第八章  声

 鎌足に用意された別荘は、以前は貴族が不倫相手との密会に使われていたという。その破局で売却されたという、曰く付きの物件だ。
 しかしあまり広くもなく、目立たない外観の建物は、確かに密会にはうってつけだ。露西亜にしては気候が温暖なのも気に入った。静かに過ごしたい“妊婦”に相応しい保養地だ。
 食料品は、ナボコフが週に一度、モスクワから送ってくれるから、特に不自由は無い。贅沢を言ば、保存食ばかりで飽きているというくらいか。生鮮食品は、どうにか理由を付けて彼がやって来た時に、持ってきてくれている。
 肝心の日本陸軍はというと、情報を引き出そうとするだけで、手みやげ一つ持って来ない。いくら偽妊婦とはいえ、少しは鎌足の体を心配しようとは思わないのだろうか。
 頼む前から要りそうなものを送り付けてくるナボコフと、鎌足を道具としてしか扱わない陸軍では、どちらが味方なのか分からなくなりそうだ。
「そろそろ腹の詰め物を増やしとくか」
 鎌足の腹を見て、宮崎が提案した。
 妊娠六ヶ月という設定の鎌足の腹は、膨らみが目立つようになっている。妊婦の腹というのがどれくらいの速さで成長するものなのか、鎌足は知らない。詰め具合については、宮崎に任せきりだ。
「急に大きくなったら、怪しまれないかしら?」
 いくらナボコフが月に一度くるか来ないかという状態でも、不自然な膨らみ方をすれば怪しむだろう。彼は子持ちなのだ。昔のこととはいえ、腹の成長具合は分かると思う。
 が、宮崎は涼しい顔で、
「そんなものは個人差で押し切ればいい。うちのなんか、五ヶ月過ぎたら一気に膨れ上がったぞ」
「あんた、結婚してるの?!」
 これは今年一番の驚きだ。諜報部なんて特殊任務のくせに、よくまあ結婚して子作りする余裕があるものだ。
「ま、嫁とは三年近く会ってないがな」
 これ以上の追求を避けるように、宮崎は話を打ち切った。
 嫌な男ではあるが、彼も彼なりに苦労しているのだろう。まあ、鎌足の知ったことではないが。
「そんなことより、近いうちにあいつを呼び出せ。仕上げに入るぞ」
「………………」
 それが最終目的なのは初めから分かっていたことだが、いざ実行に移すとなると躊躇いが生まれた。
 別にナボコフに悪いと思っているわけではない。いい歳をして、妻子も地位もあるというのに、若い女に夢中になっているような馬鹿な男ではないか。それで身を滅ぼすことになっても、自業自得だ。
 でも―――――鎌足のことを信じきって、いもしない我が子の誕生を心待ちにしているナボコフの姿を思い出すと、本当にこれでいいのかと思う。中年男の純情なんて気持ち悪いと思っていたけれど、あんなに優しくされると情に絆されそうだ。
 そういう人間らしい感情は、この仕事では邪魔にしかならないことは解っている。宮崎だって、そういうものを全部振り捨ててきたのだろう。それができなければ、諜報部員失格だ。
「何だ、今になって怖じ気付いたか?」
 鎌足の迷いを察したのか、宮崎は嘲笑うように言う。
「助かるために政府に寝返った奴が、露助相手に良心が咎めるとか、笑わせるな」
「―――――!」
 反射的に、鎌足は拳で宮崎の顔を殴りつけた。
 陸軍諜報部員になったのは、自分が可愛かったからではない。志々雄が目指していた日本を作るために、政府の中に入り込むことを選んだのだ。今も昔も、鎌足は何も変わっていない。
 殴り返されるかと思ったが、宮崎は殴られた頬をさするだけで、反撃する様子は無い。しかし、自分の発言を撤回する気も無いようだ。
「平手打ちかと思ったら、案外男らしいところもあるんだな」
 相変わらず馬鹿にしたような口調だ。
 宮崎にとって、鎌足は一番嫌いな種類の人間なのだろう。国家転覆をねらった反逆者というだけでなく、その人間性が嫌いなのだろうと思う。
 自分のような人間を嫌う者が多いことは、鎌足も理解している。それでもこの生き方を選んだのは自分だ。自分の選んだ人生を恥じたことは、一度も無い。
「グーで殴ったくらいで“男らしい”って、随分薄っぺらい男らしさね」
 鎌足も負けずに嘲笑する。まるであんたみたい、と言わなかったのは、最後の優しさだ。
 他人の醜聞を仕立て上げて、それをネタに強請ろうなんて、男らしさの欠片も無い。それに協力している鎌足も、宮崎と同じく最低の人間なのだが。
「何とでも言えばいいさ。所詮は負け犬の遠吠えだ」
