Perfectly Euphoria
頬が赤くなった蒼紫を見て、『葵屋』は大騒ぎだ。殴られた痕なのは明らかであるし、蒼紫ほどの男が誰かに殴られたというのが大事件である。しかし当の蒼紫はというと、普段と比べて特に変化は無い。殴られたということさえ忘れているようだ。
本人がその態度であると、周りもその話題は出しにくい。殴った相手がなのは明らかなのだから、余計に気を遣ってしまう。
痕が残るほどに強く殴るなんて、余程のことがあったに違いない。一体何があったのかと、『葵屋』中が心配している。
「蒼紫様、そのお顔………」
茶を持ってきたお近が思い切って尋ねた。
「ああ、これか。どうやらさんを怒らせてしまったらしい」
赤くなっている部分に手をやる蒼紫の様子は、意外にも淡々としている。殴られるほど怒らせた割には気落ちしているようにも見えないし、反省しているようにも見えない。
蒼紫の感情表現が薄いのはいつものことだが、これは一寸どうかとお近は思う。何があったのか知らないが、殴るなんて余程のことだ。
「一体何があったんです? さんがそんなことをするなんて」
お近ものことはよく知らないけれど、人に手を上げるような女には見えなかった。そんな女が痕が残るほど強く殴るなんて、蒼紫が良からぬことをしたとしか思えない。
身内の欲目を差し引いても、蒼紫は固すぎると思うほど生真面目な人間だ。そんな男が不埒な真似をするなんて想像もできないが、うっかり魔がさすということもある。
お近は我がことのように心配しているというのに、蒼紫は他人事のように淡々と、
「さんは子供は好きではないらしい。子作りを提案したら怒らせてしまった」
「は?」
一体何を言っているのかと、お近は耳を疑った。
一体どういう流れで子作りの話になって、この有様なのか。まさかとは思うが、唐突に子作りの話をしたのだろうか。蒼紫ならありえそうだから困る。
お近の予想が正しいなら、これは子供が好きでも嫌いでも怒るだろう。まだそんな深い関係でもないのにそんなことを迫ったら、ただのおかしい男だ。
「………それって、いますぐにでも、とか言いました?」
「勿論だ。年齢的にも急いだ方がいいしな。お増もそう言っていた」
当然のように答えられて、お近は頭が痛くなってきた。お増も、まさかそんなつもりで言ったわけではないだろうに。
確かに蒼紫の子供の誕生は、『葵屋』一同心より待ちわびている。しかしものには手順というものがあるのだ。そんな唐突に話をして、はいそうですかと了承する女がいるはずがない。いたとしても、そんな女はこちらからお断りだ。
まったく、この男は人間関係に疎いというか、馬鹿というか。隠密としては優秀だが、それ以外はまるで駄目だ。お近は深く溜め息をついた。
「そりゃあ嫌われもするでしょうよ。ちゃんと手順を踏まないと」
「でもお増は―――――」
「人のせいにしない!」
お近がぴしゃりと言う。
「今すぐにでも子作りしろだなんて、誰も言ってませんよ。ものには順序ってものがあるんです」
「だからその提案を………」
「そのやり方が問題なんです。まったく、これでさんに完全に嫌われたらどうするんですか」
「それは困る」
流石に嫌われたら困るらしい。ここにきて漸く事の重大さに気付いて慌てたようだ。
「あの素早さと手首の捻りの利いた張り手………。攻撃力もなかなかのものだ。あんな女性はなかなかいない」
やっと自分の立場を理解したかと思ったら、やっぱり蒼紫はずれている。しかし、彼がこれほど強く女に関心を持ったのは初めてのことなのだ。理由はどうであれ、これを逃したら次は無いかもしれない。
運動神経と攻撃力に惚れるなんて訊いたことが無いが、蒼紫ならしょうがない。何が決め手かなんて、人それぞれなのだ。外見だけに惚れるよりはいくらかマシだろう。
「今からでも誤解を解きましょう! 誤解だって解ったら、さんもきっと許してくれますよ」
「しかしさんに子を産んでほしいのは誤解では………」
「………一度そこから離れましょう。順序ってものがあります」
蒼紫は子作りに拘っているようだが、それは今話すことではない。
「今は仲直りするのが先です。そうだ、お店に呼びましょう。お友達と一緒に招待したら、来やすいでしょうし」
「別に友達はいらなくないか?」
「警戒心を薄めるためです。私の名前で呼びますから、今度は変なことは言わないでくださいよ」
周りが動くと引かれる危険性もあるが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。蒼紫だけに任せたら、纏まる話も纏まらない。
