愛とは、この女が他の女とは違うという幻想である
最近、蒼紫の様子がおかしいと思っていたら、“自分磨き”とやらに凝っていたらしい。自分を磨くのはいいことだとはも思うのだが、いつものことながら蒼紫のやることは斜め上だ。の読む小説のような台詞も、“自分磨き”の賜物だといっていた。成果を披露できてご満悦のようだったし、毎回あれをやられるのかと思うと、正直は気が重い。
いろいろ考えて、より蒼紫のことを知っている『葵屋』の者に説得を頼むのが一番のような気がしてきた。蒼紫のことをよく解っている人間なら、よりも上手に彼を傷付けることなく伝えてくれるだろう。
というわけで、『葵屋』の人間を捕まえるべく、は店の近くをうろうろしている。頼むなら、お増よりお近だろう。お増でも悪くはないのだが、前に蒼紫が「お増の話は分かりづらい」と言っていた。
と、お近が『葵屋』から出てくるのが見えた。買い物にでも行くのだろう。
『葵屋』から離れたところで、はお近に声をかけた。
「お近さん!」
「あら、お買い物ですか?」
お近は振り返って愛想のいい笑顔を見せる。
「いえ、今日はお近さんに用があって………」
何と切り出したものか悩みながら、もぎこちなく笑った。
「まあ、そんなことが………」
から事のあらましを聞いて、お近は声を上げて笑った。
他人事であれば大笑いで済むことだろうが、当事者のには笑い事ではない。蒼紫が間違った方向に自分を磨き続けたら、一体どんなことになるか。今はまだ棒読みの台詞だけだが、これに情感を込められたり行動が伴ったりしたらと思うと、は今から不整脈になりそうだ。
「笑い事じゃありません。本当に困ってるんですから」
が強い口調で言うと、お近は笑うのをやめて少し考える。
「蒼紫様、さんはとても喜んでいたと言ってましたけどねぇ」
「そう仰ってましたか………」
はドン引きしていたのだが、何をどう見たら“喜んでいた”と解釈したのか。蒼紫は小説の台詞を真似すればが喜ぶと思い込んでいて、どんな反応を見せても全て“喜んでいた”と強引に解釈したとしか思えない。思い込みで見えるものを自在に変えられるとは、羨ましい男である。
蒼紫が思い込むだけならまだしも、が喜んでいたと周りに話していたとなると厄介だ。あんな台詞に大喜びする女だと思われたら、もう『葵屋』には行けない。
がっくりと肩を落とすに、お近は慰めるように言う。
「大丈夫ですよ。蒼紫様の勘違いなのは解っていますから」
「それならいいですけど………」
そうは言われても、の気持ちは晴れない。『葵屋』の誤解は解けていたとしても、肝心の蒼紫があの様子なのだ。これが解決しないと、何ともならない。
「お近さんから、四乃森さんに上手く言っていただけないでしょうか。またああいうことを言われたら、いくら四乃森さんでも一寸………」
「そう言われましてもねぇ………」
お近の表情が曇る。
「多分、私たちが何を言っても聞いてくれないと思いますよ。前にも言ったんですけどね、“さんのことは俺が一番よく知っている”って言い張るものだから………」
「ああ………」
完全に思い込みだけで突っ走っている。お近の話だけで、そのときの蒼紫の様子が目に浮かぶようだ。
“さんのことは俺が一番よく知っている”なんて、違う場面であれば死ぬほど嬉しいだろうが、これは駄目だ。蒼紫が一番のことを解っていない。
確かに、今まで蒼紫に貸していた本がよくなかった。あんなのばかり読んでいると思われたら、ああいう台詞を言われたいと誤解もされるだろう。何も考えずに選んでいたとはいえ、迂闊だった。
お近の話も聞かないとなると、手の打ちようが無い。どうしたものかと悩むに、お近が提案した。
「さんの口からはっきりと言って差し上げるのが一番ですよ」
「それは……お気を悪くなさらないでしょうか」
お近でも手に負えないのに、口下手のが言って通じるのだろうか。上手く話せなくて、蒼紫の気を悪くさせて終わりのような気がする。
けれどお近は励ますように、
「蒼紫様はもう、さんの言うことしか聞かないんですから。大丈夫ですよ、ガツンと言っちゃって下さいな」
「うーん………」
大丈夫ではないから、はお近に相談したというのに、何の解決にもなっていない。長年の付き合いのお近やお増の話を聞かないのに、果たして蒼紫がの言うことを聞いてくれるのか。
思い切って相談に行ったのに無駄足だったかと、はがっかりした。
結局、お近による説得は断られ、が自分で蒼紫を説得することになってしまった。蒼紫と一生付き合っていくつもりなら本音で言い合えるようにならなければいけないと尤もらしいことを言われたけれど、要するに上手く逃げられたわけだ。
「今日はさんの方が早かったんですね」
待ち合わせの間にどう切り出すか考えようと思っていたのだが、考えが纏まらないうちに蒼紫が来てしまった。
「今日は仕事が休みでしたから」
蒼紫と会うのは仕事帰りが多いからが遅れることが多いのだが、今日は休みだったから待たせずに済んだ。
対する蒼紫は仕事が終わってから来たようだ。今は忙しい時期なのか、珍しく疲れた顔をしている。
「お仕事、お忙しいようですね。あまりお疲れのようでしたら、今日早めに―――――」
「この時期はいつも―――――いや、『あなたのことを一晩中考えて、昨夜は一睡もできなかったのです』」
