第一章  ヤマトナデシコ

 今日の講義を終えた鎌足が大学を出ると、門の所にナボコフが立っていた。若い学生たちの中で壮年の彼は明らかに場違いで、ひどく目立つ。
 あのパーティーの日から、まだ一週間も過ぎていない。ナボコフが思ったより早く動いたことに、鎌足は驚いた。役人としての体面が邪魔して時間がかかるかと思っていたが、意外と軽い男らしい。
 まあ、軽かろうと重かろうと、恋人にするわけではないのだから鎌足にはどうでも良い。それどころか早々に接触してきてくれたのは大歓迎だ。
「まあ、ナボコフさん!」
 いかにも嬉しそうな笑顔を作って、鎌足はナボコフの許へ駆け寄る。
「如何なさったんですか、こんな所にいらっしゃるなんて」
「一寸近くまで来たものですから。元気にしてらっしゃるかと思って」
 実に紳士らしい上品な微笑みを浮かべているが、ナボコフの目が自分の姿を上から下までさっと見たのを鎌足は見逃さなかった。
 今日の鎌足は洋装である。和装と違って上半身の誤魔化しが効きにくいが、大学に行く時は動きやすい洋装で通しているのだ。
 ナボコフが来るのであれば和装にしておけば良かったかと思ったが、洋装は洋装で気に入っているようではある。とはいえ、鎌足は用心のために、さり気なく胸元を隠すように手を遣っておく。
「この辺りに用事でも?」
「ええ。仕事の関係で一寸。もう終わりましたけどね」
 それは嘘だな、と鎌足はすぐに思った。この辺りは学生相手の店ばかりで、ナボコフが立ち寄りそうなところは無い。仮に彼の言うことが本当だったとしても、公用で出てきているのならば近くに公用車を待たせているはずだ。なのにそんな様子を感じさせないところを見ると、私用で出てきたということで間違い無いだろう。私用とは勿論、鎌足に会うことだ。
 どうせ嘘をつくなら、もう少し尤もらしいことを言えばいいのに。おまけに、それなりに社会的地位も分別もあるはずの男が、わざわざ女子留学生に会いに大学に来るとは、些か軽率である。
 しかし、そういう男がこんな行動を取るということは、それだけ鎌足を信用しているということだ。そして、彼女に惹かれているのだろう。
 第一段階は思ったよりあっけなく巧くいった。“ヤマトナデシコ”というものは、西洋人の心をいたく刺激するものらしい。
 内心ほくそ笑みながら、鎌足は西洋人が思い描く“ヤマトナデシコ”を忠実に再現するように、はにかむような笑みを浮かべる。
「もしお時間がおありのようでしたら、お茶をご一緒していただけませんか? 図々しいとは思うのですが、ご相談したいことがございますの」
 強引にならないよう、しかし断りにくい雰囲気を醸し出しながら、鎌足は誘いかける。
 日本に武士道があるように、西洋にも騎士道というものがある。騎士道の精神というのは、貴婦人崇拝なのだそうだ。随分とチャラチャラした精神であるが、鎌足がナボコフの崇拝する貴婦人になれば、これほど都合の良い精神はない。
 だから鎌足は本性を押し隠して、騎士が守りたくなるような可憐でか弱い、そして崇拝に値する気品を持った“貴婦人”を全力で演じる。これに西洋人のヤマトナデシコ幻想が加われば最強だ。
「私でよろしければ、喜んで」
 鎌足の演技が功を奏したのか、それとも最初からそのつもりだったのか。ナボコフは考える間も無く快諾した。





 
 “相談”というものは男の庇護欲をそそるものらしい。周りに日本人がいないから心細いだとか、友達が出来なくて淋しいとか、言ってる鎌足自身も鬱陶しいと思われる内容なのだが、ナボコフは嬉しそうに聞いている。娘のような年頃の女から頼られるのは嬉しいようだ。
 友達がまだ出来ないのなら、都合の良い時にオペラにでも連れて行ってあげましょう、とナボコフが申し出てきた。いかにも鎌足のことを思っての発言のようであるが、体の良い逢い引きの口実が見付かったと思っているに決まってる。その証拠に、その場で一緒に行く日を約束させられてしまった。予想外に行動力のある男である。
