どたんば せとぎわ 崖っぷち
二人きりで話したいと言ったものの、何から話せばいいのか分からない。のことを本当はどう思っているのか、子作り提案はどういうつもりだったのか、訊きたいことはいろいろあるけれど、何から話せばいいのか。どうやら蒼紫との意志疎通は、常人には困難を極めるものらしい。自身、蒼紫も真意が何処にあるのか解りかねている。
ここは定番の“腹を割って話す”というのが一番いいのだろうが、隣で翁や武子たちが聞き耳を立てているのかと思うと、それも一寸躊躇われる。好きだの何だの、他人に聞かれている状態で出す話題ではないと思うのだ。
しかし蒼紫が相手となると、そんな常識的なことも言っていられない。これまでの会話から察するに、順序立てて話したり遠回しな表現は難しいようなのだ。そうなると、も恥を忍んで結論から話すしかない。
隣の部屋のことは努めて意識から外して、は思い切って口を開いた。
「四乃森さんは私を『葵屋』に迎える気はおありですか?」
「随分前からそう言っているつもりだったのですが………」
が勇気を振り絞った割に、蒼紫の答えは淡々としている。もともとがそういう話し方なのだが、何故今になってそんなことを確認しているのか理解できていないようにも見える。
「それは……子供ができた後も、母親が必要なくなった後も、ずっと四乃森さんと一緒に―――――四乃森さんの奥さんとしてずっと『葵屋』にいてもいいということですか?」
「“いてもいい”ではなく、ずっといて欲しいのです。さんとなら、一生添い遂げられると思っています」
互いに真面目に語り合っているはずなのだが、当たり前のことを直球で語り合うのは、傍から見ると非常に間抜けな感じがする。けれど、蒼紫の考えを知るには馬鹿丁寧に一つ一つ質問していかなければならないわけで、これは骨の折れる作業になりそうだ。
それにしても、蒼紫の言葉は直球だ。隣に人が控えていることを忘れているわけではないだろうに、そういうことは気にしない性質なのだろうか。
こうも直球でこられると、は何と言っていいのか困ってしまう。これまでの人生でこんなことを言われたことがないから対処が分からないのだ。
蒼紫の言っていることがその場凌ぎの嘘ではないことは、表情を見れば判る。彼は本当に、との今後のことを考えてくれているのだろう。
けれど、二人は出会ってまだ一年も経っていないのだ。一生の伴侶を決めるのに、こんな短期間でいいのだろうか。実際、蒼紫の意志疎通能力が尋常でないことを、はたった今知ったのだ。
互いに知らないことはまだまだ沢山あると思う。もう少し相手を観察してから決めても遅くはないのではないだろうか。
「あの……お気持ちは嬉しいのですが、まだお互いのことをよく知らないことですし………。急いで決めて気が変わるということだって………」
「そんなことはありません。さん以外の人は考えられませんから」
何を根拠にしているのか、蒼紫の声は確信に満ちあふれている。一瞬、もその勢いに圧されそうになったほどだ。
の人生において、ここまで熱心に求められたことは無い。しかも相手は役者のような美形である。これを逃したら、確実に次は無い。
けれど、ここで蒼紫の言葉を受け入れてしまったとして、普通に幸せになれるのだろうか。お近たちも言っていたけれど、蒼紫はいきなり結論だけを言う男なのだ。その言葉に至るまでのことをきちんと聞かなければ、大変な落とし穴がありそうだ。
「さっき、才能とか運動神経とか仰っていましたけど、それだけが決め手なんですか? それだけで決めて、それで後悔はなさらないのですか?」
蒼紫の言う才能というのも、にとっては理解し難いものである。仮にに蒼紫の求める才能があったとして、それだけで結婚を決めるというのは、の感覚では軽率すぎるように思える。
の才能を我が子に伝えたいというようなことも言っていたが、それが子供に遺伝しなかった場合はどうするのか。才能だけが目当てなら、その才能を受け継がなかった子供に対しても、そんな子供を産んでしまったに対しても愛情を持てなさそうな気がする。
要するに、蒼紫の結婚願望は本物だろうが、に対する愛情が全く見えないのだ。順当に跡継ぎを産めたら丸く収まるかもしれないが、産めなかった時のことを考えると不安になる。
「それだけではありません。さんは何でも知っていて、俺の世界も広がりました。自分ではそう思わないのですが、どうやら俺は世間知らずなようで、皆も喜んでいました。さんのような人は、俺に必要なのだと思います」
「それは………」
蒼紫の知らない世間というのは、錦絵新聞や屋台のような俗っぽいものを指しているのだろう。確かにそういうものについてはは詳しいけれど、そんなどうでもいいことを蒼紫が知ることで周りが喜ぶなんて、『葵屋』も変な家なのかもしれない。
変ではあるけれど、老舗にありがちな格式張ったところは無いということなのだろう。そこはも少しは安心したが、それが決め手というのは微妙な気持ちになる。
蒼紫は普通の会話が難しいだけでなく、感覚も少しずれているのかもしれない。そういう男だから、を妻に迎えたいと思ったのかもしれないが。