「その負け犬がいないと何もできないあんたは、何なの?」
 刹那、宮崎が鎌足の胸ぐらを掴んだ。殴らなかったのは、ぎりぎりの理性か。
「あまりいい気になるなよ? 貴様の代わりはいくらでもいるんだ」
 怒りを押し殺した低い声で、宮崎は睨みつける。
 代わりはいくらでもいる、というのは本当なのだろう。従順だと思われている日本娘は、西洋の男に受けがいいらしい。鎌足が使えなくなっても、別の“本物の”日本娘を調達して、標的を変えればいいだけの話だ。
 この作戦が途中で失敗しても、新しい娘を調達すれば、宮崎は痛くも痒くもない。一方、鎌足は監獄生活が待っている。どちらが弱いか、誰が見ても明らかだ。
「………解ってるわよ」
 鎌足は視線を逸らした。
 悔しいが、今は宮崎の言いなりになるしかない。この任務を成功させなければ、次に進むことはできないのだ。群の中で出世できなければ、志々雄が望んだ日本は作れない。
「解ればいい」
 予想外にあっさりと、宮崎は手を離した。
「できるだけ早く、あの男を此処に呼べ。そして外に連れ出すんだ」
「………わかった」
 “女子留学生と政府高官の不適切な関係”の証拠を作るのだろう。いつかこの時が来るのは解っていたが、恐怖とも罪悪感ともつかない感情が澱のように溜まっているのを感じた。
 鎌足が呼べば、ナボコフは疑いも無く此処に来るだろう。そうなるために今日まで“健気な日本娘”を演じてきたのだ。
 軍が望む“証拠”を作ることができれば、鎌足の手柄になる。目標に一歩近付ける。けれど―――――
「うまくやれよ。これが成功すれば、俺もお前も昇進の道が開ける」
 鎌足の胸中を知ってか知らずか、宮崎は上機嫌に言った。





 この時間なら、まだナボコフは職場に残っているだろう。この前の手紙に、忙しすぎて日付が変わる直前まで仕事をしていると書いてあった。
 電話してみて、いないならいないで構わない。話せたとしても、忙しいから会いに行けないと言われても構わない。
 誰も出ないことを心のどこかで望みながら、鎌足は外務省のナボコフの電話を回した。
 呼び出し音が繰り返される。忙しいとはいえ、こんな時間まで毎日残っているわけがないのだ。彼には家族がいるのだから、たまには早く帰ることもあるだろう。
 繰り返される呼び出し音に、ほっとしている自分がいる。連絡が取れなければ、此処に呼び出すことは不可能だ。
 もう出ないだろうと、耳から受話器を離しかけた時、聞き覚えのある男の声が聞こえた。
「もしもし?」
 どうして出てしまったのだろう。あと少しだけ放置していれば、鎌足はもう電話することは無かったのに。
「―――――もしもし、私です。鎌足です」
 絶望を悟られないように、鎌足は静かに語りかける。
 その声は控えめな、遠慮がちな声に聞こえただろう。鎌足が望む望まないに関わらず、ナボコフの理想の日本娘を作り上げている。
「どうした? 何かあったのか?」
 こんな時間だというのに、ナボコフの声はこれ以上望めないほど優しい。
 多分、周りには誰もいないのだろう。二人きりで会う時と同じ声だ。
「あの……私―――――」
 鎌足は声を詰まらせる。
 一体何を言えばいいのだろう。これからこの優しい人を、宮崎のような男に売り渡すのだ。それしか道は無いことは解っているのに、言葉が出てこない。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
 ナボコフの声が心配そうなものに変わる。
「違うの。ただ……声が聞きたくて………」
 口から出任せだが、半分は本当だ。宮崎とあんな話をした後にナボコフの声を聞いたら、少し心が安らいだ気がした。
「うん………」
 そう応えたきり、ナボコフは何も言わない。けれど嬉しそうな雰囲気は伝わってきた。
「一人でいるとね、いろいろなことを考えるの。ナボコフさんは何をしているのかなとか、モスクワはどうなっているのかなとか」
「こっちは何も変わらないよ。そっちの生活はどうだ?」
「とても静かよ。まるで時間が止まってるみたい」
 これは大嘘だ。しょっちゅう宮崎がやって来て、落ち着く間も無い。毎日息が詰まりそうだ。
「鎌足には退屈かもしれないが、子供には良い環境だよ」
「そう…ね………」
 子供なんか、どこにもいないのに。
