第三章  健気な恋人

「オペラに観劇、音楽鑑賞、美術館巡り―――――随分と優雅なものじゃないか、本条君」
 嫌味っぽく口の端を吊り上げると、宮崎少尉は報告書をテーブルに放り投げた。
 日本陸軍はずっと鎌足を監視していたのだ。もともと志々雄一派からの寝返り組みだから、生え抜きの諜報部員と同じように信用されていないのは当然のことである。
「君を遊ばせるために機密費を使ってロシアに行かせたわけではない」
「解ってるわ」
 また説教かと、鎌足は心底うんざりする。
 鎌足とて、毎日遊んでいるわけではない。ナボコフと出歩いているのは、親しくなって彼を油断させるためだ。
 その甲斐あって、ナボコフは週に何度も鎌足と会うようになっている。年甲斐も無く鎌足に夢中になっているのも、はっきり感じている。もう一押しで、彼は落ちるだろう。
「ものには順序ってものがあるのよ。急ぎすぎたら、かえって怪しまれる」
 鎌足は一応、“可憐なヤマトナデシコ”ということになっているのだ。下手に先を急いだら引かれるか、怪しまれる。焦ってナボコフの幻想を壊しては、それこそ何のためにロシアに来たのか分からなくなってしまうではないか。
 が、宮崎は鎌足の考えなどお構い無しに、
「それは解るが、いつまで待たせる気だ。本国は痺れを切らしてる。今週中に何らかの結果を出さんと、それなりの措置を取ることになるぞ」
 日本から余程せっつかれているのか、宮崎はかなり苛立っている。ロシア人高官を掴まえたと報告して以来、何一つ目立った成果が得られないことで鎌足の代わりに彼が矢面に立たされているのだから当然だ。
 しかし、そんなことは鎌足の知ったことではない。軍と鎌足の間で板挟みになって調整するのが、宮崎の仕事なのだ。多少強く言われたからといって、ガタガタ騒ぐなと言いたい。
 だが、“それなりの処置”というのは鎌足も困る。日本に強制送還となったら、間違いなく監獄行きである。そうなったら10年20年の“お勤め”は確実で、明治政府に付いた意味が無くなってしまう。
 鎌足が明治政府に寝返ったのは、政府に正義があったからではない。志々雄は間違っていなかった。それを証明するために、鎌足は陸軍の諜報部員になったのだ。それが監獄行きになってしまったら、生き延びることを選んだことさえ無駄になってしまう。
 今日まで生き恥を晒してきたのは、志々雄のため。彼と共に死んだ由美に勝つため。由美には決して出来ない“生きて志々雄の正義を訴える”ためだ。そのためだけに、今の鎌足は生きている。
「今週中ね………」
 急ぎすぎてはいけないが、残された時間が少ないのなら仕方が無い。ロシアに残るためなら、多少の無理も必要だ。今夜か遅くとも明日、一気に勝負に持ち込もう。
「何とかするわ」
 それ以上の会話を拒絶するように、鎌足はきっぱりと言い切った。





 ナボコフは最近忙しいらしく、仕事を家に持ち帰ることが多いとこぼしていた。しかし鎌足と会う時は仕事のことは忘れたいと言って、書類が入った鞄は持ってこない。
 となると、仕事帰りを狙って待ち伏せするか。しかしナボコフは家庭持ちだから、誰に見られるとも知れない通勤路で待ち伏せするのは少々危険かもしれない。それでナボコフが一気に引いてしまう可能性もある。
 危険だが、ここは一つ賭けてみよう。ナボコフは既に鎌足に夢中になっているのだ。どうしても顔が見たかったと言えば、もしかしたら喜ぶかもしれない。
 そういうわけで、鎌足は外務省近くでナボコフの帰りを待つことにしたのだが、予想外に待たされている。いつも遅くまで残業していると聞いていたから、鎌足も終業時間から遅れて待っているのだが、それでも何時間も待たされているのだ。
 外務省の職員で入り口が見える喫茶店でずっと待っているのだが、人が出る気配は全く無い。建物の灯りが点いているところを見ると、まだ職員は残っているのだから、ナボコフも残っているはずだ。一体いつまで仕事をするつもりなのだろう。
 そうこうしているうちに喫茶店も閉店してしまい、鎌足は外で待たされる羽目になってしまった。京都の冬で寒さには慣れているつもりだったが、やはりロシアの冬は寒い。底冷えなんて生易しいものではなく、身体の芯まで凍りつくのではないかと思うほど寒いのだ。あまりの寒さに、頭まで痛くなってきた。ロシア人が毛皮の帽子を被っている理由がよく解るというものである。
 寒い中こうやって待たされていると、ナボコフや宮崎に殺意さえ覚えてくる。自分でも何やってるんだろうと情けなく思えてきて、とにかく気分は最悪だ。これでナボコフが出てきたら笑顔で迎えなければならないのかと思うと、それだけで腹が立ってくる。
 と、漸くナボコフが姿を現した。
 駆け寄って笑顔で迎えなければと思うのだが、ずっと同じ姿勢で立ち続けていたせいで、凍えて体が上手く動かない。ギシギシと音がしそうにぎこちない動きで鎌足が近付こうとすると、ナボコフもその姿に気付いた。
