人は失敗するたびに何かを学ぶ
“自分磨き”とは何か。蒼紫が考えるに、“自分磨き”とは文字通り解釈すれば、自分を磨くということである。とりあえず、風呂で体を洗うのを手拭から糸瓜に変え、今までより強めに体を擦ることにした。歯も削る勢いで磨き、磨き粉と道具を買って爪も磨いてみた。まあ、一皮剥けたような気がする。
「自分磨きで一皮剥けたのはいいが、全身がヒリヒリする」
「は?」
鹿革で爪を磨きながら呟く蒼紫の言葉に、お増は怪訝な顔をした。
「この前、これからは自分磨きの修行も大事だと言っていたから、こうやって磨いているのだが、地味に痛い。爪も薄くなったような気がする」
「………………」
一体何を言っているのか。お増は呆れて言葉が出ない。
蒼紫がやっていることも“自分磨き”の一種だろうが、お増が勧めたのはそういうことではない。外見を磨くのも大事なことだが、蒼紫の場合は中身が問題なのだ。『葵屋』の皆ももそれを指摘しているというのに、まだ解っていなかったのか。
「私が言いたかったのはそういうことじゃなくて………」
「違うのか?」
「蒼紫様の場合、外見の問題じゃないんですよ」
「まるで内面に問題があるような言い方だな」
蒼紫は心外そうな顔をする。あれだけ周りに言われたというのに、やはりそこには気付いていなかったのだ。
本人に自覚が無いとなると、先は長い。磨くべきところを理解していないのだから、そりゃあ見当違いなことを繰り返すことになるだろう。言いにくくても、ここははっきりと言うしかない。
どんな反応が来るか緊張しつつも、お増はきっぱりと言った。
「問題があるから、話が拗れてさんを怒らせたんでしょう」
「やっぱりさんは俺が嫌いなのか………」
そこまで言ってはいないのに、蒼紫はこの世の終わりのように落ち込んだ。
「嫌いだったら今も会ったりしませんって」
問題点を指摘しただけなのに、嫌われただの何だの言い出すなんて、面倒臭い男だ。蒼紫は昔から思い込みが激しくて面倒臭いところがあったが、最近はますます酷くなったように思える。
こんな面倒臭い男と付き合っていけるなんて、は女神のような女だ。もしかしたら、の前ではまだ面倒臭いところを見せていないのかもしれないが。
「それなら今のままでも問題無いということではないか」
話が元に戻ってしまった。会話が噛み合わなさ過ぎて、お増は無力感に苛まれてしまう。
蒼紫は自分に問題が無いと思っているから、最初からお増の言葉に耳を貸す気が無いのだろう。このズレっぷりはわざとやっているとしか思えない。
そう思ったら、お増は無力感を通り越して腹が立ってきた。
「そう思っていることが問題なんです! どうして解らないんですか」
「どうしてお前たちはそうやって俺を否定するんだ。そんなに俺のことが嫌いか」
蒼紫も同じく腹を立てる。
またこれだ。好きとか嫌いとかいう問題ではないのだが、蒼紫の解釈はそれしかないらしい。
お増は蒼紫との付き合いは長い方だが、こんなに難儀な性格だとは知らなかった。と付き合う前は、相手からの好意にも悪意にも全く頓着しない男だったのだが。男も女で変わるものらしい。
何と説明したらいいものかとお増が悩んでいるうちに、蒼紫は辛抱できなくなったように立ち上がった。
「もういい! 出かける」
見当違いの解釈で勝手に腹を立てたまま、蒼紫は部屋を出た。
待ち合わせの場所に立っていた蒼紫の不機嫌ぶりに、は驚いた。
待ち合わせの時間には遅れていないはずである。むしろ少し早くついたくらいだ。蒼紫がそれより早く着いて思いのほか長く待たされることになったのかもしれないが、それにしてもこの不機嫌ぶりは尋常ではない。この世の怒りを一身に抱えているように眉間に皺を寄せて、通行人が避けていくほどだ。
も逃げたいくらいだが、そういうわけにはいかない。蒼紫を刺激しないよう注意しながら、はそろそろと近付いた。
「あの〜……お待たせしちゃったみたいで………」
「あ、いえ。俺も今来たところですから」
が声をかけた途端、蒼紫はさっきまでとは別人のような穏やかな表情になる。あの不機嫌顔は、が待たせていたせいではなかったのか。
それにしたって、さっきの蒼紫の様子はただ事ではなかった。一体何があったのだろう。
「あの……何かあったんですか?」
「何がですか?」
見間違いだったのかと思うほど、蒼紫は惚けて見せる。
「いえ………」
蒼紫が答えてくれないのなら、もこれ以上追求できない。あの顔がのせいでないのならそれでいいけれど、何となく引っかかる。
待ち合わせに遅刻はしていないし、今日はまだ蒼紫を怒らせるようなことは言っていない。そもそも、が話しかける前からあの顔だったのだ。
前に会った時も―――――前に会ったときに怒らせていたとしたら、そもそも此処にはいないだろう。それならやはりあの不機嫌顔はのせいではないと思う。そういうことにしておこう。
強引に前向きに考えて、もいつも通り話しかける。
「お芝居が始まるまでまだ時間がありますね。どうしましょうか」
今日は武子がくれた券で、蒼紫と芝居を観る約束をしているのだ。人気の二枚目役者が出ていて、内容も評判がいいらしい。
二人で芝居を観に行くなんて、本格的な逢い引きだ。しかも恋愛ものらしい。蒼紫は男女の機微に疎いようだから、芝居を観て勉強しろということなのだろう。
もしかしてさっきの蒼紫の不機嫌顔は、芝居を観に行くのが嫌だったからなのだろうか。思い返せば誘った時、微妙な顔をしていたような気がする。いつもと変わらぬ無表情だったから気にしていなかったけれど、今思えば微妙な顔だったのかもしれない。
