい人物のように想像しているようだ。そんなに身構える相手ではないとは思うのだが、女の父親というのはそれだけで脅威なのだろう。
「そんなことないですよ。四乃森さんのことは、凄くいい人だって伝えてますから」
の家族は、蒼紫がどんな男か興味津々で待っているはずだ。上品な育ちの料亭の若旦那で、しかも役者のような男前と伝えたから、特に母親は楽しみにしている。蒼紫が突拍子もないことをしでかさない限り、追い返されるなんてありえない。
とりあえず今日は付き合っているという挨拶をするだけなのだから、それほど深刻に考えることはないと思う。緊張しすぎると、かえってとんでもない失敗をしてしまいそうだ。
「そんなに緊張されたら、私まで緊張しちゃいます。そんな深刻に考えなくてもいいですから」
緊張を解すようには笑ってみせるが、蒼紫の表情は冴えない。そんな蒼紫を見ていると、何だかまで不安になってきた。
しかし不安だからといって、今になって約束を延期するわけにもいかない。そんなことをしたら、次がますます気まずくなる。
自身と蒼紫を奮い立たせるように、は力強く言う。
「大丈夫ですよ。私が良いと思っているんだから、大丈夫です」
「そう……でしょうか」
にそう言われても、蒼紫はまだ悩むように呟いた。
蒼紫がの家に到着すると、まずは母親が大歓迎した。おかしなことを口走らなければ、理知的な顔をした美形なのだから、歓迎しないはずがない。その様子に、蒼紫も少し安心したようだ。
そして一番心配していた父親の反応であるが、こちらは驚いた顔を見せただけで、特に何も言わなかった。話半分に聞いていたの説明そのままの相手で、言葉が出なかったのだと思う。
「どんな人が来るかと思っていましたが……うん………」
父親はそのまま押し黙ってしまう。
沈黙してしまう父親の気持ちは、にも痛いほどよく解る。何しろ隣に座る蒼紫は、「お邪魔します」と言ったきり、一言も発しないのだ。
要らぬことを言ってはならぬと気を張っているのは、には分かる。『葵屋』の者にも、そこは重々言われているのだろう。しかし、外見は多分、無表情でむっつりと黙り込んでいるようにしか見えないのだ。これは非常にまずい。
「四乃森さん、緊張しているみたいで………。いつもはもっと―――――」
が取り成すように口を挟んだ時、蒼紫が突然畳に両手をついた。
「お嬢さんを私にください」
惚れ惚れするような見事な土下座である―――――などと感心している場合ではない。蒼紫が何もかもすっ飛ばすのはは慣れているが、家族はそうではないのだ。やっと口を開いたと思ったらこれだなんて、普通の人間には理解できない急展開だ。
当然、両親は唖然としている。今日は“付き合っている人が挨拶に来る”としか言っていなかったのだから、二人にしてみれば不意打ちだろう。
「四乃森さん!」
はあわてて蒼紫の顔を上げさせる。そして小声で、
「いきなり何を言ってるんですか。こういうことはもっと話してからじゃないと」
「結論から言った方が話が早いかと思いまして」
言うべきことを言って安心したのか、蒼紫の表情から緊張が消え、いつも通りに戻っている。
蒼紫はすっきりしただろうが、本当に大変なのはこれからだ。こんなことを言ってしまったら、もう結婚以外の選択肢は無いというのに、分かっているのだろうか。
「あんなことを言ったら、もう取り消せないんですよ」
「何故取り消すことを考える必要があるんですか?」
蒼紫は心の底から不思議そうな顔をする。
「だって………」
そんな顔をされると、説得しようとするの方がおかしいように思えてきた。もっとよく考えろだなんて、今日まで深く考えずに付き合っていたようではないか。
蒼紫早い時期から、ずっと結婚の意志を示していた。それをずっと“よく考えて”と言っていたのはだ。けれど、本当よく考えなくてはならなかったのは、の方ではないのだろうか。蒼紫の意思はずっと変わらないのに、は決断することができないでいるのだ。
蒼紫のような男は今まで出会ったことが無かったし、これからも出会うことは無いと思う。少し困ったところはあるけれど、の趣味に理解を示してくれて、には勿体無いくらい立派な人間だ。だからこそ、いつか気が変わってしまうのではないかと、心のどこかで疑っていたのかもしれない。
けれど親の前で宣言してしまった以上、もう撤回することはできない。蒼紫も、それは覚悟の上で言ったのだと思う。それならも、ここで覚悟を決めるべきだ。
「俺はずっと、そのつもりでいました。今日だって、ご両親にそのことをお伝えするために来たのですから」
蒼紫は全く揺るがない。ここまで揺るぎが無いと、これからも決して揺るがないような気がした。
「そう……ですよね。ずっとそう仰ってましたものね」
改めて思い返してみると、の頬がじわじわと熱を帯びてきた。本当に蒼紫の妻になるなんて、夢みたいだ。
「話は纏まったかな?」
夢心地だっただが、父親の声で現実に引き戻されてしまった。親の前だというのをすっかり忘れていた。
親の前でこんな話をしていたなんて、恥ずかしいことこの上ない。穴があったら入りたいくらいだ。
対する蒼紫は、堂々としたものである。彼の中では結婚の挨拶を済ませて、もう何の憂いも無くなったのだろう。まだ親の承諾は得ていないのだが、蒼紫にとってはそんなことは取るに足りない些細なことのようだ。
「はい。できるだけ早く、さんをお迎えしたいと思っています」
さっきまでの緊張が嘘のように、蒼紫は堂々としている。まさにが家族に話した“老舗料亭の若旦那”に相応しい姿だ。
蒼紫の言葉に、父親は低く唸る。この蒼紫の姿を見たらすぐに承諾しそうなものだが、そう簡単にはいかないものらしい。
「こちらとしては急な話ですから、少し考えさせていただきたい」
反対しているようではないけれど、賛成しているようでもないようだ。娘の父親というのは一度は断るものだと聞くから、これもそういうものだろうと思う。
蒼紫の様子を盗み見ると、別に落胆した様子は無い。これも想定していたことなのかもしれない。
「分かりました」
蒼紫は落ち着いた様子で頭を下げた。
今回はタイトルが長い……。
前置きばかりでグダグダ話が長いのも困りものですが、結論だけ言えばいいってものでもないよ。蒼紫は「よし、完璧!」と思ってそうですが(笑)。
長々と続きましたが、そろそろこの話も結末に持っていきたいところ。蒼紫も主人公さんも、あと少し頑張れ。