見解の相違

 武子の言うことを全面的に信じるわけではないけれど、本当に蒼紫が結婚まで考えたいたらどうしよう。あれからずっとそのことばかり考えて、気が付くとの顔はにやけてしまう。
 まだ知り合ってそれほど経っていないけれど、蒼紫との結婚は容易く想像できる。想像できることは実現するものだと聞いたことがあるけれど、これも実現することなのだろうか。
 いきなり子供を作ろうと言われたときはびっくりしたけれど、蒼紫はそこまで具体的に考えいてるのだ。もしかしたら人数も名前も決めているのではないのだろうか。
 結婚願望が強いようには見えなかったけれど、人は見かけによらないものだ。ああ見えて家庭的な男なのかもしれない。
 父親になっている蒼紫の姿を想像してみる。子供と蒼紫という組み合わせは案外悪くない。そして隣にいるのは勿論で―――――
「やだもーっ! どうしようー!!」
 想像するだけでは身悶えしてしまう。少し想像するだけで、これなのだ。これが現実になって毎日のこととなったら、の心臓がもちそうに無い。
「………姉ちゃん………」
 鏡台の前で一人で悶えていると、背後から弟の冷め切った声がした。鏡越しに弟のドン引きした顔が見える。
 いつからいたのか判らないが、この様子では随分前から見ていたのだろう。何でこう、調子の悪いところに出てくるのか。
「いっ……いるならいるって言いなさいよ! 何なのよっ!」
 この空気を吹き飛ばすように、は大声を上げた。
「いや、武子さんが来たからさあ」
 の百面相の一部始終を見ていた弟も、何となく気まずそうだ。いつもなら冷やかしてくるところなのに何も言わないというのは、余程酷かったのだろう。
 冷やかされるのも腹が立つが、何も言われないのは居たたまれない。そんなに酷かったのかと、できることなら時間を巻き戻したいくらいだ。
「あ、うん………」
 弟も気まずいだろうが、もそれ以上に気まずい。鏡に映る弟と視線を合わせないように、化粧品を片付けながらは返事した。





「あら、どうしたの?」
 どんよりとした表情のを見て、武子が怪訝な顔をした。今日は結婚を申し込まれるかもしれないというのに、浮かない表情をしているのが不思議なのだろう。
「うん、ちょっとね………」
 まさか、弟に浮かれまくった姿を見られたとは言えない。あの一件のせいで、の気分はだだ下がりだ。
 冷静になってみれば、まだ蒼紫が結婚を申し込んでくると決まってはいないのだ。散々期待して、とんでもない展開が待っているかもしれない。
 こういう時は大抵、期待外れの展開になってしまうものだ。今日の招待も、ひょっとしたら特に意味の無いものなのかもしれない。
「冷静になってみたら、ただのお茶会のような気がしてきたのよねぇ………」
「どっちでもいいじゃない。招待してくれるんだから」
 やっぱり武子は他人事だ。結局、料亭で茶菓子を食えれば何でもいいのだろう。
 人のことを散々煽っておいて、これである。毎度のことながら、武子の言うことは適当だ。真に受けて浮かれていたのが馬鹿みたいだ。
「そうだけどさぁ………」
 ありえないことだとは思っていたけれど、本当に何も無いとなったらがっかりだ。まあ、短い間でも良い夢を見たと思って諦めるか。
「わざわざ招待してくれてるんだから、悪いようには思っていないはずよ。前向きに考えましょ。そんなことより、今日のお菓子は何かしら〜」
「うーん………」
 武子の関心は、『葵屋』で出される菓子に向けられているようだ。の今後より菓子だなんて、友達甲斐の無い女だ。
 結局、今日の招待の目的はなんなのだろう。ただの茶会とは思えないし、かといって求婚も飛躍しすぎている。
 蒼紫の思惑が何なのか判らないうちは、は茶も喉を通らなそうである。





