第四章 甘い朝
「此処は………?」ナボコフが目を醒ますと、そこは見慣れた寝室ではなかった。寝ているのも馴染んだベッドではなく、隣にいるのもかれこれ20年以上連れ添った妻でもなく―――――
「………………っ?!」
隣で眠っていたのは鎌足だったのだ。しかも一応寝間着は着ているものの、華奢な肩がしどけなく覗いていて、昨晩何があったのかを物語っている。
そんなはずは無い、とナボコフは咄嗟に否定しようとしたが、今の彼は裸である。これで何も無かったなんてことは無いだろう。
昨夜のことを思い出そうとするが、鎌足に口付けをしようとしてから先のことをどうしても思い出せない。あの時はもう強かに酔っていたから、あのまま記憶が飛んでしまったのだろうか。
しかしこの状況は、酔っていたからといって言い逃れ出来るものではない。外務省の役人が留学生と関係を持ったことが表沙汰になれば、ナボコフは何もかもを失ってしまう。
確かに「妻とのことは何とかする」とは言った。「君に悲しい思いはさせない」とも。その気持ちに偽りは無い。
しかし、今こんなことになるのは困る。ナボコフには社会的立場があるのだ。こんなことで躓くわけにはいかない。
昨日は鎌足も酔っていた。もしかしたら彼女もナボコフと同様、記憶を失っているかもしれない。
鎌足が憶えていないとしたら、まだ逃げ道はある。鎌足のことは愛してはいるが、面倒なことになるのは御免だ。
慌ててベッドから降りようとするナボコフの手を、柔らかなものが掴んだ。
「おはようございます」
うつ伏せ寝のまま、鎌足が小さく微笑む。その恥じらいと嬉しさが入り混じった顔を見て、ナボコフは昨夜の出来事を確信した。同時に、何とも言いようの無い罪悪感に胸が痛む。
鎌足は昨夜のナボコフの言葉を心から信じているのだ。彼が妻と別れ、自分とに一緒に日本へ行く日が来ると、無邪気に思っている。そんな彼女から逃げようと一瞬でも考えたことが恥ずかしい。
「おはよう」
自然に返したつもりだったが、ナボコフの表情は動揺を隠しきれていない。それを敏感に察知したのか、鎌足は少し悲しげに顔を曇らせた。
「私、ナボコフさんを困らせるつもりなんかありませんから………。ずっと今まで通りで良いですから」
「えっ………?!」
逃げようとしたことを気付かれたのかと、ナボコフはどきりとする。
確かに目覚めた時は、保身のことが一番に頭を過ぎってしまった。卑怯な男だと思われるかもしれないが、ナボコフは失うものが何も無い若者とは違うのだから、保身に回ってしまうのは仕方の無いことだ。
けれど鎌足を想う気持ちは、誰にも負けないつもりだ。誰にも負けないほど強く想っているからこそ、彼女のためにも今の立場は守り通さなくてはならない。
鎌足は布団の中で身繕いを済ませると、ベッドに座った。そして縋るような目でナボコフを見上げ、
「ナボコフさんに奥様も息子さんもいらっしゃることは、初めから分かってましたもの。それなのに私が勝手に好きになってしまって………だからナボコフさんを困らせるようなことは絶対しませんから。だから私の前からいなくならないで下さい」
やはり鎌足はナボコフの態度に気付いていたのだ。それなのに彼を責めるどころか、自分から去らないで欲しいと願うだけで、その健気な姿にナボコフは強く胸を打たれた。
こんな健気な少女の貞操を奪い、面倒を恐れて逃げようとしていたなんて、なんと恐ろしいことをしようとしていたのだろう。鎌足の清らかな姿が、ナボコフの醜さを一層強く際立たせる。否、鎌足の前では、彼を取り巻くすべてのものが薄汚れて見えるほどだ。
こんなにも純粋な少女を、どうして放り出すことが出来るだろう。ナボコフが見捨てたら、鎌足は頼る者のいないこの国で一人ぼっちになってしまうのだ。南国に渡り損ねた小鳥のように、この寒空の下で凍え死んでしまうかもしれない。
