第七章 ためらい
妊娠を報告してからというもの、ナボコフは足繁く鎌足の部屋に通っている。まだ腹が膨らまないうちから服だの玩具だの買って来て、完全に父親気取りだ。お陰で鎌足の部屋は子持ちの家のようになってしまっている。此処に赤ん坊が来るのは何ヶ月も先だというのに、しかも男か女かも判らないというのに、玩具だの服だのどうしろというのだろう。
それ以前に、鎌足の腹の中には何も入ってはいない。二人の間に子供なんか出来るわけがないのだから、当然だ。それなのにナボコフはこうやって、せっせと“愛しい我が子”のために準備をしているのだから、おめでたいとしか言いようがない。
「これは凄い。また増えたんじゃないか?」
鎌足の様子を見にきた宮崎が、呆れたように目を丸くした。
「来る度に何か持って来るんだもの。箪笥の中にもまだあるんだから。見る?」
「いや、いい。生まれる前からこの調子なら、今後も期待できそうだ」
予想以上に計画通りに事が運んでいることを確信し、宮崎は口の端を吊り上げた。
鎌足自身も戸惑うほど、全てが思い通りに進んでいる。こんなに調子良く事が運ぶなんて、いつかとんでもないしっぺ返しを食らうのではないかと不安になるほどだ。
全ては怖いほど順調に進んでいる。ナボコフは鎌足の言葉を完全に信じ切って、子供の誕生を待っている。もしも彼が真実を知ったら、どうなってしまうのだろう。
ナボコフが来るたびに渡される子供の物は、鎌足にはとても重い。これを使うのは彼の子供ではなく、孤児院から買い取った捨て子なのだ。そしてその子は、彼を陥れるための道具だ。自分を陥れる存在の登場を楽しみに待っているナボコフの様子は、宮崎には滑稽なものだろう。
少し前の鎌足なら、腹の中で嗤いながらナボコフが買って来た物を受け取っていたと思う。けれど今は―――――
浮かない表情の鎌足に気付いて、宮崎は怪訝そうに尋ねた。
「どうした? 何か都合の悪いことでも?」
「………別に」
都合の悪いことは何も無い。それどころか、怖いくらいに何事も上手くいっている。
「じゃあ、あとはあの男を別荘に誘い出すだけだな。軍も期待している」
上機嫌にそう言うと、宮崎は鎌足の肩を軽く叩いて出て行った。
今夜もナボコフは鎌足の家に来ている。妊娠を知ってからというもの残業を減らし、此処で過ごす時間が増えた。
これまでは鎌足との関係の露見を恐れて、この家に通うのは必要最低限にしていた。けれど、父親になるからには、保身ばかり考えてもいられない。鎌足との関係が世間に知れることを恐れる気持ちは変わらないが、それ以上に母子の様子が気になって仕方がないのだ。
「身体の調子はどうだ?」
出迎える鎌足に一番にそれを訊くのが、ナボコフの習慣になりつつある。顔色を見れば変わりが無いことは判るのだが、それでも訊かずにはいられない。
「大丈夫よ。前より食べるようになって、太ってしまいそなくらいだもの」
冗談のように言って、鎌足はふふっと笑う。
「それは良かった」
妻が初めて妊娠した時は、悪阻で殆ど寝たきりだった。鎌足もそうなるのではないかと心配していたのだが、どうやら杞憂だったようだ。今のところ気分が悪そうな様子は無いし、食欲もあるらしい。こういうのは個人差が大きいのだろう。
この国に親しい友人がいない鎌足には、ナボコフしか頼れる人間がいない。妻のように寝込むことになっていたら、一体どうなっていたことか。運が良かったのか、今から親孝行な子なのか判らないが、この状況に彼は感謝している。
「具合が悪い時はすぐに言ってくれよ。何か必要なものは無いか?」
「それも大丈夫。私が言う前にナボコフさんが持ってきてくださるもの」
鎌足の言う通り、妊婦や赤ん坊に必要と思われるものは、ナボコフが先回りして買い揃えている。食料も、妻の時を思い出して買って来ているのだが、他に欲しいものがあるのではないかと気になって仕方が無い。
鎌足は自分から何かを要求する女ではない。ナボコフが持ってくるものを、慎み深い微笑みを浮かべて受け取るだけだ。
あれこれ要求したり我儘を言われるのは辟易するが、全く何も言われないのも頼りにされていないようで不安になる。日本の女は自己主張をしないことを良しとしていると聞くが、少しくらい主張して欲しい。
