再構築

 が『葵屋』を飛び出して、それほど時間が経たないうちに戻ってきた。本人は嫌がっている様子が見て取れるが、武子が強引に引っ張ってきたようだ。『葵屋』の面々は武子に期待していなかったけれど、予想外の大活躍である。
 とはいえ、連れてきた武子の表情も穏やかではない。から一連の流れを聞いて、怒りに任せて『葵屋』にやって来たのだろう。
 どんな形であれ、が戻ってきてくれたということは、『葵屋』にとっては良いことだ。少なくとも話し合いの機会は持てたということである。
「まあまあ、さんに武子さん。お待ちしていましたのよ。蒼紫様とまた行き違いがあったみたいで」
 お増がわざとらしいくらいの明るい声で出迎えるが、武子はにこりともしない。このまま一戦交えるくらいの勢いである。
 肝心のはというと、さっきまで泣いていたのか、少し目が腫れている。場合によっては、また泣き出しそうな危うさだ。
 これは出方を間違えると、完全に終わりだ。二人がいない間に蒼紫には懇々と言い聞かせたけれど、彼の性格ではまた話を拗らせそうで不安は残る。
 本来ならと蒼紫を二人きりにして話し合わせるのが一番なのだろうが、絶対に無理だ。蒼紫の言葉足らずなところは、お近とお増で何とかしなければ。
「さあ、お上がりになって。蒼紫様もお待ちですわ」
 重い空気を打ち破るように無理やり明るい声を出して、お近が二人を招き入れる。が、武子は仏頂面だし、はまた涙を浮かべているのだから、和やかな話し合いは無理そうだ。
 けれど、何を考えているのであれ、話し合いの席に着かせることはできたのだ。完全に見切られたわけではないのだから、逆転の目はある。
「お邪魔します」
 最初の時とは全く違う愛想の欠片も無い声で言うと、武子はを引っ張って中に入った。





 部屋に入ると、蒼紫の他に『葵屋』の主人だという老人もいた。『葵屋』でもが出て行った後に話し合いが持たれていたらしい。
「先程は蒼紫が失礼なことを………」
 翁と名乗った主人は深々と頭を下げた。老舗の主人だけあって、頭を下げる姿も堂々としたものだ。
 圧倒されて何も言えないとは違い、武子は踏ん反り返らんばかりに背筋を伸ばして、
「謝れば済むと思ってらっしゃるのですか?」
 普段はふわふわしているような武子だが、本気になれば老舗の主人と渡り合えるくらいの迫力は出せるのだ。美人というのは、こういう時にも使える。
 そもそも、今回はよりも武子の方が怒っているのだ。肝心のは武子の後ろでうじうじしているだけで、当事者なのに蚊帳の外である。
「わざわざ呼び出して何のお話かと思えば、こんな仕打ちだなんて。老舗というのは私どもと違う御家だとは思っていましたけれど、こうも違うとは思いませんでしたわ」
「それは誤解というものでして。これも家に籠もりきりな上に口下手で、さんにうまく伝えられなかったようでございます。なあ、蒼紫?」
 と武子に平身低頭しつつ、翁はちらりと蒼紫を見る。
「あ……ああ」
 打ち合わせはしているはずなのだが、蒼紫は明らかに動揺している。翁の話が蒼紫の意思に反しているのか、単にこの重苦しい雰囲気に耐えられないだけなのか。武子の怒りに圧倒されているのだとしたら、見かけによらず気の小さい男である。
 武子は蒼紫を睨み付けて、
「この前のことは誤解だといわれて呼び出されたのに、今日はこれですのよ。何が誤解なのかお伺いしたいですわねぇ、四乃森さん?」
「………………」
 女に責められるのは初めてなのか、蒼紫は視線を落として居心地の悪そうな顔をする。そんな姿を見ていたら、この席に引きずり出されたのが不本意だったのではないかと、には思えてきた。
 やはりさっきの言葉が蒼紫の本心だったのか。跡取りになる子供は欲しいが、を『葵屋』に入れるのは何とか阻止したいと思っているのだろう。老舗旅館の御曹司で、蒼紫ほどの美形なら、子持ちであったとしても、『葵屋』に釣り合う家柄の娘を迎えることはできるはずだ。
 そう考えたら、はまた泣けてきた。順調に交際を進めていたと思っていたのはだけで、蒼紫はそんなことは少しも考えていなかったのだ。
「どうしたんですか? 具合が悪いなら、別室で休まれますか?」
 涙を零すを見て、蒼紫が心配そうな顔をする。こんな的外れなことを言うなんて、やはり蒼紫はの気持ちなど何も気付いていなかったのだ。
 とんちんかんな蒼紫の気遣いは、武子の怒りを更に煽ってしまったらしい。武子はきっと眦を吊り上げて、
「なんて人なの?! そうやって話をはぐらかして、どこまで人は馬鹿にすれば気が済むのかしら!」
