第五章 陰謀
あの日以来、ナボコフは週に一度の間隔で鎌足の家にやって来る。この頻度が多いのか少ないのか鎌足には解らないが、忙しい彼にとっては頑張っている方だろう。あまり頻繁に来られるとボロが出そうで困るし、鎌足にとってはこれくらいが丁度良い。ナボコフは今でも、“一夜の過ち”を信じているようだ。“過ち”であるから、あれ以来鎌足を求めてくることは無い。本心ではあわよくばと思っているのかもしれないが、素人女相手の面倒は避けたいのだろう。根は小心な男なのだ。
しかし以前に比べると気安くなったのか、鎌足に色々なことを話すようにはなってきた。他愛ない世間話が殆どだが、たまに仕事に関することも口にすることがある。少しくらい話したところで、鎌足には解らないと高を括っているのだろう。
そういう時は、鎌足ももっと話すように水を向ける。愚痴でも自慢でも、彼の仕事に関わる話なら大歓迎だ。そのためにこんな中年男の相手をしているのだから。
そんないつもにこにこして話を聞く鎌足の姿に、ナボコフは大いに満足しているようだ。仕事の話をするのを嫌がる女が多いというのに、愚痴でも何でも笑顔で聞くのだから、喜ばないわけがない。彼にとっては本当にありがたい発散の場だろう。
ナボコフは仕事の憂さを晴らし、鎌足は欲しい情報を手に入れる。持ちつ持たれつの良い関係だと、鎌足は思う。ここで憂さ晴らしをして明日からの仕事を頑張ってもらい、また鎌足に新しい情報を持ってきてもらうのだ。
「もうこんな時間だ。そろそろ帰ることにしよう」
壁に掛けられた時計を見て、ナボコフが腰を上げた。
「あら、本当。ナボコフさんと一緒にいると、時間が経つのがあっという間………」
芝居がかったことを言いながら、鎌足は淋しげな顔を作る。
西洋人は日本人と違い、こんな芝居がかった言い回しが好きらしい。鎌足にとっては鳥肌ものの恥ずかしい台詞も、ナボコフは実に自然に受け入れるのだ。文化の違いというものなのだろうが、舌を噛みそうになったり笑いを堪えるのが大変だ。
「また来るよ」
子供を慰めるように、ナボコフは鎌足の頬を撫でる。彼も出来ることならずっと鎌足の傍にいたいのだ。こんな淋しげな顔をされるのは辛い。
鎌足のことは本気で可愛いと思っている。思ってはいるのだが、面倒なことになるのは御免だ。感情の赴くままに鎌足の家に居続け、家族に不審に思われることになっては困る。面倒を避けるのは、いつまでも鎌足に会い続けるために必要なことなのだ。
「ずっと一緒にいたいのに………」
悲しげにしながら、鎌足は拗ねてみせる。今日のナボコフは鍵付きの鞄を持っているのだ。この鞄を持っている時は重要書類を持っているのだから、何としてでも引き留めたい。
が、ナボコフは切なげな顔をするだけで、
「済まない。いつかきっと時間を作るから」
そう言うと、鎌足の頬に口付けて出て行った。
ナボコフの気配が遠のいたところで、鎌足は口惜しげに舌打ちした。
「思ったより堅いわねぇ………」
ナボコフは間違いなく鎌足に夢中になっている。部下や家族にも話さないようなことも話すくらい、気も許しているのだ。二人きりの時は年甲斐も無く浮かれていて、確実に鎌足の手の中に落ちている。
なのに、ナボコフは絶対に鎌足の家に泊まることは無い。日付が変わる頃に帰っていく。妻に怪しまれるのを極度に恐れているのだ。
聞いた話によると、ナボコフの妻はかつての上司の娘らしい。父親は今でも外務省内に顔が利くそうで、ナボコフの今の出世も、この父親の後押しもあってのことだという。妻を恐れるというより、その後ろにいる妻の父親が恐ろしいということか。
まったく、どこまでも情けない男だ。小心者なら小心者らしく鎌足から逃げようとするならまだしも、びくびくしながら鎌足と会うことも止めないなんて。まあ、妻を恐れて本当に逃げられては、鎌足も困ってしまうのだが。
しかしそこまで外聞を気にしているということは、鎌足との関係は誰にも知られていないということだ。これはいざ逃げる段になれば都合が良い。
今のところ、鎌足の身は安全だ。だが、いつまでもこの状態では陸軍は納得しない。宮崎からはもっと詳しい情報を要求されている。どうにかしてあの鞄の中身を手に入れなければ。
どうにかしてあの鞄の中身を吐き出させなければ。何か良い方法は無いだろうかと、鎌足は考えた。