「本当に何も無いのか? 君たちのためにできる限りのことをしたいんだ」
表に出すことのできない存在になるのだから、生まれてくる子供には最大限のことをしてやりたい。勿論、鎌足にも。二人には絶対に肩身の狭い思いをさせたくない。
懇願するような口調になるナボコフに、鎌足は少し困った顔をした。
「本当に何も無いの。ナボコフさんには本当に良くしていただいて………」
「しかし………」
鎌足は本当に慎み深い女だと思う。ナボコフが何もしなければ、そのまま子供と二人でひっそりと暮らしていくだろう。そういう女だから尚更、不自由な思いはさせたくない。
「君は私の立場を考えてくれているのかもしれないが、もっと頼ってくれないか? 君の望みは、お腹の子の望みでもあるんだよ」
「それなら、一つだけ………」
熱っぽく語るナボコフに根負けしたのか、漸く彼に頼ることを決めたのか、鎌足は思い切るように言った。
「お腹が目立つ前に、何処か遠くに移りたいの。このアパートの人たちは、私が学生だったことを知ってるし………。お腹が大きくなったら、きっと噂になってしまうわ」
「ああ………」
不覚にも、ナボコフは鎌足に言われるまでそのことに気付かなかった。このアパートの住人がどんな人間か彼は知らないが、未婚で学生の鎌足が妊娠したとなったら、噂の的になることは間違いない。
どうせ腹が目立つようになれば、大学は休校することになるのだ。ただでさえ日本人は目立つことだし、一時的に遠くへ身を移すというのは悪くない。病気療養の名目を付ければ、一年くらいは怪しまれないだろう。
ただ問題なのは、遠くへ引っ越すとなると、今までのようにナボコフが通えなくなることだ。たとえ安定期に入ったとしても、様子を見に行けないというのは、やはり心配である。
「引っ越すのは賛成だが、あまり遠いところだと何かと不便じゃないか? 私もあまり会いに行けなくなる」
「遠いところじゃないと引っ越す意味が無いわ。私のことやナボコフさんのことを知ってる人がいないところへ行かなきゃ」
渋るナボコフに鎌足は強く主張する。これまで何も言わなかった鎌足がこうも強く言うのだから、どうしても通したいのだろう。
確かに、二人を知る者のいない場所へ行かなければ、身を隠すことにはならない。妊婦姿の鎌足を誰か知り合いに見付かりでもしたら、あっという間に噂になるだろう。当然、父親は誰かという話になって、ナボコフの名前が出ないとも限らない。
鎌足の身は心配だが、ここは彼女に従って地方に住まわせるべきか。今より不自由な生活にはなるが、週末に必要なものをナボコフが届けるようにすれば、何とか凌げるだろう。
「わかった。なるべく早く家を手配することにしよう」
「実は住むところの見当は付けているの」
嬉しそうに微笑むと、鎌足は机から一枚の紙を出した。
「此処なんだけど」
鎌足は大きく赤丸を付けた記事を差し出す。貸別荘の広告だ。
こんなものを見ていたなんて、鎌足は反対されても引っ越すつもりでいたのか。下手をすると事後承諾で、黙って行動に移していたかもしれない。大人しいと思っていた女の意外な行動力に、ナボコフは唖然とした。
大人しい女も母親になれば、我が子のために強くなるのだろう。鎌足は秘密の子供を産むのだから、余計に強くならざるを得ない。
自分の軽率な行動で鎌足をこんな目に遭わせてしまって、ナボコフは申し訳なく思う。同時に、そんな彼に対して恨み言一つ言わない鎌足の健気さには頭が下がる思いだ。
鎌足も国費で留学したくらいだから、優秀な学生だったのだろう。国に帰れば、その能力に相応しい職が用意されていたはずだ。ナボコフは生まれてくる命を喜ぶだけの気楽な立場だが、鎌足には生むと決めるまでに様々な葛藤があっただろうことは想像に難くない。
しかも生まれてくるのは、一生日陰に置かれる子供だ。父親がナボコフでさえなければ、この子にも華々しい未来があっただろう。鎌足にも生まれてくる子供にも、詫びる言葉が無い。
「済まない、こんなことになってしまって………」
「何が?」
唐突な謝罪に、鎌足はきょとんとする。
「私の自制心の無さのせいで、君の将来を潰すことになってしまった。子供のことも―――――」
「何を言ってるの?」
優しく微笑んで、鎌足はナボコフの頬を撫でる。