 武子と一緒に招待されたはずなのに、何故か別々の部屋に通されてしまった。対面には当たり前のように蒼紫が座っている。
 武子の相手はお近がしているそうだ。お近が武子を招待して、はついでみたいなものだったから、二人で話したいことがあるのかもしれない。
 そうなると、ますます解らなくなるのが今の状況だ。武子との話が目的なら、何故を誘ったのだろう。
「先日のお詫びをしたいと思いましてね。蒼紫様は口下手ですから、よく伝わらなかったようで」
 茶を出しながら、お増が必要以上に明るい声で言う。
 先日のというのは、子作り云々のことなのだろう。ということは、やはり今日は結婚の話なのか。
 期待してはいけないと思いながらも、は緊張で胸がドキドキしてきた。もしそうだとしたら、何と返事しよう。
「蒼紫様がこんなに女性に関心を持たれるなんて、初めてのことですもの。ねぇ、蒼紫様?」
「ああ」
 お増に言われて、蒼紫は無表情で応える。
 かなり凄いことを言われている気がするのだが、蒼紫の淡々とした様子を見ていると、そうでもない気がするから不思議だ。蒼紫の考えが全く解らない。
「このまま御縁が無かったらどうしようかとみんなで心配していたんですけど、これで一安心ですわ。勿論、さんのお気持ちが一番ですけれど」
「はぁ………」
 やっぱり蒼紫はとのことを結婚を前提に考えているのだろうか。はじっと蒼紫の様子を窺うが、彼の表情には特に変化は無い。
 これまで蒼紫が女に関心を持っていなかったのが本当だったとして、何故なのだろう。蒼紫ほどの男なら、それに相応しい女が他にいるはずなのに。
「あの……どうして私なんでしょう? 四乃森さんほどの方なら、他にもっと………」
「あの運動神経、そして攻撃力―――――さん意外には考えられません」
 相変わらずの無表情だが、蒼紫はきっぱりと言い切る。
 そこまで男に言われるなんて、には初めてのことだ。しかも、こんな男前にである。自分の女としての立ち位置は解っているつもりだから、にわかには信じられない。
 大体、運動神経だの攻撃力だの、一体何なのか。本当に女として見られているのか心配になってしまう。蒼紫の女の好みがそういうものなのかもしれないが、素直に受け入れるには微妙な条件だ。特に運動神経はともかくとして、攻撃力とは一体何なのか。
「………攻撃力?」
「あの張り手は効きました。油断していたとはいえ、あそこまでまともに入るとは思わなかった」
 あの時のことを思い出したのか、蒼紫の口調はしみじみとしたものだ。見ようによっては、感激しているようにも思える。
 女にぶたれて感激するなんて、蒼紫は絶対おかしい。ひょっとして、女に殴られて喜ぶ趣味でもあるのかと思ってしまうほどだ。
 他人の性癖にあれこれ口を出すほども立派な人間ではないが、これは明らかにおかしい。蒼紫ほどの男に女の影が全く無かったというのも、ひょっとしたらこの性癖のせいではないかとさえ思えてきた。
 残念ながら、には男を殴って喜ぶ趣味は無い。蒼紫のことは好きだが、彼の欲求を満たすことができるかというと、それはどう考えても無理な話である。
「でも私、男の人を苛めて楽しむ趣味は無いので………」
「は?」
 の言葉に、場の空気が凍りついた。無表情を通していた蒼紫ですら、引いている。
 どうやらの言葉は、完全に的外れのものだったらしい。けれど、にぶたれた日のことを思い出してしみじみとするなんて、そういう趣味があるとしか思えないではないか。
「えっ……?! 違うんですか?」
 予想外の反応に、は顔を真っ赤にする。根本のところで、重大な行き違いがあったようだ。
「あっ……あの、私っ………!」
「個人的には、女性にぶたれるのは御免こうむりたいところです」