「………………」
いきなりきた。台詞の部分はあからさまに棒読みになるから、すぐに判る。しかし、やはり疲れているのか、前回に比べると破壊力に欠ける。
疲れていても台詞を忘れないのは大した根性だが、その根性は正しい方向に向けてもらいたい。と蒼紫の今後のためにも、早く軌道修正をしなければ。
は意を決して口を開いた。
「大事なお話があります」
食事をしながら話そうと思っていたけれど、最初の一声が出ない。が身構えているのが伝わってか、蒼紫も緊張している。蒼紫に緊張されるともますます緊張してしまって、悪循環だ。
固い雰囲気の中、まったく手を付けられていない料理が冷めていく。こういう時こそ、蒼紫に空気を読まずに料理に手を付けてもらいたいのだが、彼でさえ空気を読んでしまうほどの重い空気なのだろう。
何とかしなければと、は料理を勧めてみる。
「あの……冷めちゃいますよ?」
「えっと……『料理の向こうにあなたの美しい顔を見るだけで我慢します』」
この期に及んでまだ小説の台詞を出すとは大したものである。としては、こういうときこそ空気を読んでもらいたかった。のだが。
蒼紫の空気を読まぬ行動は、の緊張の糸を切ってしまったらしい。は大きく溜め息をついて、
「四乃森さん、その台詞、意味解って言ってます?」
「………え?」
冷淡なの反応に、蒼紫は狼狽えた。
「意味って………」
「何を我慢するんですか?」
「それは………」
蒼紫は困惑したように口ごもる。予想はしていたが、意味も理解せずに何となく言っていたらしい。
はまた溜め息をついて、
「小説丸写しの台詞を棒読みで言われても、嬉しくありません」
「………え?」
蒼紫は衝撃を受けたようである。が喜んでいると思い込んでいたのだから当然だ。
いきなり直球過ぎたかと思ったけれど、これくらい言わないと蒼紫には通じないだろう。相手は、周りが何を言っても独自の解釈をしてしまう男なのだ。
は子供に説明するようにゆっくりとした口調で言う。
「小説の台詞をそのまま言ったって、それは小説の作者が考えた言葉であって、四乃森さんの言葉ではないでしょう。そんな心のこもらない言葉を言われても、嬉しくはないんですよ」
「さんはあの小説のように顔を紅くして言葉が出ないようでしたから、てっきり喜んでいただけたのかと………」
蒼紫は今一つ納得できていないようだ。面食らったの表情と、小説の登場人物の喜びの表情の違いが判らないらしい。両方とも“顔を紅くして言葉が出ない”という状態だが、明らかに違うというのに。
この違いをどう説明したものか。表情の違いを口で説明するのは、意外と難しい。
表情については後回しにすることにして、の今日の目的は蒼紫にあの妙な台詞をやめさせることだ。
「あんなことを言われたら、誰だってびっくりします。あれは嬉しかったんじゃなくて、面食らったんです」
「そうだったんですか………。まだ自分磨きが足りなかったようです」
「もう磨かなくてもいいですから!」
思わずは強い口調で否定した。
蒼紫の“自分磨き”はただの暴走だ。向上するどころか、着地点を見失ってしまっている。
に全力で否定されて、蒼紫はますます困惑する。
「でも、お増もお近も自分を磨くべきだと―――――」
「四乃森さんは今のままでいいんです! 今の四乃森さんが、私には一番なんです!」
今のままの蒼紫に問題が無いといえば嘘になるけれど、変な小細工を覚えられるよりは遥かにマシだ。そもそもが好きになったのは、自分磨きを始める前の蒼紫である。
愕然として魂が抜けたような蒼紫の顔に生気が戻ったように見えた。と同時に、蒼紫はもの凄い勢いでの手を取る。
「やはりさんは俺の一番の理解者です」
「えっ……?! えぇっ?!」
また小説の台詞かと一瞬思ったが、今回は違う。蒼紫にしては珍しく興奮している。
にはよく分からないけれど、蒼紫は何かから解放されたかのような清々しい顔をしている。もしかしたら、積極的にやっているように見えた自分磨きも、実は蒼紫のは苦痛だったのかもしれない。
「自分磨きで表面は変わったところで、本当の自分は変えられない。でも、さんに本当の俺を受け入れてもらえるのなら、変われるのかもしれない」
「えっ? あの………」
蒼紫は一人で盛り上がって、は完全に置いてきぼりである。
前々から思っていたけれど、どうも蒼紫はを過大評価しているようだ。蒼紫のような人間に評価されるのは嬉しいけれど、ここまでくると正直重い。
「私はそんな大層な人間ではないので………」
やんわりと否定してみるが、そんなの様子にも蒼紫はいたく感動したらしい。
「そんなことはありません。才能も子供も関係なく、もっと早くお会いしたかった」
「いや、あの………」
蒼紫はまた思い込みで盲目的に突っ走っている。この思い込みの強さを何かに生かせないものか。
歯の浮くような台詞からの路線変更は成功したけれど、おかしな方向に変更してしまったようである。どうやったら目指す方向に修正できるのかと、は頭が痛くなった。
蒼紫の暴走が止まらず、もうぐだぐだです。20話費やしてこれかよ……。もうコミュニケーション障害ってレベルじゃねぇだろ、これ。
でもここまで主人公さんに心酔してたら、蒼紫は簡単に洗脳されそうです(笑)。