小休止
『葵屋』では会議が開かれている。勿論、議題は蒼紫の今後についてだ。蒼紫にやっと春が来た、という報告があった時は、翁も狂喜乱舞したものだ。このまま女に興味を持つことも無く、僧侶のような生活を続けるようなことがあればどうしようかと心配していた矢先の出来事だ。女の影響を受けて興味の幅が広がったという話も聞いていたし、これは本物だと安心したところに、この事件である。翁の絶望は深い。
「儂の育て方が悪かったのかのう………」
がっくりと肩を落として、翁は呟いた。
次期御頭に相応しい教育を与えてはきたが、“家族”というものについては何も教えていなかった。後継者が必要だという話はしたことはあったが、“後継者を生み育てる妻”というものについては話し合ったことが無かったように思う。
しかし、後継者について考えるとなれば、“妻”というものは自然とついてくるものではないか。いくら蒼紫でも、一人で子供ができないことは理解しているはずである。
蒼紫自身に“家族”というものが無かったから、そこまで頭が回らなかったのだろうか。それにしても、妻を迎えてから後継者という自然な流れが頭から抜けていたというのは、翁の理解を超えている。
「確認するが、さんのことは、後継者を作るための道具として見ているわけではあるまいな」
「………というと?」
蒼紫は質問の意味を理解していないようだ。怪訝な顔をしている。
「もし、さんに子が出来ずとも、共にいたいかということじゃ」
「ああ、それは当然だ」
「う〜ん………」
蒼紫の返答に迷いは無い。そこまで相手のことを思っているのに、何故こんなことになってしまったのか、翁には不可解だ。
「では、さんと所帯を持つということについても、異存はないということでいいのじゃな?」
「所帯………」
翁が念押しすると、蒼紫は何やら考え込むように眉間に皺を寄せた。
後継者は欲しい、しかし所帯は持ちたくないということなのか。しかしそうなると、“共にいたい”という先程の発言と矛盾する。
「所帯を持つのは嫌なのか?」
「所帯を持つというのが、どうもよく分からん」
「………………」
冗談を言って誤魔化そうとしているのかと思ったが、蒼紫の顔は真剣そのものだ。そもそも、冗談を言うような男ではない。
時が来れば自然に大人になるように、人というのは時が来れば自然に所帯を持つことを考えるものだと思っていた。世間を見渡せば皆そんな感じであるし、家族がいなければ余計にそう思うようである。蒼紫もそうだと思いこんでいたら、とんだ思い違いだったらしい。
考えてみれば、蒼紫の周りには手本となるような“普通の家族”というものが無かった。“自然に”所帯を持つ気になるのも、持ったことの無い“家族”を望むのも、手本が無ければ思いつきもしないに決まっている。一人で生きて一人で死ぬのが、蒼紫の中では“普通の生き方”なのだ。
立派な御頭に育てようとするあまり、人として大切なことを教えることを忘れていた。御頭に据える前に、もっと広い世界を見せておくべきだった。今となってはもう手遅れのようだが。
「あれほど、余計なことを言わないでください、って言ってたのに………」
お近が心底困りきったように溜め息をつく。
「途中までは良かったんですよ。さんも乗り気でしたし。あの一言さえ無ければ、一気に話を持っていけたんですけどねぇ」
お増もすっかり呆れてしまっているようだ。今日は自分が任されていたから、どうにかして話を纏めたかったのだろう。
「………次は上手くやる」
今日ばかりは流石に蒼紫もばつが悪そうだ。何が悪かったのかは理解できなくても、周りの雰囲気は理解しているのだろう。
“次は”などと言っているが、この調子では次があるのかどうかも怪しいものだ。一度目は口下手で誤魔化せても、二度目となるとそうはいくまい。これで許してくれるとしたら、相当懐の深い女だ。
お増は盛大に溜め息をついてみせて、
「あれで次があると思うんですか? いくらさんが人が好くても―――――」
「お友達の武子さんには、上手く言ってくれているようにお願いしたんだけど………」
