こんどはことばの展覧会だ
のお陰で、“自分磨き”とやらが体を磨くことではないことが分かった。彼女の好きな小説に出てくる女主人のように勉学に励むことも“自分磨き”というのなら、そっちの方が蒼紫は得意だ。作法や古典文学、武術や薬学などは、御庭番衆時代にみっちりと学んだ。これらのおさらいは日常的にやっている。それでもお増から自分磨きをしろと言われたのだから、まだ足りないということか。
否、他の分野を学べということかもしれない。前に、お増から「蒼紫様はもっと世間を知るべき」と言われたことがあった。「古典文学ばかりでは女は退屈する」とも。ということは、が読むような小説や錦絵新聞を勉強すればいいということだ。
というわけで、蒼紫はこれまで買い集めた錦絵新聞とから借りた本を積み上げ、“自分磨き”に勤しんでいる。
「まあ、随分と熱心に読んでらっしゃいますね」
茶を持ってきたお近が、蒼紫の手元を覗き見る。
「ああ、自分磨きというやつだ。さんの好きなものを勉強して、さんに好かれる男にならねばならん」
「それはいいことです。
へぇ、さんって、こういうのがお好きなんですねぇ」
は一冊手に取ると、パラパラと中身を見た。暫くそうした後、ぷっと噴き出す。
「こういう歯の浮くような台詞に憧れてるのかしら」
「ほぅ………」
お近が見つけた台詞を横から見て、蒼紫は考える。
お近が見つけた台詞は、が持ってくる小説の中では割と一般的なものである。歯の浮くような台詞なのかは蒼紫には分からないけれど、がこういう台詞を言ってもらいたいと思っているとは考え付かなかった。
しかし考えてみれば、これだけ本を貸してくれていたのは、この本で勉強しろという意味だったのかもしれない。
単に話が好きだと思っていたけれど、台詞の方が好きだったとは。今まで気付かずにいて、ひょっとしたらは蒼紫の鈍さに苛々していたのかもしれない。
「こういう台詞を覚えていけばいいのか」
幸い、暗記は蒼紫の得意分野である。“自分磨き”の道が一気に開けてきた気がしてきた。
その言葉に、お近は一瞬顔を引き攣らせて、
「この台詞を言うのはどうかと思うんですけど………」
「憧れているのなら、言われたいに決まっている。俺に言わせたくて、こういう本を貸してくれていたに違いない」
「憧れと実際に言われるのは違いますよ」
「そんなことはない」
蒼紫は自信を持って否定する。
蒼紫も先代御頭のような隠密になりたいと憧れて修行に励み、実際にそうなれたときは嬉しかった。先代御頭が得意だった技を習得できた時の感激は、今でも憶えている。もきっと憧れの台詞を言われたら、あの時の蒼紫のように感激するに違いない。
「私もこういう台詞はいいなって思いますけど、実際に言われたら引きますって」
「お前がそうだからといって、さんも同じだと思い込むのはよくない」
苦笑するお近に、蒼紫は諭すように言う。
と付き合うようになって分かったことだが、蒼紫の感性は普通とは違うらしい。それならば、彼と同じ元御庭番衆のお近の感性も、普通の女とは違うだろう。お近が引くようなことでも、普通の女であるは引かない可能性は高い。
「それはそうかもしれませんけど………」
「さんのことはお前たちよりも俺の方がよく分かっている」
お近はまだぐずぐず言っているが、蒼紫はきっぱりと言い切った。
が小説のような台詞を言ってもらいたがっているということに気付けたのはよかったけれど、具体的にどの台詞を言ってほしいのかまでは分からない。本人に訊けばすぐに分かるだろうけれど、それでは言ったところで白けるだけだろう。
こうなったら全ての小説の台詞を分析し、同じ傾向の台詞を重点的に覚えるしかない。それらを言っていけば、いつかはの憧れの台詞に当たるだろう。
空いた時間は全て小説の分析と台詞の暗記に当てたお陰で、めぼしいものは憶えることができた。あとはに披露する機会が来るのを待つばかりである。
そしてこの機会は、思いのほか早く訪れた。
「最近仕事が立て込んじゃってて………。こうやってお会いするのも随分久し振りな気がしますわ」
の仕事は、今が一番忙しい時期らしい。仕事帰りなのだが、疲れた様子など見せずににこにこしている。