お近の案に、蒼紫は深く考え込む。自分たちのことに周りが首を突っ込むことに抵抗があるのだろう。
蒼紫がまともな男なら、本人たちに任せるというのもありだが、残念ながら蒼紫は常識では計り知れない男なのだ。周りが全力で援護して、やっと人並みなのである。
「とりあえず、お友達宛に招待状を出しておきますから。さんがいらっしゃったら、ちゃんとお詫びしてくださいよ」
反論を許さないお近の口調に、蒼紫はしぶしぶながら黙り込んだ。
何だかよく分からないが、『葵屋』の仲居から武子へ招待状が来たらしい。茶会の時に芳名帳に書いていたから、それを元に出したのだろう。
それにしても何故武子宛なのか、彼女自身もよく分からないらしい。『葵屋』に言ったのはあれ一度きりだし、上客というわけでもない。
標的をから武子に変えたのかとも思ったが、も一緒に招待しているのだから、訳が分からない。
「一体なんなのかしら? こういうのって、さんに行くと思ったんだけど」
物事を深く考えない武子も、これには困惑したらしい。すぐにに連絡してきた。
そんなことを言われても、だって大困惑である。一体何を考えているのか、相手の思惑が見えない。
ひょっとして、この前のことでと連絡を取りにくくなったから、武子に行ったのだろうか。確かに蒼紫を殴ったのはまずかったけれど、あれはどう考えても一方的に彼が悪い。
「あんなことを言われたら誰だって………」
「どうしたの?」
あの日のことを思い出したの呟きに、武子が耳聡く気付いた。
「うん、一寸………」
いくら相手が武子でも、あのことを話すのは憚られる。話したところで、今までの蒼紫を知っている武子が信じてくれるかどうか。言われただって信じられないくらいなのだ。
けれど今後のことを考えると、武子には話しておいた方がいいだろう。次は武子を狙っているかもしれないのだ。
散々迷った後、は思い切って話を切り出した。
「四乃森さん、私が思ってたのと違ってたみたい」
「何が?」
「私には拘らないけど、子作りしようって………。言ってる意味分かんないんだけど」
「は?」
武子が聞いても意味不明なのだろう。きょとんとした顔をした。それから少し考えて、
「それって、結婚を申し込まれたんじゃないかしら」
「は?」
今度はがきょとんである。その発言をどう解釈したら、そうなるのだろう。
「でも私に拘らないって………」
「きっとそれは照れ隠しだわ。もう結婚の申し込みなんて、展開早すぎ〜!」
展開が早すぎるのは武子の頭である。には拘らないという発言をそう解釈するなんて、なんと前向きなのか。
仮に結婚の申し込みだったとしても、あれはあまりにも失礼だ。しかもまだ互いのことをよく知らない状態である。蒼紫が相手に拘らない性格でも、は拘る。
悩むに、武子は我がことのように浮かれた調子で、
「ひょっとしてこれって、結婚のための根回しじゃないかしら。ほら、親に挨拶する前に、友達関係から囲い込んでいくつもりなのよ」
「いや、それは………」
いくら何でもそれは無いと思う。そもそもはその話を承諾していないのだ。それどころか張り倒したくらいである。それで話を進めようなんて、普通は考えられないだろう。
しかし武子経由とはいえ、まだに接触しようとしているということは、蒼紫側はまだ諦めていないということなのだろう。には拘らないと言ったくせに、訳が分からない。
武子の言う通り、あれは蒼紫なりの照れ隠しだったのだろうか。とてもそうは見えなかったのだが、彼は一寸変わっているからそういうこともあるのかもしれない。
これまでの行動を思い返してみれば、確かにあの発言は唐突すぎだ。武子ほどの前向きなとらえ方は無理だが、が思っているような酷い意味ではなかったのかもしれない。
「うーん………」
武子ほどでないにしても、どうにか良い方に受け取ろうと努力しているのは、まだ蒼紫に未練があるということなのだろう。確かにあれほどの男と巡り会う機会は、今後のの人生にはありえなさそうだ。次が無いと思ったら、一縷の望みに縋り付きたくもなる。
もしも蒼紫のあれが本当に結婚の申し込みだったとしたらどうしよう。蒼紫のことはまだよく分からないけれど、結婚を前提としたお付き合いというのならありだとは思う。
武子に煽られたわけではないが、いつの間にやらも前向きに考え直し始めていた。
武子、超ポジティブ発想だな(笑)。普通はそこまでポジティブに考えられんわ。主人公さんも乗せられてるんじゃねぇよ(笑)。
そして蒼紫、これと目標が決まったら脇目もふらず突き進むというのは、何かを極めるには向いてる性格だけど、時にはそこから離れることも大切だよ。