と蒼紫が話している間、お近はお近で武子に根回しをしておいたのだ。しかし蒼紫がこの調子では、武子もどこまで仲を取り持ってくれるか分かったものではない。
武子とは非常に仲が良いようだったから、この方向から攻めたらどうかと考えてはみたのだが、どうもこの女が頼りないのだ。お近と話していた時も、と蒼紫のことなんかよりも、目の前の菓子のことで頭が一杯のようで、お近の話を聞いているかも怪しいくらいだった。菓子を腹一杯食わせてやったが、菓子くらいの働きをしてくれればいいのだが。
「あとはその武子さんとやら次第か………」
翁も武子のことはあまり当てにしていないようである。蒼紫にやっと来た春がこんな形で終わるのかと、本人以外は深い溜め息をついた。
「―――――それでね〜、芋羊羹でしょ、栗きんとんでしょ〜」
一体どれだけ食べたのか、武子は出された菓子を並べ立てる。そんなに食って、いつ茶を飲んだのか不思議なくらいだ。
そもそも、ああいう席では、そんなに立て続けに菓子を出すものではないだろう。きっと武子が作法を無視して菓子を出させたに違いない。こんなのを招待して、お近も災難である。
「まだ他にもあったかもしれないのに、さんったら、急に帰るなんて言うんだもの。あ〜、残念〜」
まだ食う気だったのかと、はびっくりである。ああいう席の菓子は上品な大きさではあるが、それにしても食べ過ぎだ。予定外のことだったとはいえ、早く帰って良かった。
武子は腹一杯菓子を食べてご機嫌のようであるが、は相変わらず不機嫌である。呼び出されて一寸期待していたというのに、蒼紫の態度があれだったのだ。あんなに浮かれていたのが馬鹿みたいだ。
やっぱりは本気で相手にされていなかったのだろう。しかし二度も虚仮にするなんて、酷すぎる。しかも今日は人前でだ。いくらどうでもいい女であったとしても、やって良いことと悪いことがある。
「今でこの待遇なら、さんがお嫁に行ったら何が出てくるのかしら? 楽しみねぇ」
蒼紫の発言を知らない武子は、もう話が纏まった気でいるらしい。早々に引き上げたところで何か察しそうなものであるが、菓子のことで頭が一杯の武子はの様子まで気が回らないようだ。
が『葵屋』に嫁入りしたら、普通の家に嫁ぐより苦労することもあるだろうが、蒼紫が協力してくれるなら、どんなことでも頑張ろうと思っていた。仕事だって後継ぎ問題だって、なりに覚悟して今日は『葵屋』に行ったのに―――――
「………四乃森さんは、そういうのじゃないから! 『葵屋』に行くのもこれで最後だから!」
蒼紫のことは吹っ切ったつもりなのに、もう何の関係も無い相手なのだと思ったら、涙がぼろぼろ出てきた。あんなことを言われたというのに、まだ未練があるというのか。
言うことが滅茶苦茶で、何を考えているのか解らない男だ。悪意無く相手の気持ちを弄ぶような最低な男なのに、会わないと決めただけで何を泣くことがあるのだろう。
「ど……どうしたの? 何で………?」
人目も憚らず泣き出したを見て、武子もやっとただ事ではないと気付いたらしい。
「今日は正式なお話だったんでしょ? お近さんもそう言ってたし」
武子が聞いていたのは、とは正反対のことだったらしい。話が食い違いすぎて、武子も動揺しているようだ。
『葵屋』の人間が何と言ったところで、は蒼紫の口から結婚は考えていないと聞いたのだ。蒼紫にその意志が無いなら、周りの意見なんて関係ない。
「だって、四乃森さんは………」
あの時の言葉を言おうとするが、しゃくりあげるばかりで言葉にならない。あの時の蒼紫の様子を思い出すと、ますます泣けてきた。
「ああ……此処じゃ人目があるから、何処か落ち着けるところにいきましょう。何か、私が聞いてたのと全然話が違うみたいだし。ね?」
じろじろ見ていく通行人を気にしながら、武子は子供に言い聞かせるように提案した。
落ち着けるところ、ということで、とりあえず近くの茶屋に入った。奥の席なら人目に付かないし、温かい飲み物を飲めば、とりあえず落ち着くだろうと判断したのだ。
何故が泣き出したのか、武子にはさっぱり解らない。今日は結婚を前提にした付き合いを申し込むことになっているのだと、お近が楽しげに話していたのだ。