 日本陸軍諜報部の話ではナボコフは外務省の高官らしいのだが、本当なのだろうかと鎌足は疑問に思う。責任ある立場の人間が、こんなに簡単に異国の女と懇意になろうとするだろうか。それに、身寄りの無い留学生とはいえ、若い娘が不自然なほどに接近しようとしていることに疑問を感じないのだろうか。鎌足には不思議でならない。
 しかし、社会的地位があり、羽振りも良さそうな男である。見た目も同年代の男に較べれば良い方に属するだろうと鎌足も思うし、そうなれば若い女が近付こうとするのも不自然に思わないかもしれない。初めて会った時は堅物そうに見えたが、話してみるとそれなりに遊んでいるような雰囲気も感じられる。
「私、オペラには行ったことがありませんの。歌も英語だったり伊太利亜語だったりするんでしょう? きっとナボコフさんに質問したばかりで、かえってお邪魔になりそうですわ」
 オペラなんて面倒臭い、などとはおくびにも出さずに、鎌足は不安そうな表情を作る。ナボコフが近づいてくるのは大歓迎だが、オペラなんていかにも堅苦しそうだ。ヤマトナデシコ演技も息が詰まりそうなのに、オペラになんか連れて行かれたら窒息死してしまう。
 ところがナボコフは、そんな鎌足の反応に更に嬉しそうな顔をする。
「大丈夫ですよ。ああいうのは音楽を楽しむものですから。内容が解らないのであればパンフレットを見れば済むことですし、それでも解らなければいつでもお教えしますよ。そうだ、オペラ以外にも色々なところに連れて行ってさしあげましょう。留学生とはいえ、大学の勉強ばかりでは息が詰まるでしょう」
 どうやら鎌足の態度が、ナボコフの教えたい欲求を刺激してしまったらしい。光源氏と若紫よろしく、何も分からない若い女に教育を施して自分色に染めるつもりのようだ。
 俺色男なんて面倒臭いなあと思うが、上手くやればこれ以上手玉に取りやすい男はいない。情報を引っ張るには都合の良い男だ。問題は、この男が握っている情報がどれほどのものかなのだが。
 打算的なことばかり考えている鎌足に全く気付いていないナボコフは、実に楽しそうに一人で話を続けている。オペラが気に入らなかったらバレエにしようとか、サーカスだったら言葉が解らなくても楽しいだろうとか、分別盛りの男とは思えないほどの浮かれっぷりだ。微笑ましいといえば微笑ましい姿だが、任務のために近付いている鎌足の目には滑稽にしか映らない。
 笑い出したいのを我慢して、鎌足は控え目な微笑みを浮かべる。
「こんなに親切にしていただけるなんて、何と御礼を申し上げたら良いか。図々しいついでに、もしご迷惑でなければ私のお友達になっていただけませんか?」
「え?」
 鎌足の言葉に、ナボコフが目を丸くした。ヤマトナデシコがそんな積極的なことを言うとは思っていなかったのだろう。
 少し早まりすぎたかと鎌足は後悔したが、すぐにナボコフが望むヤマトナデシコに戻って頬を赤らめる。
「ご…ごめんなさい。私ったら………。今のは忘れてください。ああ、もう、どうしたら良いのかしら………」
 両手に頬を当てて恥らう鎌足の様子は少女らしい初々しさに溢れていて、ナボコフまでつられて顔を赤らめてしまう。まるで自分も青年に戻った気持ちになって、思わず鎌足の手を取った。
「忘れません。困った時は―――――いえ、困ってなくても、いつでも声を掛けてください」
「まあ………。うれしい! ロシアに来て、こんなに優しくしていただいたのは初めてですわ」
 ナボコフの情熱的な反応に、鎌足も手を握り返して感激したように目を潤ませる。
 感激してみせるのも目を潤ませるのも、勿論鎌足の演技だ。どんなに親切にされたとしても、情報のネタ元に情を絡めることをするなんて、そんなのは三流の諜報部員のやることだ。