「鎌足! どうしたんだ、こんな所で?」
 真っ青になって、ナボコフが駆け寄ってきた。
「どうしても会いたくて………」
 ガタガタ震えながら、鎌足は答える。いつものように微笑まなければと思うのだが、顔も凍ってしまったようで表情を作れない。
「そんな、今日は約束なんか………。いや、気持ちは嬉しいんだが………」
 明らかにナボコフは戸惑っている。なんと言葉をかけて良いか、頭が回らないようだ。
 約束もしていないのに突然恋人が職場前で待っていたら、誰だって驚くだろう。しかもナボコフは妻子持ちなのだから、若い恋人の存在は非常に困るものなのだ。
 やはり引かれたかと鎌足が不安げに見上げていると、その目に気付いてナボコフは慌てて取り繕うように早口で言う。
「いや、来てくれたのは嬉しいんだ。ただ、来てくれるのなら電話の一本でも入れてくれれば、こんなに待たせなかった。一体、いつから待ってたんだ? 顔が真っ白になっているじゃないか」
 そう言いながら、ナボコフは鎌足の頬に手を当てた。
 秘密の恋人がやって来たのを怒っているわけではない。それどころか、鎌足の身体を気遣ってくれていたのだ。その様子を見て、鎌足は安心したように小さく微笑む。
「ごめんなさい。ナボコフさんが困るのは解ってたんですけど………」
「困ったりなんかしない。それより何処か暖かいところに行こう。可哀想に、こんなに冷たくなって………」
 心から心配しているナボコフの様子を観察しながら、鎌足は心の中でにやりと笑う。
 この男は本当に自分に夢中になっている。これなら今夜にでも勝負に持ち込めそうだ。
 鎌足はちらりとナボコフの鞄に目を遣った。鞄に鍵は付いていないようだ。これならいける。
「お仕事、持って帰られるんでしょう? 遅くなっても大丈夫ですの?」
「大丈夫さ。大して急ぎの仕事じゃない」
 気遣う素振りを見せる鎌足の姿が健気に映ったか、ナボコフはまるで娘にでも言い聞かせるように優しく言う。
 親子ほど歳が離れているせいか、ナボコフは鎌足に対して恋人のように接するかと思えば、こうやって父親のように接することもある。彼には息子しかいないらしいから、鎌足に理想の娘の姿を重ねているのかもしれない。理想の恋人に理想の娘と、忙しいものである。
「良かった。ご迷惑だったらどうしようかと思ってましたの」
「迷惑なんかじゃないさ。さて、この辺りでまだやっている店は―――――」
「もしよろしかったら、家にいらっしゃいません?」
 考えるナボコフを遮って、鎌足は提案する。
 店なんかに行ったら、ゆっくり鞄の中身を見ることが出来なくなってしまう。鎌足の家に連れ込んで、どうにか酔い潰さなければ。
 鎌足の提案に、ナボコフは些か驚いたようだ。これまでは彼がそれとなく切り出しても絶対に玄関にも入れなかったから、相当身持ちの固い女だと思っていたのだろう。家に入れなかったのは、単に日本軍からの書簡があるからなのだが。
 しかし今夜は、それもしかるべき所に預けた。たとえ家捜しをされても鎌足と日本軍とを繋ぐものは見付からないだろう。
 戸惑うナボコフに、鎌足は畳み掛けるように言葉を続ける。
「いつもいろんなところに連れて行っていただいたり、ご馳走になったりしてるんですもの。今日は私に御馳走させてください」
「いや、しかし君の家でというのは………」
「お口に合うか分かりませんけれど、手料理を用意しましたの。ナボコフさんに私の国の料理を食べていただきたくて………。ご迷惑ですか?」
 そういって鎌足は悲しげな表情を作る。こういう顔をすればナボコフが断れないことは分かっているのだ。
 案の定、ナボコフは慌てて手を振って、
「とんでもない。君の家に招待してくれるなんて嬉しいよ」
「じゃあ、決まりですね。自分が作ったものを誰かに食べてもらうなんて初めてだから、緊張しちゃいますわ」
 これで第一段階は成功である。鎌足ははしゃいだ声を上げた。





 鎌足の料理を、ナボコフはいたく気に入ったようだ。日本食は見たことも無いという彼にはどれもこれも未知のもので、いちいち感心していた。鎌足が作ったものだと思っているから、多少の世辞は入っているのかもしれない。
 勿論これらの料理は鎌足が作ったものではない。誰がこんな手の込んだものを作るものか。これらのものは、宮崎に調達させたものである。
 随分と簡単に騙されるものだと、酒と料理を勧めながら鎌足は呆れてしまう。恋は盲目というけれど、いい歳をしてこんなにとんとん拍子に騙されるなんて、本当に大丈夫かと心配してしまうほどだ。これで政府高官というのだから、ロシアの未来は暗いかもしれない。
「日本食というのは初めてだが、こんなに美味しいとは思わなかった。こんなものを毎日食べられるのなら、一度日本に行ってみたいな」