何しろ恋愛ものである。蒼紫の好みの傾向からいって、歴史ものや伝奇ものにしておくべきだったか。
「お芝居、別のにしましょうか?」
「どうしてですか?」
なりに気を遣ってみたのだが、変な顔をされてしまった。
「折角いただいたのですから、変えることはないでしょう」
「はあ………」
この様子だと、別に芝居が嫌なわけではないようだ。となると、やはり蒼紫の不機嫌はとは関係ないらしい。
気になるけれど、はこれ以上深く考えないことにした。
芝居は評判通り良い出来のものだった。外国の話を日本風にしているから少し妙なところもあったが、そこは目をつぶっておこう。
ただ、二枚目役者は想像していたほどの美男ではなかった。当代一という評判だったから、は芝居以上に期待していたのだが。まあ、美醜については好みがあるし、何より蒼紫を見慣れて目が肥えてしまったのかもしれない。
芝居が始まる前も始まってからも、周りの女の視線が蒼紫に向いているのを感じていた。他の女の目から見ても、蒼紫は舞台に立つ二枚目役者に引けをとらぬ美形なのだろう。
その連れがのような女というのは、周りからはどう見えるのだろう。釣り合わないと思われているに決まっている。顔立ちは変えられないけれど、せめてそれ以外のところは蒼紫と釣り合うようにならなくては。
今日の芝居は、地主の息子と女中の恋愛話だった。女中は協力者を得て上流の作法を学び、身分の差を乗り越えるという、ありきたりな筋だ。
ありきたりだけれど、この芝居はの境遇に似ていると思った。建前では身分の差は無くなったことになっているけれど、老舗料亭の跡取りと何も無いでは格が違う。あの主人公のように、も蒼紫と釣り合う日が来るのだろうか。
「あのお芝居、いろいろ考えさせられました」
芝居の後に立ち寄った店で茶を飲みながら、はぽつりと言った。
「女性はああいう話が好きなようですね。さんにお借りした本も、ああいう筋の話が多いように思います」
「あ………」
は顔を紅くする。
恋愛小説以外の本も貸しているつもりだったけれど、蒼紫はそう感じていたのか。それだけならまだしも、身分違いの恋愛小説を自分と重ね合わせて読んでいると思われていたら恥ずかしい。
言われてみれば最近、の本棚は身分違いの恋愛小説が増えたような気がする。意識して選んでいたわけではないけれど、やはり自分に重ね合わせていたのだろう。
小説を読んで幸せな結末を疑似体験するというのは、まあいい。大なり小なり、誰でもやっていることだ。問題は、自分の願望が詰まったような本を蒼紫に貸していたということだ。しかも蒼紫の言い方ではかなりの量である。これは恥ずかしい。
「ああいうのが好きっていうか、その………」
蒼紫が何を思って読んでいたのかと想像したら、は全身から変な汗が噴き出した。
「今まで触れたことの無い分野だったので、実に興味深かったです」
蒼紫の口調はまるで学問について語っているようだ。が心配しているようなことは何一つ伝わっていなかったらしい。これが伝わるような男だったら、これまで話が拗れたりはしなかっただろう。
ほっとしたような、残念なような、複雑な気分だ。“興味深い”と言うくらいだから、こういう話も嫌いではないということなのだろう。ただ、の感じる“面白い”と、蒼紫の言う“興味深い”の間には大きな隔たりがあるようだが。
「ま……まあ興味深いと思っていただけたら………」
何だか脱力してしまった。いつものことだが、ばかり焦ったり大騒ぎして、蒼紫はどこかずれている。
気が抜けて茶を啜るに、蒼紫は思い出したように言う。
「ああいう小説の女性はさんに似ているかもしれません」
「っ?!」
は茶を吐き出しそうになった。
「学ぶものはそれぞれ違いますが、向学心がある女性ばかりです」
「ああ………」
やはり蒼紫は少しずれている。
「私に向学心があるかは分かりませんが、ああいう小説の主人公は相手に釣り合うように自分を磨いていますものね」
「自分を磨く………」
蒼紫はそのまま考え込む。彼の中で何か引っかかるものがあったらしい。
「どうしました?」
「いえ………。自分の方向性が見えたような気がします」
蒼紫は何やら納得したようである。には何が何だか分からないが、勝手に自己完結するのはいつものことだ。
蒼紫も何かしらの自分磨きに励んでいるのだろう。料亭の若旦那という立場で、本人も勤勉な性格だから、それくらいはしているだろう。
しかし蒼紫に自分磨きに励まれたら、はいつまで経っても追いつけない。かといって向上心の無い男はいくら見た目が良くても魅力は無いわけで、その兼ね合いが難しいところだ。
「さんと話していると、気付かされることばかりです。今朝もお増と話していたのですが、あれの話はどうも分かりづらくていけない」
「はあ………」
どうやら待ち合わせ時に不機嫌の原因は、お増との会話だったらしい。
お増の話は分かりづらいと言うけれど、多分蒼紫の方に原因があるとは睨んでいるのだが。どうせ自分を磨くなら、そのあたりを磨いてもらいたいものだ。
「お役に立てたようで良かったですわ」
何が何だか分からないままだが、とりあえずはそう言っておいた。
私が学生の頃、何故かクラスで爪磨きが流行りましてね。今思うと、何であんなものが流行ったのか……。私も授業中とか磨いてたお陰で、気持ち悪いくらいピッカピカになりましたよ。でも磨きすぎると爪が薄くなって、痛くなるんだよね、あれ(笑)。
私も蒼紫も磨くところを間違ってるよ……。