 どんなに優しくされても、鎌足には心を動かさない自信がある。鎌足が愛したのは今は亡き志々雄真実ただ一人で、ナボコフは彼の足許にも及ばない男なのだ。志々雄以下の男を相手に、どうして情に流されることがあるだろう。
 芝居がかった情熱的な様子を見せながらも、鎌足は冷ややかにナボコフを観察している。彼の望むヤマトナデシコを探り出し、それを忠実に演じきるために。鎌足は諜報部員だけではなく、男を誑し込む女優の役目も要求されているのだ。
 退屈なオペラやバレエに付き合いながら、どうしたら友達以上の深い関係になることが出来るだろう。ある程度身体を張ることも要求されるだろうが、それには鎌足には限界がある。
 先のことを考えると問題が山積だが、今はとにかく普通の逢い引きで二人の関係を引っ張ることを考えなくては。鎌足の出来る範囲でナボコフを引っ張り続けることが出来れば、あとは陸軍諜報部からの補助が期待できるはずだ。確約は無いが、諜報部の大尉の鎌足に対する動きがここ最近活発だから、日本陸軍も何か考えていると思われる。
 騎士道精神に燃えるナボコフに、鎌足は情熱的に返しながらも、身体と頭が乖離しているかのように冷静に考えを巡らすのだった。





 ナボコフに自宅の玄関まで送ってもらうと、鎌足は優雅に微笑んで礼を言って別れた。若い日の情熱を取り戻しつつあるとはいえ、若い女の家に上がりこむには、流石に壮年の男の常識が邪魔したらしい。若い男と違って肝心なところは節制してくれるのは、鎌足にもありがたい。
 寝室のドアを閉めると、鎌足はさっさと背中のホックを外してギリギリまで締め上げていたコルセットを緩める。それから絹の靴下も脱ぎ捨て、ぐったりとベッドに横になった。
 コルセットと絹の靴下を脱ぎ去るだけで、信じられないほどの開放感を味わえる。これが無いだけで、“ヤマトナデシコ鎌足”から、ただの“本条鎌足”に戻ることが出来るような気がするのだ。
 一息ついたところで、今度はコルセットも絹の靴下も必要としない、木綿のゆったりとした服に着替える。色気も何も無いけれど、これほど楽な服は無い。
 尊敬し、自分の命よりも愛していた志々雄が死んで、鎌足の心も死んだも同然だった。結局彼には部下として利用される以上に愛されることは無かったけれど、それでも鎌足にとっては生きる支えだった。ありのままの鎌足を受け入れてくれた初めての人が、志々雄だったから。
 だから、志々雄が死んだと知った時、鎌足も後を追おうと思っていた。それを止めたのは、同じ十本刀だった張だ。志々雄がやってきたことの語り部として新しい時代を生きろと遺言があったと言っていたけれど、あの男の言葉が何処まで本当だったのか、今となっては判らない。ただ、このまま死んでは犬死になるのではないかと思えるようになったから、生きることが出来るようになったのだ。
 生きていたところで、鎌足がどれだけのことを残せるかは解らない。仮想敵国の高官を誑かし、外交や軍事に関する情報を引き出す。それがあの世の志々雄に対して胸を張っていえる仕事かどうかは判らないけれど、今の鎌足に出来ることはそれしかない。
 ナボコフと二人でいると何も感じないが、こうやって一人でいると感傷的になってしまう。国のためだの何だの言っても、鎌足のやっていることは国家間の壮大な騙しなのだ。志々雄が見たら、何と言うだろう。
 そんなことを考えていると、玄関からノックの音がした。
 さっき別れたばかりだから、ナボコフはありえない。ドアの覗き窓を見ると、地味なスーツを着た、厳つい身体の日本人が立っていた。陸軍諜報部の人間だ。
 こんな日没前から何だろうと思いながらドアを開けると、諜報部員はいきなり上機嫌で話しかけてきた。
「いやあ、大したものだな、本条君。こちらの方での彼について調べさせてもらったが、なかなかの上玉だぞ」
 上機嫌に笑いながら、諜報部員は我が物顔で家の中にずけずけと入っていく。