「でも、老舗の若旦那様なのですから、翁さんたちももっとこう……女将が務まる女性を望まれていると思うのですが………」
悲しいことだが、どう考えてもは老舗旅館の女将が務まる器ではない。作法も社交性も、贔屓目に見たとしても人並み止まりだ。一人の男としてみれば、蒼紫は少し変わっているところがあるけれど、妻として迎えられるのは夢のようだ。だが、その後ろにある“老舗旅館”のことを考えると、後込みしてしまう。
「では、俺が『葵屋』を継がなければ問題が無いということでいいですか? さんが望むなら、『葵屋』は他の者に譲っても―――――」
「何を言っとるか、蒼紫!」
蒼紫の言葉が終わりきらないうちに、翁が乱入してきた。跡継ぎが勝手にその座を捨てようとしているのだから当然だ。
たかだか女のために老舗旅館を放棄するなんてことになったら、『葵屋』から見ればはとんでもない悪女だ。“悪女”というと絶世の美女というのが定番だが、こんな十人並みの女となったら翁も情けなく思っているだろう。
血相を変える翁に対して、蒼紫は平然と、
「さんは『葵屋』を継ぐことに抵抗があるようだから、それを排除すればいいと思ったんだが」
「四乃森さんが『葵屋』を継がなかったら、みんな困るじゃないですか」
「けれどさんは………」
にまで反対されて、蒼紫は戸惑っているようだ。跡継ぎを放棄したらすべて解決すると思っていたのだろう。そんな簡単な話ではないはずなのだが、蒼紫の頭の中では全ての物事が単純化されているのかもしれない。
「さんは女将になるのが嫌ではなくて、不安なだけじゃろう。なあ、さん?」
「え? あ、はい」
いきなり翁に話を振られて、は思わず返事をしてしまった。
女将になった自分というのは、今のには想像できない。人を使う仕事なんてしたことが無いし、何より店を切り盛りするというのがどういうものか分からない。責任重大だということだけは理解しているが、それだけに自分に務まるかも不安だ。
女将になるというのも不安だが、蒼紫のことも別の意味で不安になってきた。に対して熱心に言ってくれているのが本心なのは解ったけれど、どうも会話が上手く噛み合わないのだ。一つ一つ丁寧に訊いていけば何とかなると思っていたけれど、蒼紫の話はいきなり飛んでしまうし、想像以上に手強い。女将の件は抜きにしても、こんなので蒼紫と上手くやっていけるのだろうか。
「女将もそうですけど、まだ四乃森さんと知り合って間も無いのに………」
「俺はもう十分だと思いますが。見合いは大体三ヶ月程度で決めてしまうと聞きますし」
が悩んでいるのが、蒼紫には不思議に思えるらしい。
確かに見合いはその程度で結論が出るものだが、それは親同士である程度話を纏めているから短期間で決められるのだ。仲人もいない、相手の生育環境も碌に知らない者同士では、そんな簡単には決められない。
「それはお見合いだからで―――――」
「出会い方は関係無いと思います」
既に蒼紫の中では結論は決まっているらしく、あっさり否定されてしまった。結論が決まっているというより、結論しか見えていないのだろう。
多分、蒼紫の中では決められた筋書きがあって、何が何でもその通りに話を進めなければならないと思い込んでいるのだろう。一人でできることならそれでもいいのだろうが、今回はという相手がいるのである。一生のことでもあるし、も蒼紫の筋書きに合わせてやるわけにはいかない。
「関係あります。こういうことは家と家との繋がりなんですから」
「俺には“家”というものは無いので大丈夫です」
びっくりするほど会話が成立しない。翁の話では蒼紫にはずっと家族がいないようであるし、自分の嫁取りには相手の家族が関係してくるというのがよく解らないのかもしれない。
会話だけでなく、形式まで途中をすっ飛ばしてしまうのは如何なものか。浮き世離れにも程がある。こんな男が次の主人だなんて、余計なこととは思いつつもは『葵屋』の将来が心配になった。
「四乃森さんには無くても、私にはあるんです。親の許しも無いのに勝手に決めてしまうのは―――――」
「では、今からご両親に話しに行きます」
「〜〜〜〜〜〜」
どうやってもには逃げ場無しである。それだけを妻として迎え入れたいのかもしれないが、ここまでくると追い詰められているようだ。
こうも熱心に求められるのは女冥利に尽きるのだろうが、ここまでされると引いてしまう。蒼紫の思い込みが激しすぎて怖いくらいだ。
言葉も出なくなったの横から、武子が助け船のように口を挟んだ。
「さんにも急な話のようですし、少し時間を置くのもいいかもしれませんわ。そんな急ぐ話でもないでしょうし」
「何度もお伝えしていることですから、急な話ではないと思いますが」
今更何を言っているのかと、蒼紫は憮然として応える。彼にしてみれば結婚の意志を何度も伝えているのに、何故今になって家だの親だの言い出すのかと思っているのだろう。
蒼紫の意志はついさっきまで正しく伝わっていないことは、これまでの流れで分かりそうなものなのだが、それは分かっていないらしい。自分の思っていることを上手く伝えられない以上に、話の流れを掴むのも難しいのかもしれない。
