第六章  告知

 妊娠したと言えと宮崎に指示されたものの、どう伝えればいいのやら鎌足には皆目見当も付かない。おまけに旅行にも誘い出さなくてはならないのだ。
 行き先は海に近い保養地にするように指示されている。そこに日本陸軍の顔が利く貸し別荘があるらしい。
 こんな真冬に海辺の別荘とは、狂気の沙汰だ。極寒の潮風に吹き曝されながら流氷を見ろとでもいうのだろうか。鎌足は妊婦という設定なのに。
 妊娠報告もさることながら、この無茶苦茶な旅行計画を切り出すのも頭が痛い。他人の気も知らないで、宮崎は早く行動しろと矢のような催促をかけてくるし、近頃では胃も痛くなってきた。
 志々雄の正義を訴えるために生きることを選んだというのに、一体何をやっているのだろう。ロシアくんだりまでやって来て、中年男の相手をさせられて。こんなはずではなかったと、鎌足は絶望感に襲われる。
 組織の中で出世しなければ、鎌足の声は明治政府には届かない。ロシアでの任務はその足がかりになるはずだったのだが、本当にそうなるのか不安になってきた。
 ナボコフを捕らえることは出来た。僅かながらでも、陸軍に情報も流している。しかし最近になって気付いたことだが、評価されるのは生え抜きの宮崎だけなのだ。寝返り組みの鎌足には何の音沙汰も無い。
 このまま明治政府の中にいて、志々雄の正義を訴える機会は巡ってくるのだろうか。利用されるだけ利用されてお終いでは、生きている意味が無い。
「どうしたんだ、鎌足。少しも食べてないじゃないか」
 鎌足の皿を見て、ナボコフが心配そうに声を掛けた。
「ええ、少し気分がすぐれなくて………」
 この男をどうやって嵌めるか、鎌足はいつも考えている。こうやって会っている時は勿論、そうでない時も。ナボコフを追い詰めなければならないのに、鎌足が追い詰められているようだ。
 思うように集まらない情報、進まない計画、宮崎からの矢のような催促―――――このままでは、鎌足は日本に戻されてしまう。宮崎もそのようなことを仄めかすようになってきた。
 役立たずと判断されれば、二度とこんな大きな仕事は任されることはないだろう。飼い殺しにされて、良いように利用されて終わりだ。それでは生きることを選んだ意味が無い。
 寝返った人間が発言力を得るには、大きな仕事を成功させて政府に力を認めさせるしかない。そのためにはまず、この任務の成功させるしかないのだ。
 そう思うと、ますます鎌足は追い詰められていく。気ばかり焦って、考えが纏まらない。
 このところ、食事もまともに喉を通らない。ナボコフが追い詰められる前に、鎌足が参ってしまいそうだ。
「少し痩せたみたいだ。どこか悪いのか?」
 元気の無い鎌足の表情をじっと見詰め、ナボコフは心から心配するように訊ねる。
 ロシアの冬は厳しい。日本からやってきた鎌足には耐え難いものだろう。日本では経験することの無かっただろう寒さに鎌足が健康を害しても不思議は無い。
 週に何日も会えぬとはいえ、どうしてもっと早く気付いてやれなかったのだろう。鎌足が頼れるのはナボコフただ一人だけだというのに。
 鎌足はきっと、ナボコフに心配をかけまいとして一人で我慢していたのだろう。人目を憚らねばならぬ彼を気遣って、普通の恋人らしいことさえ求めない女である。自分の具合が悪いことでナボコフの心を煩わせるわけにはいかないと考えたに違いない。
 ナボコフとしては、鎌足にはもっと頼って欲しいくらいなのに。体調がすぐれないのなら、病院代くらい出してやる。滋養の付く食べ物も用意する。それくらいのことはお安い御用だ。
「病院には行ったのか?」
「そこまでは悪くないから………」
 食欲不振の原因は、無理な作戦のせいなのだ。医者に見せたところで良くなるわけがない。それどころか診察なんか受けたら、作戦自体が成立しなくなるかもしれないではないか。
 しかし、そんなことは知らないナボコフは、強く病院行きを勧める。
「悪くならないうちに行った方がいい。食欲が無いのは良くない」
「でも………」
「診てもらって何処も悪くないなら、それで安心できるだろう。病院代くらい私が出すから。君のことが心配なんだ」
「そんなこと………」
 そんなことを言われても、鎌足は本当にどこも悪くないのだ。どうやって切り抜けようかと必死に考える。
 と、名案が浮かんだ。これをきっかけに妊娠報告をすれば良いではないか。
 ナボコフはもう、鎌足の保護者気取りである。妊娠したと伝えても、簡単に逃げ出したりしないだろう。
 付き合っていて気付いたことだが、ナボコフは人目を気にする小心者のくせに、鎌足の前では頼れる男であろうと振舞っている。
 最初の朝も、逃げようとしていたくせに、鎌足が目を醒ますと途端に愛の言葉を吐いたくらいだ。妊娠を告げても、内心はどうであれ、掌を返すことは無いはずだ。
 否、この男なら、外聞を恐れてますます鎌足を手放せなくなるだろう。腹の子ごと捨てられた鎌足が、ナボコフの妻に全てを暴露する可能性を考えれば、手元に置いて監視するのが安心だ。
 鎌足は小さく息を吐いて、ナボコフの顔を見た。本当に妊娠してしまったかのように胸がどきどきする。
「そうじゃないの。本当にどこも悪くないの。私………」
 ここで一旦言葉を切ってみる。一息に言うより、躊躇ってみせた方が真実味が増すというものだ。
 ナボコフが怪訝な顔をした。
 いよいよだ。緊張のせいか掌が湿り気を帯びて、鎌足はテーブルクロスの端をぎゅっと掴んだ。