鎌足は国費留学生だから相応の生活は保証されているのだが、そんなことはナボコフの頭から消えている。彼女が頼れるのは自分しかいないと、その思いで頭が一杯だ。
鎌足を守れるのは自分しかいない。そう思うと、ナボコフの胸は甘美な喜びであふれそうになる。
「鎌足!」
ナボコフは感極まったように、鎌足を強く抱き締めた。腕の中に納まってしまうほど小さな身体は、彼の庇護欲を強く煽った。
鎌足の薄い身体も華奢な骨格も、保護者がいなければすぐにでも壊れてしまいそうだ。こうやってナボコフが抱き締めているのさえ、力加減を間違えると大変なことになりそうなくらいだ。そう思うと一層鎌足が不憫で守りたくなる。
「ナボコフさん………?」
鎌足が戸惑うように身を硬くした。その様子がまた可憐で、ナボコフは嬉しくなる。
「これからも今まで通り―――――否、それ以上に君のことを大事にするよ。だから何も心配しなくていい」
「ナボコフさん………」
今にも泣き出しそうな声で呟き、鎌足は言葉を詰まらせる。多くの日本人妻と同じように、自分も西洋人の男に捨てられると覚悟していたのだろう。
それを覚悟しながら、それでも自分を愛してくれたのだと思うと、ナボコフは鎌足の愛の深さに感動した。こんなに純粋に愛されたことは、今までの人生では無かったかもしれない。
鎌足のこの純粋な愛に応えたい。これから何が起ころうと、彼女を全力で守る。
「君とのことは近いうちに必ずきちんとする。だからもう少しだけ待っていてくれ」
息子たちも既に成人して家を出ている。妻のことさえきちんとすれば、ナボコフも晴れて自由の身だ。そのためには鎌足の存在を誰にも知られないように話を進めなければ。
ナボコフの言葉に応えるように、鎌足はおずおずと、しかししっかりと彼の背に両腕を回した。
ナボコフを送り出して玄関の扉を閉めると同時に、鎌足は大きく伸びをした。朝っぱらからケナゲなヤマトナデシコを演じるのは疲れる。
しかし毎度のことながら、よくもまああんなに簡単に騙されるものである。口付けすらしていないのに、隣に寝ていただけで鎌足が身体まで許したと思い込めるなんて、どこまで騙されやすいのだろう。
しかもナボコフは、鎌足が自分にベタ惚れだと思い込んでいる。若い娘があんな中年男を好きになるなんて、あるわけがないではないか。まったく、自惚れが強いというか楽天家というか。鎌足は笑いを堪えるのに一苦労だったというのに。
「本当にちょろいんだから」
さっきのナボコフの様子を思い出し、鎌足はくすっと笑う。
鎌足の思うがままに騙されて、どこまで本気か判らないが妻と別れるとまで口走るなんて、政府高官とは思えないほどの人の良さだ。純情といえば、純情なのだろう。若い男の純情なら兎も角、中年男の純情なんて笑いの種にしかならないが。
ともかく、これで下準備は完成だ。これからナボコフは人目を避けるために鎌足の家に通うようになるだろう。そうなれば、彼の持つ情報はかなり探り易くなる。
次の報告日に昨夜手に入れた情報と今日のことを伝えれば、強制送還は取り消しだ。あとはナボコフから引き出した情報を小出しに提出すれば、暫くは安泰だろう。
鎌足は机の引き出しの鍵を開けると、ナボコフの書類の写しを出した。これには日本陸軍が喉から手が出るほど欲しがっていたロシアの対極東政策の一部が書かれている。
「私のことが大事なら、頑張って良い情報を運んで頂戴」
さっきのナボコフの様子を思い出しながら、鎌足は皮肉っぽくくすっと笑った。
ナボコフ、順調に騙されてます。何故気付かない?(笑)
自分で書いておいてアレですが、酔って記憶が無いけれど、どうやらヤッちゃったらしいっていうの、こんなにあっさり納得するものなのでしょうか。っていうか、記憶が飛ぶまで泥酔してても出来るものなのか?