 そう言って蒼紫は苦笑する。妙な趣味を持っていると勘違いされたことに関しては怒ってはいないようだ。
 蒼紫は続けて、
「だが、油断していたにしても俺に思い切り攻撃できるなんて、なかなかいるものではない。さんのそういう才能が、俺には魅力的なのです」
 蒼紫の発言は直接的すぎて、そういう言葉に慣れていないは完全に舞い上がってしまっている。惚れられたきっかけはともかくとして、これだけの男前にそこまで言われて、冷静でいられる女がいるだろうか。
 舞い上がりすぎて言葉が出ないに、お増が付け足すように言う。
「だから蒼紫様は、さんとの御子が欲しいと思われたんですよ。口下手だから、話がおかしなことになってしまいましたけどね」
「はぁ………」
 体目当てとか財産目当てとは聞いたことがあるけれど、才能目当てと言うのは初めてのことだ。目当てにされているのが才能というのは、体や金を目当てにされるよりは上等なような気もするが、何となく微妙だ。
 きっとは、女の魅力で蒼紫に求められたいのだろう。女に生まれたのなら、それは自然なことだ。才能を求められたとして、それ以上の才能を持つより美しい女が現れたらどうなるのだろうと、まだ起こっていないことに対しても不安になる。
「本当に私でもいいんですか? 私、『葵屋』の女将としてやっていく自信だって………」
 正直、は社交的な性格ではない。蒼紫と結婚して料亭の女将となれば、普通以上の社交性を求められるものだろう。こういう業界への嫁入りは大変だと、噂では聞いている。
「女将?」
 何故か蒼紫が意外そうな顔をした。
 蒼紫と結婚するとなったら、将来的には『葵屋』の女将になるのは自然の流れだろう。まさか、そこまで考えずにとの結婚を考えていたのか。
「だって、四乃森さんは将来的には『葵屋』の主人になる方ですし、そんな人と結婚となると、やっぱり女将になる覚悟というのも―――――」
「………結婚?」
 何故か蒼紫は意外そうな顔をした。そして、少し考えた後、独り言のように呟く。
「そうか、子供を作るとなったら、先に結婚があるか………」
「えっ?」
 まさかとは思うが、結婚のことをすっ飛ばして子作りを考えていたのだろうか。いくら蒼紫が浮世離れしていたとしても、これはあまりにも非常識だ。
 ひょっとして、に子供を生ませたら、それでお終いと思っていたのだろうか。蒼紫としてはの才能とやらを受け継ぐ子供が欲しいだけなのなら、その可能性もありえる。
 当然ながら、は子供を生むだけの道具ではないのだ。感情だってあるし、何より女としての幸せだって求めている。蒼紫の都合を黙って受け入れるような人形ではない。
「何なんですか、一体?! 子供だけが欲しくて、結婚はしないってことですか?! 私、そんな都合の良い女じゃないです!」
 あまりのことには激昂した。こんなに怒ることも、こんな侮辱を受けたのも初めてのことだ。
 の様子に、蒼紫よりもお増が慌てた。
「そうじゃありませんのよ! ああ、蒼紫様ったら、もう………。蒼紫様はさんのことを―――――」
「もういいです! 私が馬鹿でしたわ! 失礼します!」
 は憤然として立ち上がる。ここで泣かなかったのは奇跡みたいなものだ。
 勝手に浮かれてしまったのはの勘違いだったとしても、これはあまりにも酷い。こんな侮辱を受けると解っていたなら、こんなところには来なかった。
 泣きそうになるのを必死に堪え、は部屋を出て行った。
<あとがき>
 ああもう、蒼紫が馬鹿すぎてフラグが立たねぇ……。いくら浮世離れしてるとはいえ、これは酷いよね(笑)。
 しかしこんなに話が通じなんて、“コミュニケーション不全”どころじゃないんだが……。どうするんだよ、蒼紫(汗)。
戻る