 もしも本当に赤ちゃんがいたら、鎌足はこんなに苦しい思いをせずにすんだのだろうか。嘘で塗り固めた中に、一つでも本当のことがあったら、この苦しさは少しは和らいだだろうか。
「ナボコフさん」
 そろそろ本題に入らなくてはならない。鎌足は思いきって話を切り出した。
「こっちに来てくれませんか? 声だけじゃなくて、会いたいの」
「………………」
 受話器越しに緊張が伝わってきた。
 ナボコフが此処に来るとなったら、本格的な旅行になる。職場にも家庭にも嘘をついて来ることになるが、嘘が破綻した瞬間に身の破滅だ。
 自分の都合で来る時は、何とでもなると自信がある時に限られるから良いが、鎌足からの呼び出しとなると、面倒なことになったと思っているのだろう。それとも、結婚と認知を迫られると警戒しているのか。
 ここで断られたら、深追いはしない。いっそここで断ってくれたらと、鎌足は少し期待してる。そうすれば、自分を盲目的に信じきっているあの男を、これ以上追い詰めずに済む。
 長い沈黙の後、ナボコフが小さく息を吐くのが聞こえた。
「今月は、無理だ」
「そうよね………。ごめんなさい、変なことを言って」
 少し心が軽くなる。が、次の言葉で息が止まりそうになった。
「来月なら少し時間が作れると思う。だから―――――」
「無理しないで! 無理ならいいの。本当よ」
 誘い込まなければいけないのに、思わず言葉がついて出た。
 この会話が盗聴されている可能性があることは、解っている。盗聴しているとしたら、宮崎は激怒していることだろう。それでも鎌足は言葉を続ける。
「私は大丈夫だから。時間があるならゆっくり休んで」
「いや、できるだけ早く行けるように都合をつけるよ。私も、君たちに会いたいからね」
「え………?」
 その言葉に、鎌足は血の気が引いた。
 “君たち”だなんて、鎌足の正体に気付いたのだろうか。そんなはずはない。気付いているとしたら尚更、そんな言い方はしないはずだ。じゃあ、“君たち”とはどういう意味なのだろう。
「何言ってるの? 私は一人よ?」
 笑うような声を作るが、受話器を握る鎌足の手は震えている。ここでボロを出したら、全ておしまいだ。
 受話器の向こうでナボコフが小さく笑う。
「鎌足と、お腹の子で、“二人”だろ?」
「あ、ああ………そう、そうね」
 ほっと力が抜けた。たしかにナボコフにとっては“二人”だ。
「君一人の体じゃないんだからね。お腹の子のためにも、もう寝た方が良い」
「ええ」
「次は私から連絡するよ。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 鎌足は静かに受話器を置いた。
 直後、電話が鳴った。
「もしもし?」
「うまくいったみたいだな」
 今一番聞きたくない声―――――宮崎の声だった。
「一時はどうなるかと思ったが、男心を擽るのも巧いもんだ」
 宮崎は上機嫌だ。鎌足が本気で引き留めたのを、作戦だったと勘違いしているらしい。
 この男のご機嫌な声を聞いていると、本気で苛々してくる。こんな男に評価されているなんて、ぞっとする。
「盗聴してたの?」
 感情を押し殺した声で尋ねる。
「お前たちの話の流れ次第で、作戦を変えなきゃならんからな。ま、そんな気にするな」
 宮崎の無神経な話しぶりにも腹が立つ。いくら仕事とはいえ、会話を盗み聞きされるのはいい気はしない。
 ナボコフと話していた時は何とも思わなかった機械が、心底忌々しい。この線で宮崎と繋がっているのかと思うと、今すぐにでも引きちぎりたいと思うくらいだ。
「疲れたから、もう寝るわ」
 一方的に話を打ち切ると、鎌足は受話器を叩きつけた。
 悪阻でもないのに吐き気がする。その原因が宮崎なのか自分自身なのか、鎌足にも判らない。忌々しくて腹立たしくて、体の中にあるものを全て吐き出したい。
 そう思った途端、鎌足は洗面台に走って嘔吐し始めた。出てくるのは透明な液体だけだが、それでも吐き続ける。
 もう一度ナボコフの声を聞きたい。
 目と口から透明な液体を垂れ流し続けながら、鎌足は思った。
<あとがき>
 ナボコフのウザさが鎌足にも伝染したようで。
 上司は嫌な奴、なのに敵は自分に優しいとなったら、そりゃあまともな神経してたらおかしくなりますわな。っていうか、吐くほどのストレスってヤバい。
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