彼女の事情
梅雨入りしたらしい。この季節になると空気がじめじめしてただでさえ気が滅入るというのに、全身がベタベタして不快だ。たまに晴れた日も蒸し暑くて、雨の日よりも肌がべたつく。乾燥肌というものに、はずっと憧れている。冬は大変だというけれど、潤いなんて化粧水で補給すればいいのだ。ベタベタの肌より、多少かさついてもサラサラの肌の方がまだマシだ。この季節になると毎年そう思う。
蒼紫と会う時は、特にそうだ。顔がテカってないか気になって、話にも集中できないくらいである。蒼紫の肌が湿度に左右されないように見えるから、余計にそう思う。美形というのは、肌の質までのような凡人とは違うらしい。
そういうわけで、蒼紫と会えるのは嬉しいけれど、少し憂鬱だ。脂浮きが気になって、出来る事なら十分おきにでも化粧直しに行きたい。こうやって向かい合って座っていても、テカりに引かれるのではないかと、顔をまともに上げられないくらいなのだ。
「具合が悪いのですか?」
ずっと俯き加減のに、蒼紫が気遣うように尋ねた。
「あ、いえ、そんなんじゃ………」
気まずくなって、はますます俯いてしまう。
具合が悪いわけではないのだ。今の顔が蒼紫に見せられる状態なのかが気になって、それで顔を上げられないのである。そのせいで蒼紫に不審に思われているのだから、どうしようもないのだが。
こんなつまらないことを気に病まなければならないなんて、蒼紫はには分不相応な相手だということなのだろう。実際、どうして蒼紫みたいな男が自分なんかと会っているのか、には分らないのだ。彼ほどの男なら、武子のような美人を相手にするのが普通なのに。
からかわれているのかとも思ったこともあったが、蒼紫はそんなことをする男ではない。と話を合わせようと、今まで手に取ったことも無いものにも興味を示してくれるような男だ。紳士的でもあるし、文句の付けようがない。だからこそ、も非の打ちどころ
の無い女にならなければならないような気がして、普段なら気にしないことまで気になって萎縮してしまう。
「具合は悪くないです。大丈夫ですから………」
そうは言うものの、の全身がガマの油のようにベタベタしてきた。蒼紫に変な気を遣わせているということで、ますます萎縮してしまっているのだろう。
こうなってくると悪循環である。蒼紫の困った雰囲気が伝わってきた。
「今日は帰りましょう」
は萎縮しているし話も弾まないしで、これでは蒼紫も面白くないだろう。は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「気分も悪くないのにずっと下を向いているというのは、嫌われているのだろうか」
「………は?」
蒼紫の突然の言葉に、お近は訳が分らずに首を傾げた。
主語は無いが、おそらくのことを言っているのだろうということは分かる。これまで自分が好かれているとか嫌われているとか気にしたことの無い男なのだ。それがこんなことを言い出すなんて、最近親しくなった相手しか考えられない。
他人にどう思われているかを気にするようになったのは、良い傾向だ。ただ、“嫌われている”というのは気になる。
「何かあったんですか?」
「何があったか分らない」
蒼紫は困ったように溜め息をついた。
何も無くて嫌われるとは、おかしな話である。二人はたがいに誘い合って会っているようなのだから、傍目ではうまくいっているように見えるのだが。
第一、嫌われているのなら、蒼紫の誘いは断るはずである。嫌でも断れない女もいるが、はそうではないと、お近は思う。一度しか見ていない女だが、あれは絶対に蒼紫に惚れている。
「何も無いのに嫌われるなんて、無いと思いますけどねぇ。嫌いなら、夜桜見物に誘ったりなんかしませんよ」
そう言ってみるが、蒼紫の表情は冴えない。これはお近が思うよりも由々しき事態のようだ。
