写真
自分の写真を初めて見た。日本にも写真館があって、見合い写真や記念写真など、庶民にも身近なものになりつつあったが、鎌足は一度も撮ったことが無かった。鏡で見る顔とは少し違うように写るとは聞いていたけれど、本当に自分ではないようだ。
写真の中の鎌足はナボコフと寄り添って歩いている。腕を組んでいるもの、親しげに顔を寄せて話しているものもあり、二人の仲がただならぬものであることを示している。
「よく撮れているだろう。米国からわざわざ写真機を取り寄せた甲斐があった」
自分が撮ったわけでもないのに、宮崎は得意げだ。
確かに宮崎の言う通り、この写真はよく撮れている。撮影者と鎌足たちの間には距離があったはずだが、顔もはっきりと写っているのだ。きっと最新の写真機を使ったのだろう。
自分はこんな顔をしていたのかと、鎌足は写真の中の自分を見つめる。嘘で固めた不自然な顔をしているに違いないと思っていたのに、写真の中の鎌足はとても穏やかな顔をしていた。事情を知らぬものが見れば、歳の差はあっても幸せな夫婦に見えるだろう。
写真は真実を写すというけれど、これには真実何か一つもない。けれどこれが“真実”として、ナボコフを追い詰めることになるのだ。
「お前も大した奴だよ。どの写真も演技には見えない。記念に焼き増ししてやろうか?」
この男が親切心で言っているわけではないことは、その表情を見れば判る。この写真を受け取るにしろ拒絶するにしろ、宮崎は鎌足を嘲笑う気でいるのだ。
だから鎌足は、眉一つ動かすことなく沈黙する。どっちを選んでも駄目たら、沈黙するしかない
。 大体、こんな写真を持っていて何になると言うのか。これが真実を写しているのであれば“記念”にもなるだろうが、嘘で塗り固められた写真など持っていても虚しいだけだ。
せめて自分に向けられたナボコフの表情が真実のものであったなら―――――考えても仕方が無いことだが、鎌足は想像してみる。
自分の腹の中にナボコフの子がいたなら、この写真も“記念”になったかもしれない。始まりは嘘であったとしても、生まれてくる“我が子”に、これがあなたの父親だと伝えるものになる。あなたが生まれてくるのを楽しみにしていたのだと。
けれど、それを伝える相手も存在しない。写真に写るナボコフの優しい表情も、真実を知れば全く違うものに変わるだろう。鎌足のような存在は、多くの男たちにとって不気味なものだ。
それならば、こんなものは手元に残さない方がいい。持っていたところで辛くなるだけだ。
期待したような反応が得られずに面白くなかったらしく、宮崎は鼻白んだ顔をした。
「つまらん奴だな。まあ、写真はいくらでもある。それはくれてやるよ」
「………どうも」
恩着せがましく言われても、鎌足にはどうでもいい。そんなことよりもナボコフが気がかりだ。
この写真の原板は宮崎が持っている。ここに持ってきた写真はごく一部なのだろう。本当に強請れる写真は、多分他にあるはずだ。
この男から原板を奪えば―――――そう考えている自分に気付いて、鎌足は驚いた。
原板を奪って露西亜に亡命すれば、ナボコフを守ることができる。陸軍の情報と引き換えに保護を求めれば、露西亜政府も受け入れてくれるだろう。
祖国を裏切ることに、鎌足は一片の罪悪感も覚えない。元々、志々雄のいない日本になど未練は無いのだ。
けれど冷静に考えれば、それは不可能だということは判る。原板はもう宮崎の手を離れて、もっと上の管理下に置かれているはずだ。どうやっても鎌足に取り戻すことなどできない。
と、宮崎が思い出したように言った。
「ああ、そうだ。来週の便で帰国するぞ。混血の子供が手に入ったそうだ」
「えっ?!」
来週とはいきなりである。此処から港までの移動を考えると、明日にでも発たなければ間に合わない。
日本に戻るのは、もう少し先だと思っていた。これではナボコフに別れを告げることもできないではないか。
宮崎の口元が皮肉っぽく歪んだ。
「奴には電話でお別れすればいいだろう。なぁに、すぐに会えるさ」
次にナボコフに会う時は、情報を引き出す道具としてだ。この写真のような優しい目は、もう二度と向けられることは無いだろう。
「別に………」
これからナボコフの身に降りかかることを思えば、何も言わずに消えてしまいたい。電話だって、どうせ宮崎たちに盗聴されているのだ。“お別れ”なんて言えるはずがない。
無関心を装っているつもりだったが、表情に出ていたらしい。鎌足を見て、宮崎は可笑しそうな顔をした。
「あいつが優しくしてくれるのは、今日で最後だぞ? いいのか?」
「………………」
それは宮崎の言う通りだと、鎌足も思う。次に会う時はきっと、彼にとって疎ましい存在になっている。