「も……もういいよ。分かったから」
 激昂する武子の袖を掴み、は必死に止める。
 武子は白黒はっきりつけて蒼紫に詫びを入れさせたいのだろうが、そんなことをされてもは余計に惨めになるだけだ。今だって、ここから逃げ出したいくらいなのに。
 が、武子はとことん蒼紫を追い詰めたいらしい。の手を振り払って、
「よくないわ。どうせ最後なんだから、さんも言いたいこと言いなさいよ」
「………最後?」
 武子の言葉に、蒼紫は怪訝な顔をした。
「最後に決まっているでしょう。あなたの身勝手な都合に振り回されるほど、私たちも暇じゃないんです!」
「やはりさんは子供は好きではなかったのですか………」
 どんな解釈をしたらそうなるのか不明だが、蒼紫は残念そうな顔をする。
 この期に及んでも自身よりも子供の事を言い出すなんて、蒼紫は跡継ぎのことしか考えていなかったのだ。が子供嫌いとなったら、未練も何も無いのだろう。否、のことなど最初から見ていなかったのかもしれない。
 そう思ったら、はますます自分が惨めになって泣けてきた。本の貸し借りをしたり、夜桜を見に行ったり、あれは一体何だったのだろう。花火大会の時に、「もっと早く会いたかった」と言われて浮かれたことも、今となっては恥ずかしくて死にたくなる。
「子供が好きでも嫌いでも、子供だけ取り上げようという相手と付き合う女はいませんよ! 一寸お金があるからって、自分をどれほどだと思ってるのかしら。信じられないわ」
 泣くだけのの代わりに、武子が怒りに任せて吐き捨てる。まともな神経の持ち主なら反論するか謝罪するかのどちらかだろうが、蒼紫は怪訝そうな顔をして、
「確かに子供の教育は俺に任せて欲しいと思っていましたが、さんが全く関わらないというのもどうかと………。やはり子供には母親は必要かと思いますし」
「ええ、そうでしょうとも。だけど今はあなたの教育方針なんか―――――」
 そこまで言って、武子も怪訝な顔をした。
「母親が必要?」
 武子の言葉に、も驚いて顔を上げた。
 蒼紫はさっき、結婚なんか考えていないようなことを言っていたのに、言うことが全然違う。彼がどういうつもりでいるのか、には訳が分からなくなってきた。
「だって、さっき、結婚は考えていないって………」
「子供の前に結婚というものがあるということを忘れていました」
 よく考えなくても大変なことだと思うのだが、蒼紫はさらりと言ってのける。
 子供子供と言っていたくせに、そこを忘れるなんて、とてもじゃないが信じられない。どう好意的に聞いても、武子が騒いだから慌てて後付したとしか思えない。
 仮に本当だったとしても、それはそれで大問題だ。も蒼紫は少し変わっているとは思っていたが、これは“変わっている”どころの騒ぎではない。よくもまあ、これで今まで生きてこれたものである。
「忘れてたって………」
 武子はほど好意的ではないから、完全に疑惑の眼差しだ。普通に考えて、こんな話が信じられるわけがない。
 ぽかんとしていると警戒を解かない武子に、翁が恐縮して、
「蒼紫は世間知らずな上に、普通の家庭というものを全く知らずに育ちまして。いや、そう育ててしまった儂の責任ですじゃ」
「だからさんと知り合って、やっと蒼紫様も人並みになってきたと、私たちも喜んでいましたのよ」
 お近が付け足すように口を挟む。お増も一緒になって、
「結論だけで過程を全部すっ飛ばしちゃう人だから、他所の人に誤解されてばかりですけど、これからは順序だてて話すように私たちからも教えますから。さんと一緒なら、蒼紫様も頑張れると思いますから」
 また逃がしてなるものかと思っているのか、三人とも必死だ。武子がいなければ、を取り囲んで押さえつけてきそうである。
 そして蒼紫はというと、周りがこんなにも必死だというのに、まるで傍観者だ。自分から何か言い出す風でもなく、ただぼんやりと座っているように見える。自分のことでこんなに大騒ぎになっているというのに、どういうつもりなのだろう。
 を引き止めたいと思っているのは『葵屋』だけで、蒼紫はそれほど熱心ではないのだろうかと疑いたくなる状況だ。仮に蒼紫自身もを手放したくないとしても、周りに言わせて自分は黙っているというのは、如何なものか。いくら箱入りだとしても、これはひどい。
 蒼紫が口下手だとか、上手く気持ちを伝えられないと言うのは、こうやって周りが先回りするせいではないかと、には思えてきた。周りが全てお膳立てしてくれるのなら、上手く伝える工夫をしようと考えもしないだろう。
