明るい家族計画
あれからの観察を続けてみたら、ああ見えて意外と平衡感覚や反射神経が発達していることが判った。本人にそれとなく聞いてみたところ、特に何かやっていたということは無いようである。ということは、あれは天賦の才ということか。生まれつきのものであれば、きっとその才能はの子供にも引き継がれるものなのだろう。
「女というものは子供の英才教育についてどう思っているのだろう?」
「はい?」
蒼紫の唐突な言葉に、茶を入れていたお増がきょとんとした。
「たとえば我が子に何かの才能があったとして、その道の達人に託したいと思うだろうか」
「ちょっと仰る意味が分からないのですが………」
お増は明らかに困惑している。子供どころか結婚すらしていないのだから、、英才教育など考えたことも無いのだろう。
これはやはり、子持ちの女に訊くべきだった。しかし、蒼紫の知り合いに子持ちは一人もいないのだ。人間関係が狭いというのは、こういう時に困る。
「何処かのお子さんを預かる予定でもあるんですか?」
「いや、さんに子供が出来た時にだな。あの人の子なら、きっといい隠密になるだろう」
「まあ………」
それはお増には予想外のことだったらしい。目を丸くして固まった後、何を思ったのか嬉しそうな顔をした。
「それはそれは………。蒼紫様とさんのお子様なら、きっと御頭に相応しい隠密になりますとも」
「………え?」
今度は蒼紫が驚いた。
蒼紫との子供なんて、考えたこともなかった。しかし考えてみれば、何処の馬の骨とも判らぬ男との間の子より、蒼紫の血を引いた子の方が、より強く才能を引き継ぐだろう。少なくとも、どちらに似ても運動神経の良さは引き継ぐはずだ。
自分が子を持つというのは考えたこともなかったが、これはいい考えである。我が子なら遠慮なく鍛え上げることも出来る。
「そうか。その手があったか………」
この発想は無かっただけに、目から鱗だ。どうして今まで思いつかなかったのだろう。
しかしそうなると、問題は時間である。せっかく我が子を鍛え上げるなら、蒼紫の体力のあるうちに全てを教えたい。今から作ったとしても、修行が出来る歳になるのは蒼紫が三十路に入る頃になってしまう。
そう考えると、蒼紫に残された時間は僅かだ。一日も早くとの間に子供を作らなくては。
「これは急がんとまずいな………」
「そうでしょうとも。頑張ってくださいな」
深刻な顔で考え込む蒼紫に、お増は焚き付けるように言った。
「もっと早くお会いしたかった」なんて、夢みたいな台詞だ。あの一言で花火のことも覚えていないくらい、は有頂天である。
あんな男前と親しくすることさえ夢みたいなのに、ここまで言われたのだ。もうこれは付き合っているといってもいいだろう。蒼紫がの恋人だなんて、凄い。
しかし、蒼紫はの何処に惚れたのだろう。自分で言うのも何だが、そこが最大の謎である。武子のようにとびきりの美人というわけでもないし、何か凄い美点があるというわけでもない。が蒼紫の立場だったら、もっと上を狙いそうなものなのだが。
「そりゃあ好みは人それぞれだもの。四乃森さんにも四乃森さんなりの好みがあるだろうし」
武子は大して興味が無いようだ。他人の色恋沙汰なんて、個人的過ぎてどうでもいいのだろう。
聞かされる方は面白くない話でも、には重要なことなのだ。もう少し親身になってもらいたい。
「そりゃそうだろうけど………。四乃森さんの好みって、どんなんなんだろう?」
「そんなの、四乃森さんじゃないと分かんないって」
確かに武子の言う通りである。蒼紫の好みなのだから、武子に訊いても仕方が無い。
けれど、友達なのだから少しは考える素振りくらいしてくれてもいいではないか。はこんなに悩んでいるのだ。
女友達というのは恋愛相談に喜んで乗ってくれるものだと思っていたが、どうも武子はそうではないらしい。つまらなそうな雰囲気がありありと出ている。もともと他人への関心は薄い性格だから、悪気は無いのだと思うのだが。
好かれる根拠が分かっているのなら自信を持てるけれど、何が蒼紫に好かれているか分からないから、本当に好かれているのか不安になるのだ。蒼紫はそんな人ではないと思うけれど、騙されているのではないかと思ってしまう。
そう思ってしまうのはきっと、自分に自信が無いせいだろう。客観的に見て、と蒼紫は釣り合っていないと思う。蒼紫が気に入ったところさえ分かれば、そこを磨いて自分に自信をつけることが出来るのだが。
「うじうじ考えててもしょうがないでしょ。四乃森さんが気に入ってるって言うなら、それでいいじゃない」
武子は励ましているつもりなのだろうが、悩むには他人事のように言っているようにしか聞こえない。自分が武子の立場でも、同じことしか言えないことは分かっているのだが。
の悩みは、端から見れば贅沢なものなのだろう。あんな男前に好かれているのだから、素直に喜んでいればいいのである。それが出来ないのはやはり自信の無さであって、自分に自信が持てるようになりたいのだ。
武子のように美人であったらとか、凄い特技があればと思っても、無いものは仕方が無い。他に自信を持てる何かがないだろうかと、は頭を悩ませた。
熱烈な愛の告白だと思っていたのに、蒼紫の様子はいつもと変わらない。相変わらず無口であるし、これといって劇的な変化があるようにも見えない。