その時のナボコフの顔を想像するだけで、鉛の塊を呑み込んだように鎌足の体の中は重くなった。
明日には此処を発たなければならないのに、鎌足の身体はひどく重い。準備をしなければとは思うのだが、ベッドに横たわったまま身体を動かすことができない。
できることなら暗闇に紛れて此処から逃げ出したいところだが、それは不可能だ。この別荘は宮崎の部下たちに監視されている。
隠密出身の部下たちだと、宮崎が自慢げに話していたのを思い出す。本当に隠密出身なのかはともかく、それなりに訓練をされた者であることは間違いない。この暗闇で、武器を持たぬ鎌足が監視を振り切って逃げるのは不可能だ。
仮に逃げきれたとして、鎌足には行くところが無い。ナボコフのところなんて、一番に先回りをされるだろう。手土産を持たぬ諜報員が亡命するのも不可能だ。
結局、鎌足にはどこにも行くところが無いのだ。宮崎に従うしか生きる道は無いのだと思うと、絶望感で目の前が真っ暗になる。
―――――あいつが優しくしてくれるのは、今日で最後だぞ
不意に、宮崎の言葉を思い出した。
あんなに優しい声も、もう二度と聞くことは無いのだろう。そう思うと、今すぐ電話をしなければ一生後悔するような気がした。
この電話が二十四時間盗聴されていることは分っている。あの声を聞いたら、ますます辛くなるだろうことも。それでも―――――
全身の力を振り絞ってベッドから起き上がると、受話器を取った。この時間なら、多分まだナボコフは職場にいるはずだ。
長い呼び出し音の後、受話器が上がった。
「………もしもし?」
不審げな男の声―――――その声を聞いた途端、鎌足は叫びそうになった。
電話の向こうの男に洗いざらい告白し、助けを求めたい。もう手遅れだろうが、跪いて許しを乞いたい。
けれど鎌足の喉は大きな塊が詰まったように塞がり、声が出ない。叫ぶどころか、苦しげな荒い呼吸音が漏れるだけだ。
「誰だ?」
不審な声が警戒に変わった。
喉を塞ぐ塊を力を込めて飲み下し、鎌足は漸く声を出した。
「私です」
自分でも驚くほど、声はか細く震えている。
「………鎌足なのか?」
受話器の向こうからナボコフの緊張が伝わった。いつもの優しい声ではなく、警戒するような硬さを感じる。
この声でナボコフも気付いたのだろうか。気付いたのなら、それが一番いい。もう何もかも手遅れだが、ひょっとしたら何か手が打てるかもしれない。
「あのね、私―――――」
ナボコフが何か言いだすのを遮って、鎌足は上ずった声を出した。
「私、日本に戻ることにしたの。明日、此処を発つわ」
この電話は陸軍に盗聴されているのだ。ナボコフが何かに気付いていたとしても、それを彼の口から言わせるわけにはいかない。
「そ……そうか………」
少々面食らったようだが、ナボコフの声がほっとしたように和らぐ。気付いたのかと思ったが、どうやら鎌足の勘違いだったようだ。
では何を警戒したのだろう。鎌足が黙って考えていると、ナボコフが言葉を続けた。
「深刻そうな声だったから、君に何かあったのかと思った。明日とは急だが、身体は大丈夫なのか?」
「ええ………」
こんな時にこの人は何を言っているのだろう、と鎌足は全身の力が抜けた。鎌足のことなんかより、心配しなければならないことがあるというのに。
この男は本当に、鎌足の言うことを信じ切っているのだ。あんなことを本気で信じるなんてどこまでお人好しなのだろうと思うが、それだけ鎌足に対して盲目的になっているのだろう。まるで昔の鎌足のようだ。
否、鎌足ですら、志々雄が自分を利用していることには気づいていた。自分の志々雄に対する気持ちは誰にも負けないと思っていたけれど、ナボコフの鎌足に対する気持ちはそれ以上のものなのかもしれない。
そこまで自分のことを愛してくれている人を陥れるのかと思うと、鎌足はまた言葉が出なくなってしまう。
「どうしたんだ? やはり何処か悪いのか?」
再び黙りこくる鎌足に、ナボコフが心配そうに尋ねた。
こういう風にやさしく話しかけられるのも、きっとこれが最後なのだろう。始めから解りきっていたことなのに、こんなに辛くなるものだとは思わなかった。
「大丈夫。準備で少し疲れたのかも。こっちに帰ってきたら、また連絡します」
これ以上話し続けたら泣いてしまいそうで、鎌足はナボコフの言葉を待たずに受話器を置いた。
久々の更新ですが、書き方を忘れた(笑)。定期的に書かないと駄目ですね。
これを書き始めた頃はナボコフがウザキャラだったのですが、いつの間にか鎌足があり得ないくらいウザくなってきた……。このまま二人ともウザ街道まっしぐらです。