 男は鎌足を担当している宮崎という陸軍大尉である。背が低く、ずんぐりむっくりとした、典型的な日本人体型の男で、ついでに押しが強いものだから、鎌足はどうも苦手だ。
 まだ30歳そこそこで陸軍長諜報部の大尉というのだから仕事はできるのだろうが、どうも鎌足は距離を置いてしまう。人間的にも悪い人物ではないとは思うのだが、そこは相性というものなのだろう。
 だから鎌足は、茶も出さずに話を促す。
「外務省の高官であるということは掴んでいます。まだ付き合い始めなのでわかりませんが、ある程度は引っ張れると思いますよ」
「ミハイル・ナボコフだが………奴は極東問題を担当しているようだ。対清、対日についても重要な情報を握ってるらしいぞ。奴は外務だが、話の持って行きようによっては、軍事に関しても糸口が掴めるかもしれん」
「それを全部引き出すのが、私の任務なんですね」
 最初から解っているはずなのに、鎌足の身体から血の気が引いていくのが感じられた。
 多分、鎌足が抜いた情報を基にして、近いうちに大きな戦争が始まるだろう。日本は未だ不安定要素を抱えているにも拘らず、欧米列強に負けじと外国にも手を伸ばしている。その目下の相手が、清国とロシアだ。
 清国を攻めようとすれば、ロシアも黙ってはいない。だからロシアを黙らせるために、鎌足が引っ張ってくるであろう情報が大きな力になるのだ。
「君の活躍には、私だけじゃなく、陸軍全てが期待している。期待を裏切るようなことはするなよ」
 念を押すように、宮崎は鎌足の肩を軽く叩いた。
「そうですね。なるべく早く、ご期待に添えるようにしたいと思ってますよ」
 味方であるはずなのに、宮崎に肩を叩かれた瞬間に反吐が出そうになった。同じ日本人なのに、この男と話していると不愉快でたまらない。同じ空気を吸っていることさえ苦痛だ。
 この男は、鎌足が志々雄一派の人間であったことを知っている。犯罪者のくせに、生きるために寝返った人間のくせに、という見下した視線をいつも感じている。だから好きになれないのだろう。
 ふと、何故か鎌足はナボコフのことを思い出した。
 ナボコフは鎌足の過去を知らない。だから一人の女のとして見てくれている。敵である人間なのに、宮崎と一緒にいる時よりも心が安らぐことが出来る。勿論、完全に安らいでいるというわけではなく、宮崎と一緒にいるよりマシといった程度のことであるが。
 そのことに気付いて、鎌足は軽く頭を振った。
 ナボコフはどんなに親切にしてくれても、情報を引き出す標的以上の存在ではない。彼が鎌足に優しくしてくれるのも、彼が思い描くヤマトナデシコを体現する女だからだ。ありのままの鎌足に親切にしてくれるわけではない。
 標的には情を掛けないこと。いつだって切り捨てられる、ただの道具だ。いざとなれば、全ての罪を彼に被せて逃げなくてはいけない相手なのだ。
 あの男はただのオヤジ。持っている情報以外には何一つ役に立たない、ただの肉の塊―――――深呼吸をして、鎌足は改めて自分に言い聞かせる。
「近いうちにカタに嵌めるわ。まあ、見てて頂戴」
 半ば自分に言い聞かせるように、鎌足は宮崎に向かって不敵に微笑んだ。
<あとがき>
 二人の本格的な接触です。
 それにしてもナボコフ、いくら若い女とデートとはいえ、浮かれすぎ。鎌足の三文芝居にも引っかかってるし。大丈夫か、このオッサン?
 楚々としたヤマトナデシコを演じながら、裏ではとんでもない悪女(?)な鎌足もアレですが………。味方であるはずの陸軍大尉に対する目も冷たいですもんねぇ。結局鎌足は、志々雄しか信じてなかったのかもしれません。
 さてさて、この鎌足がナボコフをどう滅茶苦茶にしてくれるのか、書いてる私も楽しみでなりません。こういう泥沼ストーリー、大好きなんです(笑)
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