 このままでは、いつまで経っても蒼紫は他人と上手く関われないままだ。とのことがどうなるにしても、蒼紫に学ぶ機会を与えなくては。
 は思い切って口を開いた。
「あの―――――」
「よくまあ、こんな時に他人事みたいな顔をしてられますわね。あなたも何か言ったらどうなの?」
 が話しかけるより先に、武子が蒼紫に食って掛かった。こんな時まで武子に先回りされるとは、も蒼紫と変わらない。
 蒼紫は相変わらず他人事のような顔だが、彼なりには困っているのだろう。少し迷うような声で、
「この顔は元々ですし………。それに俺が話すと、さんを怒らせてしまうから黙っていろと言われましたから」
 馬鹿にしているような答えだが、蒼紫はいたって真面目なようである。もう少し言いようがあるだろうに、これでは口下手どころではない。
 ここにきて、武子も蒼紫が普通ではないということに気付いたらしい。気の毒な人を見るような顔になった。
「四乃森さん、相手を気遣うことも、言われたことを守るのも、とても良いことだと思いますけど……ねぇ?」
 武子も対応に困ってしまったらしく、意見を求めるようにをちらりと見た。自分の手に負えないと判断したらしい。
 ここまで武子主導でやってきたくせに、相手が普通でないと分かった途端に丸投げしようというのも酷いが、これは結局の問題なのだ。は蒼紫を真っ直ぐに見て口を開いた。
「本当に皆さんの仰る通りなら、私は四乃森さんと直接話をしたいです」
 今までのことが全部誤解で、翁たちが言うことが本当だったとしても、蒼紫に言ってもらわなければ意味が無い。上手く伝えられなくても、誤解を招くような言い方でも、が根気よく聞き続ければ、きっと蒼紫の本当の気持ちは伝わると思うのだ。
 勿論、それに付き合うには物凄い時間がかかるに決まっているし、途中で投げ出すことはできないことも覚悟している。大変な作業になるだろうが、それでもと蒼紫が直接話をしなければならないのだ。
 蒼紫は迷うように考える。翁たちに言われたことを守るべきか、の言う通りにするべきか決めかねているのだろう。こんな簡単な決断すら、蒼紫には重大な問題らしい。
 ずいっとにじり出て、は蒼紫を説得する。
「今までは皆さんがお膳立てしてくれたでしょうけど、これからは自分で話してください。四乃森さんがどういう人か解りましたから、私もそのつもりで話を聞きますから」
 ここまで言っても、蒼紫はまだ迷っている。これまでがこれまでだったから、二人で話すのは不安なのかもしれない。
 けれど、いつまでもお近やお増を通訳にしておくわけにはいかないのだ。だって、いつまでも武子に代弁されているわけにはいかない。
 かなり間があって、蒼紫は漸く決心したように言った。
さんと二人だけにしてもらいたい」
「いけません! またさんを怒らせたらどうするんですか」
「これで失敗したら、もう後は無いんですよ? 解ってるんですか?」
 折角の蒼紫の決心を、お近とお増が口々に反対する。二人とも蒼紫のことを思っての発言なのだろうが、その過保護さが蒼紫を駄目にしているということに何故気付かないのだろうと、は不思議で仕方が無い。
「次はちゃんとやる。二人だけにしてくれ」
 蒼紫の声は静かだが、頑として聞き入れない決意は伝わった。彼も本当は、このままではいけないと思っていたのかもしれない。
「ここは蒼紫の言う通りにしよう。ただし、万が一のために儂らは隣の部屋に控えておく。何かあればすぐに呼ぶことが条件じゃ」
 これが翁なりの譲歩なのだろう。隣室で聞き耳を立てられているなんて、には落ち着かないことこの上ないが、蒼紫に前科があることを考えれば仕方の無い措置なのかもしれない。
「分かった」
 自分が信用されていないことは、蒼紫自身も理解しているらしい。少しは抵抗するかと思ったが、あっさりと了承した。
 ただ二人で話すだけだというのに、には信じられないほど大仰なことになってしまった。それだけ蒼紫の意思疎通能力は壊滅的だということか。これは相当な忍耐と覚悟が必要だと、は改めて思った。
<あとがき>
 どんなに周りが話を進めようとしても、やっぱり最後は本人たちが話をしないとね。蒼紫の場合、これがハードルが高そうですが。まあ、主人公さんのコミュニケーション能力も、お世辞にも高いとは言えないようですが(笑)。
 でも二人とも頑張れ。超頑張れ!
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