「結婚についてのお話は、今初めて聞いたので……その………」
何と言って説明すればいいのか、も困ってしまう。
男前の老舗の若旦那に求婚されるなんて、こういうのを玉の輿というのだろう。しかし、こんなに急に話を進められては、嬉しいより困惑してしまう。
どう言えば蒼紫に伝わるのだろう。彼は自分の立場にも家柄にも無頓着であるようだし、同じようにの家にも無頓着だ。家と家との繋がりというものも理解していないようだし、何処から説明すればいいのか分からない。
「では今すぐ考えてください。それからご両親にもお話に行きます」
今聞いたのなら、今答えろというのが蒼紫の理屈らしい。答えは二つに一つなのだから簡単なことだと思っているのかもしれない。
人生の一大事なのだから、そんなに簡単に答を出せるものではないと普通は考えるものだが、蒼紫は違うのだろう。彼にとっては十分な期間を付き合っているのだ。には短いような気がするのだが。
「四乃森さんは私には勿体無いくらいの方だと思いますし、お付き合いも続けたいと思っていますけど―――――」
「では御両親とお会いして祝言の日取りを決めましょう」
最後まで言わせずに、蒼紫は勝手に話を進める。この男は一体どれだけ話を聞かないのか。ここまで聞かないと、これまでどうやって他人と交流していたのか不思議なくらいだ。
「いえ、だから結婚はまだ―――――」
「では結婚は考えない付き合いということですか?」
「だからそうじゃなくて―――――」
「それなら御両親に―――――」
「いい加減にせんか、蒼紫!」
追い詰めるような蒼紫を、翁が一喝した。
「お前の気持ちも解るが、さんが困っておるじゃろう。とにかく落ち着け」
「さんにその気があるかどうかを確認したいだけだ。お前たちも、さんに逃げられたら困ると言っていただろう」
蒼紫にしては珍しく興奮気味に反論する。それだけ必死なのだろうが、必死になるところを間違えているような気がする。
これまでの蒼紫との会話を思い返すと、これは普通の女では太刀打ちできない気がしてきた。これほどの男が今まで独り身だったのも、これが理由だとしたらも頷ける。
お近やお増が「蒼紫様がこんなに女性に関心を持ったのは初めて」と言っていたのも、もしかしたらなら蒼紫のことを理解できると思ったからなのだろうか。
確かに蒼紫は変わっているけれど、は一緒にいて楽しいと思った。の趣味にも理解を示してくれているし、彼女の知らないことを教えてくれもする。いつだったか、「二人で物知りになれますね」と言っていたのも、蒼紫にとってもとの付き合いは楽しいものだったのだろう。
そう思うと、この話はにとっても最良のもののような気がしてきた。女将だとか蒼紫との難儀な会話とか、越えなければならない壁はあるけれど、彼自身はいい人だ。
「祝言は早いと思いますけど、それを前提にしたお付き合いはしたいと思っています」
これが今のの精一杯の答えだ。
何だか蒼紫の勢いに押し切られてしまった感じではあるが、こういうのもありなのかなと思う。結婚というのは勢いとも聞くし、世の中の縁談もこんな風に決まっていくものなのかもしれない。
この話が本当に決まれば、は『葵屋』の女将だ。人見知りだの何だの言ってはいられない。何より、蒼紫のことを“難儀”の一言で済ましていられなくなる。も変わらなければいけないが、蒼紫にも変わってもらわなくては。
「ですから、四乃森さんも皆さんを頼らずにお話ができるようになってください。私も頑張りますから」
「俺は一人でも普通に話せると思うのですが………」
この期に及んで、まだ蒼紫は現状を把握できていないらしい。今までもこんな騒動はあっただろうに、誰も指摘しなかったのだろうか。だとすれば、蒼紫自身よりも周りが問題だ。
これは本当に一人で何とかしなければならないのかもしれない。『葵屋』の仕事のことは周りの協力も得られるだろうが、この現状では蒼紫の会話能力についての協力は無理そうだ。
いきなり心を折られそうになってしまったが、ここまできたら折れたなんて弱気なことは言えない。は心を奮い立たせてきっぱりと、
「普通じゃないから、こんなことになったんです。私も人のことを言えた義理じゃありませんけど、これからもお付き合いを続けるならお互いに努力しないと」
の口調が強すぎたか、今までそんなことを言われたことが無かったせいか、蒼紫は唖然としている。本当に、青天の霹靂といった様子だ。
衝撃のあまり口が利けなくなってしまっている蒼紫の横で、翁も深く頷きながら、
「さんの言う通りじゃ。儂らもいつまでも助けられるわけではないからの」
翁にまでそう言われて、漸く蒼紫も危機感を持ったらしい。何やら考え込むような顔をした。
いいから落ち着けよ、蒼紫(笑)。
自分が考えている筋書き通りに話を持っていこうとしている感がありありです。相手に都合があるなんて考えたことも無さそうだ、この人(笑)。
この歳になっていきなり認識を改めろと言われても困りますよね。でも改めないと今度こそ逃げられるわけで……蒼紫、頑張れ。