「私……お腹に赤ちゃんがいるの」
「………え?」
 鎌足の告白に、ナボコフは茫然とする。妊娠したなんて、咄嗟に受け入れられないことだ。
 若い恋人たちでもそうだろうに、ナボコフは成人した息子もいるような歳である。しかも鎌足と関係を持ったのは一度きり。それさえも彼の記憶には無いものなのだ。そんな状態で妊娠したと言われても、にわかに信じられるわけがない。
「ち……一寸待ってくれ。子供なんて、急に言われてもそんな………」
 突然余命宣告を受けた患者のように、ナボコフは真っ青な顔でうろたえる。
 たった一度でも、それが記憶に無いものでも、関係を持てば子供が出来る可能性があることくらい、ナボコフでも理解している。しかし、たった一度なのだ。その一回で妊娠だなんて、信じられない。
 世の中には欲しくても出来ない者が五万といるというのに、どうしてよりにもよって自分のところに出来てしまうのか。ナボコフには家庭があり、鎌足は学生なのだ。そんなところに子供だなんて、一体どうすればいいのだろう。
 この世の終わりのように頭を抱えるナボコフの様子を観察しながら、鎌足は注意深く話を進める。
「ナボコフさんが困るのは解ってる。でも私、産みたいの」
「それは………」
 鎌足の気持ちは、ナボコフも解らないでもない。自分の立場がどんなものであっても、子供が出来れば産みたいと思うのは自然なことだ。さっさと堕胎しようと思う方が恐ろしい。
 けれど鎌足に生んでもらうと、ナボコフが困ることになるのだ。外務省の役人が留学生を孕ませたとなれば大問題である。
 しかし生むなと言えば、鎌足がどんな行動に出るか判らない。追い詰められた人間は、とんでもない行動に出るものだ。ナボコフの家庭に突撃されるならまだしも、職場にでも来られたら一巻の終わりである。
 何とかして腹の子を諦めさせる手はないものか。ナボコフは全身にじっとりと汗をかきながら必死に考える。
「君はまだ学生だ。しかも国費で留学している。大きなお腹を抱えて大学に行けるわけがないし、そうなれば仕送りも打ち切りに―――――」
「お腹が目立つようになったら、病気療養ということにして休学するわ。お金さえ出せば適当な診断書を書いてくれるお医者様はいるもの」
 ナボコフの言葉を遮って、鎌足は訴える。
「ナボコフさんの迷惑にならないようにする。赤ちゃんは一人で育てるわ。だからお願い。産ませて」
 自分の迫真の演技に興奮して、鎌足は目を潤ませた。
 子供なんてどこにもいないし、これからも出来ることはない。けれどこうして腹に手を当てて訴えていると、此処に小さな命が宿っているような気がしてきた。
「………………」
 迷惑をかけないと言われても、ナボコフも知らぬ存ぜぬを決め込むわけにはいかないだろう。知らぬ振りをするのは簡単だが、頼る者のいない外国で、身重の鎌足を一人きりに出来るわけがない。
 堕胎させたくても、この様子では難しいだろう。涙を浮かべて懇願する鎌足の姿はもう、子を守る母親だ。まだ胎動を感じることは無くても、母性は芽生えているのだと思う。
 ナボコフも、鎌足と自分の間の子を見たいとは思っている。恐らくこの子が彼の最後の子になるだろう。この子を殺したら、自分の子を抱く機会は永遠に失われてしまう。
 そう思ったら急に、まだ見ぬ赤ん坊がかけがえの無いものに思えてきた。
 妊娠したら生みたいと思うのが本能なら、血を分けた我が子を抱きたいと思うのも本能だ。この機を逃せば、もう二度と女を孕ませることは出来ないだろう。これが最後なのだと思うと、どうにも抑え難い、焦りにも似た感情が湧き上がってくる。
 この子が生まれてしまうと、恐ろしく面倒なことになることは判りきっている。生まれたその瞬間から日陰者の人生を歩ませてしまうであろうことも。
 今のうちに殺してしまうのが八方丸く収まることも、頭では解っているのだ。しかし、それをしてしまえば一生悔やむ事になるだろう。
 この先はただ老いて死ぬだけだと思っていたところに、突然の妊娠。自分はまだ生物として“男”なのだと証明されたのだ。それを証明してくれた鎌足とその子を、どうして打ち捨てることが出来るだろう。
 何も言うなと理性が警告するが、ナボコフはそれを振り切って口を開いた。
「そこまで言うなら、私も出来る限りの協力をする。この子を公にすることは出来ないが、息子たち以上の生活が出来るように援助しよう」
 日陰者にしてしまうのだから、せめて金銭的に不自由しないようにしてやりたい。その程度の金なら、ナボコフにも自由に出来る。
「ナボコフさん………」
 鎌足の目から涙が溢れた。
 自分は賭けに勝ったのだ。これでロシアに残ることができる。
 自分の流す涙が解放感によるものなのか、安堵のためなのか、それともただの演技なのか、鎌足にはもう判らなくなっていた。
<あとがき>
 さて、ナボコフ追い込み作戦本格始動です。
 年取って出来た子供は特別可愛いと聞きますが、やっぱり“最後の子供”っていうのがポイントなのかなあ、と思う今日この頃。いやね、年老いた雌のチンパンジーが、死んでしまった子供がミイラになっても生きている時と同じように抱き続けている映像をテレビで見ましてね。“最後の子供”というのは思い入れが違うのかなと。
 しかしナボコフよ、何故気付かなry
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