「あの……今日は正式にお付き合いするって話をするって聞いたんだけど………」
自分には関係無いと思って適当に聞き流していたが、確かのお近は「結婚を前提にしたお付き合い」と言っていた。蒼紫もそのつもりでいるし、『葵屋』もを歓迎するつもりでいることも。だから武子にも協力して欲しいというようなことを言っていた。
武子の協力とは何だろうと思っていたが、こういうことなのかと納得した。きっと、結婚の話が具体的になって、が怖じ気付いたのだろう。そうとしか思えない。
「老舗の女将は大変だろうけど、お近さんたちも協力してくれるらしいし、そんなに難しく考えなくてもいいと思うよ?」
「だって四乃森さんは………」
そう言って、はまた泣き出す。さっきからずっとこの調子だ。
と蒼紫の間でどんな話があったのか知らないが、周りがこんなにも協力的で、悪い人たちでもないようなのだから、泣くほど嫌なことなど無いだろうに。望まれて嫁ぐのが一番幸せなことだと、武子の親も言っていた。
「まあ、四乃森さんは変わってる人らしいから、不安になるのは解るけどね。でも、悪い話じゃないと思うんだけどなあ」
武子も蒼紫のことはよく知らないが、お近が“浮き世離れした人”と言っていた。身内がそう言うくらいだから、他人から見れば相当なものだろう。
けれど、と共通の趣味を持っていて、しかも男前で裕福で、面倒な係累もいないのだから、多少おかしなところは目を瞑ってもいいのではないだろうか。完璧な人間なんていないのだし、こう言っては何だが、完璧な人間はなんか選ばないと思う。
「だって……あの人は跡継ぎだけが目当てなんだもん。私との結婚なんて、これっぽっちも考えてなかったのよ」
「えっ………?!」
まさかのの言葉に、武子は絶句した。お近の話では、蒼紫もこの話には非常に乗り気だと聞いていたのだが。
「で……でも、さんしか考えられないって、そりゃあもう熱心に言ってたそうよ? だからそんなこと………」
「でも、結婚なんて考えてないって………」
「………………」
お近の話との話のどちらが本当なのか判らないが、こんなに正反対なのはおかしい。どうしても話を纏めたいお近が調子のいいことを言ったのか、と蒼紫の間に行き違いがあったのか。
後継者問題で周りが先走りすぎたという可能性もあるが、蒼紫も相当な変わり者であるらしいし、言い方に何かしら問題があったという可能性も否めない。の解釈に問題があった可能性だってある。
いい歳をした男女が二人きりで何度も会って、男側の家にも招待されて、そこまでやって何も無いなんて、どう考えてもおかしいではないか。老舗の若旦那でなくても、非常識だ。
万が一、の言うことが本当だとしたら、抗議しないときが済まない。老舗の若旦那だと思って、こちらが泣き寝入りすると思ったら大間違いだ。
「四乃森さんが本当にそう思っているのか、もう一度確かめに行きましょう! さんの誤解かもしれないし、誤解じゃなかったら、それはそれで考えないと」
「えっ………?!」
武子の急な提案に、はびっくりする。武子が誰かのためにこんなに積極的に動くのは初めてなのだから当然だ。
武子だって、他人の面倒事に首を突っ込むのは好きではない。けれど今回は、友人が人目も憚らずに泣くような大事件なのだ。いくら“他人は他人”が信条の武子でも、口を出さずに入られない。
「また、あんなことを言われるのは………」
さっきのことを思い出したのか、はじんわり涙ぐむ。
「本当は違うかもしれないでしょ! 私まで巻き込んでるんだもの。そんないい加減なことはしないわ」
そうだ。今回の招待には武子も巻き込まれているのだ。これでを虚仮にしたということは、武子も虚仮にしているということになる。そう思ったら、武子にしては珍しく腹が立った。
「私までバカにされてるかもしれないのよ! はっきりさせないと気が済まないわ!」
そう言って立ち上がると、武子はの腕を強く引っ張った。
武子さん、主人公さんの為じゃなくて自分のために動いてるよね……。結構主人公さんの市場価値を冷静に見てるし。
でもまあ、お近さんの思惑通り動いてくれてるんで、結果オーライってことで(笑)。