普通、あれだけのことを言った後なら急接近しそうなものなのに、一緒に歩いていても手を繋ごうとする素振りすら見せないのだ。あの言葉は幻聴だったのかと思うほどである。
あれが幻聴だとしたら、の頭は相当あぶない。あれほどはっきり聞こえたのだ。これで幻聴だった日には、医者に診てもらわなくてはならないだろう。
しかし現状は今までと変わらないのだから、幻聴でなくても勘違いだったのかもしれないと思えてきた。何か全然違うことを言ったのを聞き違えていたとしたら、蒼紫の態度は納得できる。
「あの……四乃森さん」
勇気を奮い起こして、は少し上ずった声で尋ねた。
「この前の……あの……聞き違いだったらアレなんですけど、その……えっと、“もっと早く”って、あの………」
言いながらどんどん顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。しかもこれだけ必死になっているというのに言いたいことが殆ど言えていないのだから、本当に困ったものだ。この時点でもう、蒼紫に相応しい女ではない。
自己嫌悪でのた打ち回りたいくらいの体たらくであるが、蒼紫は特に気にしていないように、
「ああ、あれですか。あれはもう解決しました」
「………は?」
何を言っているのか、には全く訳がわからない。あの夜のことが聞き間違いでなければ、何が解決したというのだろう。
もっと早く出会いたかったけれど結果的に出会ったのだから解決したという意味なのか、他にいい人と出会えたから解決したという意味なのか。前者なら、その割には情熱のようなものを感じないし、後者であれば、こうやってに会っている場合ではないだろう。それとも、“もっと早く会いたかった”がそもそもの勘違いだったのか。
ますます悩むとは対照的に、蒼紫は普通に世間話をするような様子で、
「あれから考えたのですが、さんに拘ることはなかったということが分かったので」
「………え?」
一気に血の気が引いて、そのまま倒れるかと思った。
あの言葉は勘違いではなかったのだ。しかも、何があったのか分からないが、でなくてもいいだなんて。
言った後に冷静になったのだろうか。冷静になったとしても、でなくてもいいなんて酷い。しかも悪びれることもなく、さらっとそんなことを言うなんて。
何もかもが衝撃的過ぎて、は言葉が出ない。夢みたいだと浮かれていたのが馬鹿みたいではないか。
否、実際馬鹿なのだろう。自分みたいな女が蒼紫のような男にあんなことを言われるなんて、少し考えればありえないことくらい分かる。それを真に受けて浮かれていたなんて、我ながらおめでたいとしか言いようがない。
今にも倒れそうなの様子に気付かないのか、蒼紫はいつものように淡々と続ける。
「そういうことなので、さん、子供を作りましょう」
「………はぁ?」
唐突過ぎて、は思わず頓狂な声を上げた。
蒼紫が何を言っているのか、全く解らない。否、何を言っているのかは分かるのだが、脳が全力で拒否しているのだ。
に拘る必要は無いなどと言いながら、子作り提案というのは一体なんなのか。相手はでなくてもいいから、とりあえず子供だけ欲しいとでも言いたいのだろうか。それとも、ただやりたいだけか。どちらにしても馬鹿にした話だ。
自分が人目を引く男前だから、みたいな女なら喜んで飛びつくと思っているとしたら、馬鹿にしている。中にはそういう男もいるだろうが、蒼紫は違うと思っていたのに。
そういう目で見ていたのかと思うと、もうどうしようもないくらい激しい怒りがこみ上げてきた。何処から見ても完璧な男前だと思っていたから、幻滅もひとしおだ。今までの紳士的な態度も、このための演技だったのかとさえ思えてくる。
が怒りと屈辱で震えているというのに、蒼紫は全く気付いていないようだ。こんなところでも、蒼紫がのことなど何とも思っていないことが分かる。
「ばっ………!」
馬鹿にしてるんですか! と言いたいところだが、言葉が出ない。怒りで言葉が出ないなんて、初めてのことだ。
の怒りなど見えていないのか、蒼紫は相変わらず穏やかな顔で、
「こういうことは急いだ方がいい。さあ―――――」
手を掴まれようとした刹那、は反射的に蒼紫の頬を引っ叩いてしまった。怒りで言葉が出なかったのも初めてだが、他人を叩いたのも初めてのことだ。
叩いたも驚いたが、それ以上に蒼紫が驚いたらしい。信じられないような唖然とした顔をしている。
こんなことを言って引っ叩かれないと思っていることが、には驚きだ。蒼紫は今までずっと、こんな調子だったのだろうか。
他の女ならいざ知らず、はこんなことを言われてへらへらしていられるような女ではないのだ。相手がどんな男前であったとしても、こんな扱いを受けて平気でいられるわけがない。
「見損ないましたわ! 失礼します!」
叩かれた頬に手を当てたまま呆然としている蒼紫に怒鳴りつけると、は憤然とその場を立ち去った。
蒼紫、筋道を立てて話せよ(笑)。この人、自分で勝手に納得して勝手に話を進めていくイメージです。思い込み激しいからなあ。
やっと“コミュニケーション不全”らしくなった気がします。どうやって誤解を解かせていくか(誤解でもないような気がするが・笑)楽しみです。