気力はある。余力はない。

 署の医務室には、「女先生」とか「女医者」と呼ばれている女がいる。この時代、女が医師免許を取ることは許されていないどころか、医師免許取得の必須条件である医学校への入学すら許されていないのだから、もちろん渾名である。実際、そう呼ぶ男たちの口調には揶揄の色が見られる。
 「女医者」の実態は、主治医の弟子だ。官営の女子師範を出て、押しかけ弟子になったらしい。きっと、最近流行りの“女学熱”とやらにあてられて、その気になってしまったのだろう。
 とはいえ、女子師範を見事卒業したというのは、本当に学問ができる女なのだろうとは斎藤も思う。聞いた話では、今年卒業した一期生は、入学者のうちの二割程度だったらしい。女の学問と軽く見ていたが、思いのほか難関であったようだ。
 西洋に倣って女子が学問をするのは、悪くはない。しかし、学者ならともかく、西洋医なんて殺伐とした職を女が目指すというのは如何なものか。西洋医というのは人体を切ったり縫ったりするものだ。女の仕事ではない。
 学問ができるのなら、素直に教師になるか、女学者にでもなればいい。どうしても医療に携わりたいなら、看護婦や助産師という道もある。何故西洋医なのか。
 何にしても、女が官公認の医者になりたいなんて狂気の沙汰だ。そんな頭のいかれた女の世話にだけはなりたくないものだ。





 ―――――などと思っていたのだが、突然の腹痛で医務室の世話になることになってしまった。ちゃんとした男の医者がいるのだからと油断していたら、そこにいたのは噂の「女先生」である。これには流石の斎藤も顔が引き攣った。
「医者はどうした?」
 動揺を隠そうと努めたが、斎藤の声は軽く上ずっている。
 そんな反応には慣れているのか、女は平然として、
「先生はお食事中です。いかがなさいました?」
「では出直そう」
「私が代わりに診ますよ。留守番ですから」
「いや、出直す」
 昼飯に行っているというのなら、じきに戻るだろう。薬を飲んだところで瞬く間に治るわけでもなし、医者が戻るまでくらいなら我慢できる。
 何より、女なんぞの診察を受けるのが嫌だ。多少は心得があるのかもしれないが、信用ならない。
 斎藤の心情が伝わったのか、女は少しむっとして、
「あら、そんなに顔色が悪いのに? どうせ変なものを食べてお腹でも下したんでしょ? それくらいなら私にだって診れますよ」
「変なものなど食ってない!」
 腹を下しているのは事実だが、まるで拾い食いでもしたかのような言い草には腹が立つ。左之助ではあるまいし、誰がそんな真似をするものか。
 同じく不機嫌になる斎藤を無視して、女はベッドを指して淡々と指示する。
「さ、そこに仰向けになってお腹を出してくださいな。症状が出たのはいつからです?」
 女は何が何でも診察をするつもりのようだ。獲物を見るような目をしている。
 斎藤はますます見てもらう気が失せた。こんなおかしな女に診察されるなんて、実験台のようではないか。実験ついでに妙な薬でも飲まされたらたまらない。
「やっぱり出直す」
「どうしてです?」
 実験台を逃すまいと思っているのか、女の語気が強くなる。
「女なんかに診てもらいたくないからだ」
 思わず斎藤も本音が出てしまった。
 しかしこんな台詞は言われ慣れているのか、女は全く動じない。それどころか小馬鹿にしたように鼻で笑って、
「女だからなんですか? 女に腹を見せるのが恥ずかしいのですか? そんな恥じらいのある方のようには見えませんけどね」
 斎藤が恥ずかしがって診察を受けたがらないわけではないことは、女も承知しているはずだ。こう言って、「じゃあ見せてやる!」という展開を狙っているのだろう。単細胞ならあり得る展開だが、あいにく斎藤はそんな手には引っかからない。
「お前こそ少しは恥じらいを持ったらどうだ? 男に脱げ脱げ言って、痴女か」
「そういうことは、女が見惚れるような顔と体になってから言ってくださいな。その程度で言われると、聞いてる方が恥ずかしいですよ」
 激昂するかと思いきや、鼻で笑われてしまった。
 学問をする女というのは、きかん気で勝手な者が多いと聞いていたが、変に頭がいいだけに口が達者でいけない。要するに可愛げが無いのだ。
 女学熱とやらでこんな女が増えたら、世の中はどうなってしまうのか。やはり女は“学校より奉公”だ。
「学問をする女は可愛げが無くなると聞いていたが、本当だな。これでは嫁の貰い手もあるまい」
 恵にしろ、この女にしろ、こんなに可愛げが無くては男が寄り付かないだろう。嫁に行って子を産み、夫とその親に仕えるのが女の道というものだ。それがこの有様では、完全に道を踏み外している。今はこれでいいと思っているだろうが、もう少ししたら後悔するに違いない。
「お嫁になど行きません!」
 憎々しげに言う斎藤に、女は嘯くようにきっぱりと言い切った。続けて、
「あなたたちのような旧態依然とした男なんかに、誰が嫁ぐものですか。世の中は変わっていっているのです。能力で差別されるのは仕方のないことですが、性別で差別される時代は終わったのですよ。徳川の時代のように、男だからってだけで偉いと思ったら大間違いです」
 まるで社会運動家の演説のようである。大方、女子師範で仕込まれたのだろう。