 日本酒が程よく回ってきたのか、ナボコフの口は軽い。日本酒は彼がいつも飲んでいるウオツカより弱いからこんなに早く酔うなんてことは無いはずなのだが、仕事で疲れているのだろう。早く潰れてくれるのなら、鎌足にとってこれほど都合の良いことはない。
「ロシアでは食材がなかなか手に入らないからこんなものしか用意できませんでしたけど、日本に行けばもっと美味しいものが沢山ありますわ。いつかナボコフさんをお連れしたいけれど………」
 そう言いながら、鎌足は悲しげに目を伏せてみせる。
 妻帯者のナボコフと日本に行くなんて、どう考えても無理な話だ。それでも一緒に自分の国へ行きたいと望んでいる姿を見せ付けることで、ナボコフへの想いを表現してみた。一つ間違えれば重い女だと思われる危険があるが、今の彼が相手なら大丈夫だろう。
 鎌足の言葉に、ナボコフは悲しげに眉を曇らせた。
「君と一緒に日本へ行くことは今は無理だが、いつかきっと何とかする。約束するよ」
 いかにも誠実そうに語るナボコフの言葉に、鎌足は危うく噴き出しそうになった。
 いつかきっと何とかするなんて、一体どう何とかするというのだろう。その場限りの約束をいかにも誠実ぶって口にするなんて、こいつもいい加減な男だ。本当に誠実な男なら、こんな出来もしない約束は口にしない。
 その点、志々雄は鎌足に思わせぶりなことは何一つ言わなかった。鎌足の気持ちを知っていて、それを利用しているのを感じないではなかったが、甘い言葉一つかけてくれなかったのは彼なりの誠意だったと思っている。ナボコフのように思わせぶりなことを口にすれば、鎌足を騙すと同時に由美も裏切ることになるのだから。
 否、もしかしたらナボコフ自身にはいい加減なことを言っている自覚は無いのかもしれない。この一瞬だけは、本気で何とかしたいと思っているのかもしれない。一瞬だけの薄っぺらな本気など、鎌足には笑止千万なのだが。
「いいえ。私はナボコフさんとこうやって会えるだけで十分ですわ。これ以上我が儘言ったら罰が当たっちゃう」
 自分でも随分と空々しいことをいえるものだと呆れながら、鎌足はあくまで健気に振舞ってみせる。健気な演技というのは、最初の頃こそこみ上げてくる笑いを堪えるのに苦労していたが、今では呼吸をするより自然に演じられるようになった。ひょっとして自分にはこんな一面があったのではないかと思うほどだ。
 元々そういう一面があったのか、それとも演じているうちに自然と板に付いたのか、鎌足には分からない。こうやって違う自分を演じることや、それに対してナボコフが思い通りに動くのは面白いと思う。
「鎌足………」
 健気な恋人の姿に感動しているのか、道ならぬ恋をしている自分に酔っているのか、ナボコフはテーブルに置かれた鎌足の手に自分の手を重ねた。
「君には絶対に悲しい思いはさせないよ。妻とのことは、必ず何とかする。だからそれまで待っていてくれ」
「ナボコフさん、私………」
 感極まって、鎌足は涙まで溢し始めた。我ながら随分と役にのめりこんでいる者だと思う。
 泣き始めた鎌足にナボコフは一瞬驚いた顔をしたが、空いた手で鎌足の涙をやさしく拭う。暫く無言のままそうしていたが、鎌足がナボコフの顔を見たのを合図のように彼の顔が近付いてきた。
 鎌足も受け入れるようにナボコフの首筋に手を伸ばし、目を閉じる。二人の唇が触れ合うその時―――――
「……………っ」
 酔っていたとはいえ、それまでいつもと変わらなかったナボコフが、突然テーブルに倒れこんだのだ。
「ナボコフさん?」
 突っ伏したまま動かないナボコフを揺すってみるが、反応は無い。それを確認すると、さっきまでの涙は何処へやら、鎌足はくすりと笑った。
「これでよし、と」
 首筋に手を当てた時、指の間に薬を仕込んだ針を忍ばせていたのだ。これで朝まで目が醒めないはずである。
 鎌足は早速ナボコフの鞄を開けると、中の書類を慎重に漁り始める。鞄の中身から察するに、今の彼は軍事も関わる対極東政策を担当しているらしい。特に清国に対する干渉が主なものであるようだ。
 清国への進出は、日本も狙っていると宮崎から聞いている。ナボコフから情報を引っ張ってロシアを出し抜くことが出来れば、この仕事は大成功だ。
 書類を机の上に置くと、鎌足は大急ぎで中身を書き写し始めた。
<あとがき>
 やっとスパイらしくなってきました、鎌足。今風のスパイものなら書類をデジカメで撮影して終わり、とかできそうですけど、この時代だと書写が一般的なんだろうなあ。その辺りもスパイは大変です。
 それにしても、毎回思ってるんですが、一体どれだけ騙されやすいんでしょうね、この男は。不倫ものの定番台詞なんか口走ってますよ。どうすんのかなぁ、この人………。
 まあそんなことを言いながら、次回も更なる泥沼展開なんですけどね(笑)。
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