「私はとっても幸せよ。勉強してお国のために働くことも夢だったけど、好きな人の赤ちゃんを生めることには代えられないわ。ナボコフさんはそう思わないの?」
「そんなことはない」
ナボコフは慌てて否定する。
地位だの名誉だの、新しい命に比べれば小さなものだ。ナボコフ自身、鎌足の妊娠を知ってからは、もう子供のことしか考えられない。この子を守るためなら、何でもできる。赤ん坊にはそう思わせる力がある。
「そうでしょう? だから私は大丈夫。今はこの子のことだけを考えたいの」
「ああ」
弱々しいように見えても、鎌足は強い。母親になるという覚悟がそうさせるのだろう。ナボコフはまだまだだ。
妻の妊娠の時は考えたことも無かったが、子供が生まれる時に父親というのは無力なものだ。ただ黙って見ているしかない。何にしても最後は鎌足任せだ。
ナボコフなりに覚悟を決めたつもりでいたが、鎌足に比べればまだまだだった。申し訳ないと思うのではなく、鎌足のように赤ん坊のために何が一番良いことかだけを考えていこうと思う。
「あ〜………」
ナボコフが帰って早々、鎌足はドカッと椅子に身を投げた。
妊娠などしていないのに妊婦の演技は大変だ。妊娠の経験すら無いのだから、いつ気付かれてしまうのではないかとひやひやする。
幸い、ナボコフは全く疑っていない。息子がいると言っていたから、妻の妊娠の時と比べておかしいと気付くのではないかと心配したが、そんなことは無いようだ。その時はあまり関心が無かったのか、それとも鎌足のことを完全に信じ切っているのか。
食べ物やら何やらに詳しいところを見ると、関心が無かったということはないだろう。鎌足の言うことを完全に信じ切っているのだと思う。
それは作戦の成功を意味しているのだが、何故か鎌足の心は晴れない。あんなに盲目的に信じて、鎌足が連れてくるのは何処の馬の骨とも知れぬ子供なのだから。
それでも鎌足が「あなたの子よ」と言えば、ナボコフは喜んで可愛がるだろう。それを想像すると、鎌足は心が重い。
自分は諜報員で、ナボコフはただの情報源だということは解っている。情報源を人間だと思うなと、宮崎にも言われた。鎌足自身、あんな中年男など眼中に無い―――――はずだった。
けれどあれほど優しくされると、相手も情の通った人間なのだと思ってしまう。妊娠を告げた時は逃げようとしたことがうかがえたが、今は誰よりも赤ん坊の誕生を心待ちにしている。鎌足の身体を気遣い、呆れるくらい浮かれている。
妊娠を知った時のまま、ただひたすら保身に走る人間だったら、何も考えずに任務に没頭できただろう。けれどあんな姿を見せられては、騙し続けることに躊躇いが出てしまう。
あんなに優しい人を騙して、犯罪者に仕立て上げて、それが本当に鎌足の望んだ日本に繋がるのだろうか。あの男を踏み台にした日本は、どんな国になるのだろう。
志々雄ならきっと、弱い人間は踏み台にされて当然と言い切るだろう。昔の鎌足だったら、何の疑問も持たずに賛同していたはずだ。けれど今は―――――
鎌足は何も無い腹に手を当てた。
弱肉強食の世界なんて、ナボコフのような優しい人間が食い物にされるだけだ。それが当然の世界は多分、間違っている。
けれど、たとえ間違っていたとしても、この計画を止めることなどできない。ナボコフのことは本国にも伝えられ、鎌足一人ではどうしようもないところまできている。
ナボコフという獲物を絡め取ったつもりが、その罠で鎌足 自身も身動きが取れなくなりそうだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
早いうちにナボコフと離れて頭を冷やす必要がある。暫く会わなければ、またただの標的として見ることができるはずだ。
この任務に失敗すれば、自分は牢獄に逆戻り。あの男はただの標的。自由になるためには、あの男を陸軍に売り渡す以外の道は無い―――――自分の立場を確認するように、鎌足は改めて心に刻みつけた。
ナボコフうぜぇな(笑)。
まあ一応、作戦は好調に進んでいるようです。ナボコフも浮かれているせいか、あまり深く考えていないようですし。鎌足にとってはありがたいことなんですが………。
鎌足も一寸要らぬことを考えるようになってしまっているようで。さて、どうなるでしょうな。