「そろそろ揺さぶりをかけてみるか」
鎌足の報告を聞いた宮崎が、腕組みして唸った。
鎌足からの情報はそれなりに有益なものもあるが、軍に胸を張って報告できるものには程遠い。鎌足のロシア滞在費も馬鹿にならないというのに、持ってくる情報が雑談の延長では話にならないのだ。
話を聞く様子では、ナボコフという男は用心深く、小心な男であるようだ。鎌足との関係が明るみに出れば身の破滅だと恐れている。そういう男なら、鎌足の存在そのものが“弱味”になるだろう。
「巧く旅行に誘い出せ。そうだな、出来るだけ遠い場所が良い」
「こんな季節に?」
鎌足は怪訝な顔をする。
このロシアで真冬に旅行だなんて、どうかしている。何処に行くにしても、雪と氷ばかりで楽しめる場所など無いだろう。
が、宮崎はにやりと笑って、
「今だから良いんだ。何処に行っても人が居ないなら、あの男も油断するだろう。あの男とお前の関係の動かぬ証拠を、俺たちが掴むんだ」
モスクワから遠く離れた人気の無い保養地にでも行けば、どんなに用心深くて小心な男でも気が大きくなるはずだ。気が大きくなったついでに鎌足と外出でもして、ただならぬ関係を示すような写真でも撮れれば、後はこっちのものだ。
留学生との不適切な関係をネタに強請れば、秘密の発覚を恐れるあの男はきっと自己保身の為に情報を差し出すようになるだろう。ああいう男は国益なんぞよりも今の自分の立場を何よりも優先させるものだ。そして売国奴の謗りを避けるために、何が何でも機密漏洩の秘密は守り続けてくれる。情報源としてはこの上なく都合の良い男だ。
だが、鎌足は表情を曇らせた。ナボコフを宮崎の餌食にするのが嫌なのではない。あの男がどうなろうが知ったことではないが、一緒に旅行をするとなると何かと不都合が起こることが予想されるのだ。
遠くへ旅行へ出ることになれば、何日か逗留することになるだろう。おまけに旅の開放感で気が大きくなるとくれば、ナボコフも今よりもっと深い関係を求めるようになるはずだ。それは鎌足にとってかなり都合が悪い。
「何日も一緒にいて、誤魔化すのは難しいわ」
「そうだな………」
その辺りは宮崎も悩ましいところだ。若い恋人と旅行ともなれば、男なら誰でもその気になる。鎌足がそれに応えられるなら何も問題無いのだが、絶対に無理だ。
のらりくらりとかわすにも限度がある。旅行中、何もせずに済む方法が何か無いものか。
暫く考えていた宮崎だったが、名案が浮かんだらしく明るい顔をした。
「そうだ、妊娠したことにしろ。いくらあの男でも、妊婦相手には手出しできないだろう」
「はあ?!」
宮崎のとんでもない案に、鎌足は頓狂な声を上げた。
ナボコフが泊まった日からの時間経過を考えれば、妊娠発覚は不自然ではないかもしれない。だが、彼と関係を持った(と思わせている)のは、たった一度である。たった一回で妊娠したと言って信じるものだろうか。
たとえ信じたとして、出来たという子供はどうするのか。腹の膨らみは細工をすればどうにでもなるが、混血の赤ん坊は簡単に調達できないだろう。適当な時期に流れたことにでもするつもりか。
「一回でも大当たりする奴はするもんだ。それに、政府高官が留学生を孕ませたとなれば、あの男もますます逃げ場が無くなる」
とんでもない案だが、宮崎は成功を確信しているらしい。満足げににやりと笑う。
「子供はどうするのよ? 適当なところで流れたことにするつもり?」
「まさか。金髪の混血児は動かぬ証拠だ。何が何でも生む方向に仕向けろ」
「どうやって? 居もしない赤ん坊なんて生めるわけがない」
「産み月までに都合をつける。なぁに、外国人居留区近くを回れば、身寄りの無い混血児の一人や二人、すぐに見付かるさ」
「…………………」
この男の都合の良すぎる考えには、鎌足も呆れて言葉が出ない。宮崎も焦っているのだろうが、やり方が乱暴だ。
乱暴ではあるが、鎌足に代案があるわけでもない。代案が無いなら、宮崎の案に従うしかないだろう。
いくらナボコフが間抜けとはいえ、宮崎の言う通りうまくいくのだろうか。不安を覚えながらも、鎌足は何も言えないのだった。
順調に騙され続けてます、ナボコフ。だから何故気付かない?
そして鎌足たちも本格的に動き始めました。所謂“ハニートラップ”ってやつですかね。