「久し振りといっても―――――いや、『あなたと会えなくて寂しかった………。この一週間がいつまでたっても終わらないように思えました』」
早速、小説の台詞を使ってみる。使いやすいように多少変えてはいるが、大体この通りである。
この台詞でが感激するかと思いきや、ぽかんとした顔をした。
「………え? あの……四乃森さん………?」
どうやらこれは外れだったらしい。しかしこの流れで使える台詞はまだまだある。
「『あなたの美しさは、見るたびに稲妻みたいに俺を打ちのめします』」
「えっ?! なっ……何をいきなり………」
これは効いたようである。は顔を真っ赤にしてうろたえる。
「美しいだなんてそんな………。仕事帰りでお洒落もできてないのに………」」
「『最近のあなたほど美しく輝いている女性は見たことないくらいです』」
「えっ?! えっ……あの………」
はますます顔を紅くして言葉を詰まらせる。やはりこの手の台詞が好きらしい。
お近は小説の台詞を言ったら引かれると言っていたけれど、は全く引いていないではないか。やはりお近は普通の女とは感性が違うのだ。お増の時といいお近といい、あの二人の意見は全く参考にならない。今回は迂闊に従わなくてよかった。
「その……そんなことを言われても、何と言っていいか………」
「『俺は……俺たちは今、“ロマンチック”な段階にあると思います』」
「ろろろろろろまんちっく?!」
よほど感激したのか、はとんでもない大声を上げた。通行人が一斉にこちらを見る。
の気持ちが盛り上がったところで、一気にとどめである。これを言えば、きっとは感激してくれるに違いない。
「『このまま一緒にいたい。俺のそばにいてほしいのです。あなたが欲しくてたまらない』」
「そっ……そんっ……あのっ………!」
これは会心の一撃だったらしい。感激で胸が一杯というのはこういうのをいうのか、は言葉どころか呼吸も儘ならないようだ。調子に乗って一気に攻めすぎてしまったらしい。
の異変に、通行人たちが遠巻きにひそひそ話し合っている。こんなことで医者でも呼ばれたら大変だ。
「とりあえずお茶でも飲んで落ち着きましょう」
蒼紫はの手を引いて、逃げるようにその場を離れた。
茶を一杯飲んで、は大きく息を吐いた。
あった途端、立て続けにあんなとんでもない台詞を言われて、倒れるかと思った。どういう心境の変化があったのか知らないけれど、が知っている蒼紫であれば絶対言わなそうな台詞ばかりである。
冗談を覚えたのかとも思ったけれど、言っているときはいつもと同じ淡々とした様子で、冗談を言うような感じではなかった。かといって、情熱的な台詞に相応しい表情でもなく、訳が分からない。
「あの……何かあったんですか?」
「何がですか?」
またおかしなことを口走るのではないかと警戒しながら尋ねると、蒼紫は怪訝な顔をした。まるで、さっきのがの幻覚だったかのような、普段通りの様子である。
一瞬、本気で幻覚だったのかと疑いそうになったけれど、あんなはっきりとした幻覚があるはずがない。は思い切って訊いてみた。
「さっきの、あの………」
「ああ、あれは自分磨きの成果です」
蒼紫の口調は何となく得意げである。
最近の蒼紫は“自分磨き”に凝っているようだったが、まさかその方向で磨いていたとは。蒼紫の着眼点はよく分からない。
それにしても、あの台詞には度肝を抜かれた。否、蒼紫のような美形が言ったから、まだ“度肝を抜かれた”で済んだのかもしれない。これが並みの男だったらドン引きだ。顔がいいと被害も最小限で済むものらしい。
「さんにも喜んでいただけたようで、頑張った甲斐がありました」
「えーっと………」
喜んだわけではないのだが、上機嫌の蒼紫にそれは言いづらい。
しかし喜んだと調子に乗って、あんな台詞を連発されるのも困る。何か上手い落とし所がないものかと、は頭を悩ませた。
蒼紫のトンデモ台詞は、Nintendo DSの『ハーレクインセレクション』から拝借しました。初めて役に立ったような気がするよ、このソフト……。
しかし主人公さん、何を考えてこんな台詞の出てくる小説を蒼紫に貸したのか。そして借りたからって、よく読破した上に分析したなあ蒼紫。私なんぞ、1/4も読まずに挫折したよ。時間ができたらまた挑戦してみるか……。