あの蒼紫にやっと来た春なのだ。『葵屋』一同、二人の動向に一喜一憂するほどに注目している。翁など、これを逃したら自分の目の黒いうちにはこんな華やかな話題は無いのではないかと、本気で心配しているほどだ。
は少々変ったことろがあるようだが、お近が見た感じでは悪い女ではないようだ。少し変わっているのも、蒼紫と付き合うにはちょうどいいと思う。だからこそ、には蒼紫とくっ付いてもらいたいのだが。
「うん………」
そのまま蒼紫は考え込む。どうやらお近が思っているより、事態は深刻なようだ。
女心というのは移ろいやすいものである。この間まで夢中になっていた男に、突然冷やかになることも珍しくはない。の中で何かが起こって蒼紫への気持ちが冷めたというのもありえないことではないが、それにしてもこの前のあれで、今はこれというのは、同じ女であるお近にも理解できない。
どうせ蒼紫の思い過ごしだとは思うが、お近もの本心が気になってきた。
顔の脂を抑える白粉や脂取り紙は山のように出回っているけれど、どれも似たり寄ったりだ。こんなに巷に溢れているのにこれという逸品が無いというのは、きっとの脂は相当しつこいのだろう。
これに加え、これから暑くなれば汗の対策もしなければならない。汗に脂にと、この調子では秋まで蒼紫の前では顔を上げられそうにない。その前に、この状態では秋が来る前に疎遠にもなりかねないのだが。
この前会った時も、蒼紫は面白くなさそうだった。夜桜見物で少し距離が縮まったと思ったら、これである。あんな美形とお近づきになるなんて、もう二度とないだろうに、一体何をやっているのか。
いや、二度とお近づきになれない美形だからこそ、気にしなくていいことまで気にしてしまうのだ。これが並みの男だったら、きっとここまで顔の脂を気にしない。現に今までは対策なんて碌に考えたことも無かったのだ。
「はぁ………」
新製品の白粉を見ながら、は深い溜め息をつく。
“一日中化粧したての肌”だの“白浮きしない”だの調子の良いことが書いてあるが、きっとまた騙されるのだろう。この言葉を信じて何種類か買ったものの、何一つ変わらないのだ。
けれど騙されるとは分ってはいても、新製品となると次こそはと縋り付きたくなるものである。きっと今のは業者の良いカモだろう。
「あら、お買い物ですか?」
買うか買うまいか真剣に悩んでいると、隣から親しげな声で話しかけられた。
「あ………」
そこにいたのは、お近とかいう『葵屋』の仲居だ。こんなところで会うなんて予想外だが、考えてみればと蒼紫の生活圏は重なっているのだから、『葵屋』の仲居と鉢合わせるのも不思議ではない。
「これ、良いですよ。私も使ってますけど、今までのとは全然違いますから」
「はあ………」
店員かと思うほど熱心に勧めるお近に対して、の反応は重い。そう言われて何度も期待外れなのだから、当然と言えば当然だ。
お近の肌には画期的だったかもしれないが、は筋金入りの脂性なのだ。“今までとは全然違う”白粉が駄目だったら、もう絶望的だ。
「何だか元気が無いですね? もしかして蒼紫様と何かありました?」
お近が心配そうに尋ねた。ひょっとしたら蒼紫から何か聞いているのかもしれないと思うと、の心はますます重くなる。
蒼紫が関係することだけれど、彼が原因というわけではないのだ。それなのに蒼紫が気にしているとしたら、どうしていいのか分らなくなる。
お近は同じ女だから、の悩みを理解してくれるだろうか。蒼紫に近い人間でもあるし、もしかしたら突破口を開いてくれるかもしれない。
馬鹿馬鹿しいと笑われるかもしれないが、は思い切って打ち明けてみた。
「私、この時期になると顔が凄くテカっちゃって………。もう四乃森さんが引くんじゃないかってくらいで………」
「え?」
やはりお近にはくだらない悩みに聞こえたのか、きょとんとされてしまった。
「蒼紫様がそう言ったんですか?」
「いえ、四乃森さんは何も。けれど多分………」