 いっそのこと社会運動家にでもなればいいのに、と斎藤は思う。無駄によく通る声をしているのだから、医者なんかより向いているに違いない。
 そもそも斎藤は腹が痛くて此処に来たのであって、女と議論などしている場合ではないのだ。この女も病人に議論を吹っかけている場合ではない。だから女は医者になるべきではないのだ。
「ご高説は結構。医者が来るまで待たせてもらう」
 普段の斎藤なら泣くまで論破するところだが、今はそれどころではない。出直そうにも、腹痛がのっぴきならない状況になってきた。それもこれも、全部この女のせいである。
「だから私が看ると言っているでしょう」
 攻撃的な甲高い声で女は言うが、斎藤は無視して椅子に座る。本当は横になりたいところだが、そんなことをしたら無理矢理診察を始められるに決まっている。この女に診られるくらいなら、腹痛で死んだ方がマシだ。
 女は両手を腰に当て、心底呆れたように、
「本当に頭の固い人だこと! 他の人は診なくていいところまで見せてくるっていうのに」
 “診なくていいところまで見せてくる”とは何かと思ったが、今の斎藤にはどうでもいい。大体の察しはつく。
 女が相手だからと、反応を面白がる輩もいるのだろう。この女がそんなことで怯むタマかと斎藤は思うし、そんなつまらぬことをするから、この女も男を軽んじるようになるのだ。男子たるもの、女なんかと同じ土俵に立つものではない。
 斎藤が無言でいると、女は調子に乗ったのかますます饒舌になる。
「まあ、人体の勉強になるからいいですけどね。そんなことでいちいち驚いていては、医者にはなれませんもの。幼稚ですけど、あなたのような頭の固い人よりはいくらかマシってもんです」
 そんな品性の無い輩と比べるだけならまだしも、それ以下認定とは聞き捨てならない。斎藤には女をからかって面白がるような下品な趣味は無いのだ。
 この女は学問はできるのかもしれないが、致命的に頭が悪いに違いない。本当に賢い女なら、人間性を見るものである。
 やっぱりこの女にだけは診てもらいたくない。たとえこの腹痛で死ぬことになろうとも、絶対にだ。
 額に脂汗を浮かべつつ斎藤が無言でいると、ようやく待ちに待った男の医者が戻ってきた。
「おや、また君か。今日はどうしたのかね」
 “また”と言われるほど斎藤は常連ではないと思うのだが、怪我で何度か世話になったことがあるから、医者からすれば“また”なのだろう。
 医者の言葉に、女は少し驚いた顔をして、次に盛大に呆れかえった顔をした。
「常連なら診せてくれてもいいじゃないですか」
「俺は常連じゃない」
「結構来てる方だと思うがね。で、今日は怪我じゃないようだが、どうした?」
 苦しい中で斎藤が否定しているというのに、医者の一言で台無しだ。
 苛々している斎藤の代わりに女が答える
「腹痛だそうです。本人申告では変なものは食べていないそうですが」
 斎藤と話していた時とは打って変わって、医者か何かのような冷静な声だ。
 医者は少し考えて、
「最近、食中りが多いからねぇ………。ま、一寸診てみようか。君は横で見ていなさい」
「こいつはいらんだろ!」
 思わず大声を出した後、斎藤は吐き気を覚えて咄嗟に口を覆った。
 やっと男の医者が来たというのに、この女が診察に立ち会うとは。斎藤は見世物ではないのである。
 百歩譲って医学生や医業開業試験を受験する予定の人間が立ち会うなら理解を示してやってもいいが(それでも実験台のようで面白くはないが)、とかいう女は医学校の試験すら受けてはいないのだ。言ってみれば斎藤と変わらぬ立場の人間である。見せて減るものではないとはいえ、見せてやる義理もない。
「この女が同席するなら、診察はいらん。薬だけよこせ」
「診察も無しに薬を渡すわけにはいかん」
 西洋医というのは融通が利かなくていけない。漢方医であれば、「いつもの」で済むところである。何が欧化政策だ。面倒が増えただけではないか。
 文明開化だ、新しい時代だと世間は浮かれているけれど、西洋かぶれして良かったことなど何一つ無い。腹下しの薬を貰うのにも手間がかかるし、頭のおかしな女まで現れる始末。欧化政策反対を掲げて暴れ回っている壮士連中に、斎藤は初めて賛同したくなった。
「もういい!」
 この女が診察に立ち会うくらいなら、売薬で済ませた方がマシだ。どうせ、ただの腹下しなのである。貴重な昼休みを無駄に使ってしまった。
 椅子を蹴って出ていきたいところであるが、何しろ腹痛である。力を入れたら悲惨なことになりそうだ。
 少々情けないが、斎藤はそろそろと医務室を出て行った。
<あとがき>
 今度の主人公さんは、ガチガチの職業婦人を目指してます。斎藤との相性はあんまりよくなさそうだ(笑)。
 斎藤の女性観は非常に古臭く差別的に感じますが、当時としては普通の考え方だったようです(参考資料は渡辺淳一の『花埋み』)。恵さんみたいな漢方医を目指す女性は、斎藤にとっては未知との遭遇のようなものだったのかもしれません。ところで漢方医というのは国学者を兼ねていることが多かったようで、恵さんって想像以上に凄い……。
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