変な誤解をされないように、は慌てて否定した。
蒼紫はそんな失礼なことは言わない男だ。けれど、言わないだけで、心の中ではどう思っているのかは分からない。失礼なことは絶対に言わない男だと思うから、は余計に気にしてしまうのだ。
他人にはくだらない悩みでも、には深刻だ。その空気を察したのか、お近は軽い口調で言った。
「蒼紫様はそんなこと気にするような人じゃないですよ。それどころか、さんの肌がどうのなんて気付いてもいないでしょうよ。私たちが髪形を変えても気付かない人なんですから。ああ見えて、結構鈍いんですよ」
「え、でも………」
蒼紫が、お近たちの髪形の変化に気づかないなんて信じられない。の簪にだって気付く男なのに。
「新しい簪には気付く人ですし、お近さんたちにはわざわざ言わないだけかもしれません」
「あら………」
今度はお近が驚いた顔をした。の言葉は、お近には信じられないものだったらしい。
の知る蒼紫と、お近が知る蒼紫は、どうやら違うようだ。その差はずいぶんな隔たりがあるらしく、お近は可笑しそうにニヤニヤ笑った。
「へぇ、あの蒼紫様がねぇ………」
何を思っているのかには分らないが、お近は楽しそうだ。何か蒼紫にとって悪いことを言ったのではないかと思うほどである。
「あ……あの………」
「そこには気付いても、顔のテカりなんか気にしてませんよ。大丈夫ですって。そんなことより、蒼紫様と一緒の時は楽しそうにしてあげてくださいな。俯いてばかりだと、嫌われたのかと気にしちゃってますから」
「えっ? あ、嫌いだなんて、そんな………」
お近の言葉に、は焦るやら恥ずかしいやらで、全身から汗を噴き出した。
嫌いだなんて、とんでもない。それでころか、好きすぎてどうしていいのか分らないくらいなのだ。本人から言われたわけでもないのにここまで焦るなんて、もう重症だろう。
の過剰な反応が可笑しかったのか、お近はくすくす笑う。そして白粉を手渡して、
「本当にこれは良いですから使ってみてください。そしてちゃんと顔をあげて蒼紫様と話してあげてくださいね」
「あ……はい………」
何だかよく分らない勢いに押されて、は白粉を受け取った。
簪にも気付く人だからというから、お近も試しに髪の結い方を変えてみた。何か反応があるかと様子を見ていたが、案の定、蒼紫は無反応である。期待してなかったからどうでもいいが、には反応があって、お近には反応が無いというのは、つまりそういうことなのだろう。
「蒼紫様、今日の私、何か違うと思いません?」
試しに質問してみたら、蒼紫は考え込むような顔をした。言わないだけかと思いきや、本気で判らないらしい。
確かに微妙な変化ではあるが、簪の変化に気付くならすぐに判る程度の変化だ。これに気付かないとなると、余程ぼんやりとお近を見ているということになる。
きっと蒼紫は、のことはしっかりと見ているのだろう。彼女の心境に気付かないところは、まだまだだが。
「さんの簪にはすぐ気付くくせに、私の髪形には全然気付かないんですね。まあいいですけど」
「い……いや、判ってたぞ。櫛だって違うし―――――」
「それはいつものです」
からかわれて慌てて応戦したはずが、あっさりと撃沈してしまった。隠密としては天才的な才能を持っていたはずなのに、それ以外では全く駄目な男だ。
こんな男と、変なところを深刻に悩む女で上手くいくのかとお近は心配になるが、こればかりは二人に頑張ってもらうしかない。とはいえ、これは『葵屋』の総力を挙げて援護する必要があるかもしれないと思った。
脂性には辛い季節がやってきました。今は歳をとったせいか出る脂も減ったんだけど、若いころは凄かった。もう、顔がポテチになったのかと思うくらい(笑)。
乾燥肌には乾燥肌の悩みがあるとは思いますが、脂性肌にも脂性肌の悩みがあるんでございますよ。ああ、いつになったら毛穴の脂が枯れるのか……。