第九章  罠

 ナボコフが別荘にやって来たのは、翌月の半ばを過ぎた頃だった。家には出張、職場には静養と、それぞれに嘘をついてきたため、あまり長くはいられないという。
 短い滞在とはいえ、此処に来させた時点で、鎌足たちには成功だ。これで不倫の現場を押さえることができれば、文句無しである。
 この日のために、鎌足の腹の詰め物も、遠目でも妊婦と判るものを用意した。いかにも妊婦という服も用意し、何処から撮影しても、“政府高官と、妻ではない妊婦”という写真が撮れる。
 この写真を日本陸軍が握ったら、ナボコフはもう逃げられない。数ヶ月後に届けられる混血の赤ん坊を突きつけたら、陸軍に言われるままに情報を流し続けることになるだろう。
 ありもしない“たった一度の過ち”のために、ナボコフは祖国を売ることになる。信じられないほど馬鹿馬鹿しい話であるが、驚くべきことに、こんなことが順調に進んでいるのだ。
 ナボコフの姿を見るまで、鎌足は気が気でなかった。そして目の前にいる今は、本当にこれで良かったのかと自問している。
 やって来たナボコフは、これまでの不在の埋め合わせをするように、鎌足に優しくしてくれている。妊婦に良いといわれる食料を持ってきて、詰め物の腹を気遣い、生まれてくる赤ん坊について夢を語る。男であれ女であれ、望む限り最高の教育を与えたいとも言っている。
 私生児として生まれても、嫡出子と変わらぬ扱いをしたいと言っているのも、“今は”本気なのだろう。今この瞬間だけの言葉だとしても、本当に赤ん坊がいたら、どんなに嬉しかっただろう。けれど鎌足の腹には、何も無いのだ。
 こうやって騙し続けていることに、鎌足は言いようのない罪悪感を覚える。最初の頃、保身に走っていた時は、いい気味だと思っていたのに。
 一寸優しくされただけで気持ちが揺らぐなんて、工作員失格だと思う。けれど、鎌足は生身の人間であり、ナボコフもまたそうなのだ。生身の人間同士が触れ合えば、情が生まれても仕方が無い。それを鉄の石で押し止めるのが、工作員なのだが。
 このまま、ナボコフの優しさというぬるま湯の中にいられたら、どんなに楽だろう。けれどそれでは駄目なのだ。
 自分を奮い立たせ、鎌足はナボコフに言った。
「近くにね、湖があるの。一寸行ってみない?」
 湖には、宮崎の部下が二人を待ちかまえている。二人の写真を撮って、それをネタに強請ろうというわけだ。
 モスクワでは人目を気にして一緒に歩きたがらないナボコフだが、旅先での開放感が気安くさせたのだろう。快く承諾した。





 別荘から少し離れたところに、湖はある。今は人気が無いが、社交界シーズンには賑わう場所らしい。
 丁度良い具合に雑木林もあり、盗撮にうってつけの場所でもある。この何処かに、陸軍の人間が潜んでいるのだろう。気配は感じないが、必ず何処かにいる。
「シーズンに来たことがあるが………時季を外しても静かで良いものだな」
 鎌足たちの企みを知らないナボコフは上機嫌だ。人目を気にしなくても良いと思うと、のびのびできるのだろう。鎌足との距離も近い。
「時々、散歩に来るの。お医者様も、軽い運動はした方が良いって仰るから」
 医者に診せているのは嘘だが、散歩に来ているのは本当だ。別荘にいると宮崎がやって来て、息が詰まる。
 一人で来ている時は水鳥にパンをやったり、昔のことを思い出したり、ぼんやりしている。上流階級の憩いの場だが、鎌足にとっても憩いの場だ。勿論、今日と同じように監視は付いているのだが。
 宮崎の計画に沿って、鎌足は盗撮者の近くに誘導する。
何も知らないナボコフは、不自然に思っていないようだ。
「私ね、こうやって歩くのが夢だったの」
 そう言って、鎌足はナボコフと腕を組む。この写真を撮らせれば、確実に彼を追い込める。
 ぴったりと身体を寄せつつも、腹が触れないように気を付ける。妊娠した腹を知っているナボコフは、偽物の腹をすぐに見破るだろう。この腹が偽物だと気付かれたら、何もかもおしまいだ。
「身体、辛くないか?」
 いつもよりゆっくりと歩いて、ナボコフは鎌足の身体を気遣う。
「大丈夫。このお腹にも慣れたから」
 妊婦らしい歩き方も板に付いてきた。腹に触れられなければ、何処から見ても立派な妊婦だ。
「私ね、日本に戻って生もうと思うの。こっちのお医者様より、日本の方が細かいことも伝えられるし」
 赤ん坊は、日本で受け取る手筈になっている。宮崎の話では、日ロ混血の赤ん坊は確保できたらしい。
「………日本で生むつもりか?」
 ナボコフは不安げな顔をした。鎌足が日本に帰ったら最後、露西亜に戻らないのではないかと心配しているのか。
 鎌足は微笑んで、
「産んで落ち着いたら、こっちに帰るわ。大学は休校扱いになってるし、混血の子供場日本で生活するのは難しいと思うし」
「“帰る”か………」
 ナボコフが感慨深げに呟く。
 鎌足には何気ない言葉だったが、ナボコフには重い一言だったらしい。
「どうしたの?」
「日本には“戻る”で、こっちには“帰る”なんだな」
「………あ」
 指摘されて、鎌足は初めて気付いた。日本人の鎌足が帰る国は日本しかないはずなのに、何故露西亜に“帰る”なんて言葉を使ったのだろう。
「おかしいわね。私、日本人なのに」
 鎌足は苦笑した。
 考えてみれば、鎌足にとって、日本は居心地の良い国ではなかった。自分を偽らずに生きられたのは、志々雄のところにいた僅かな間だけだ。あのころ一緒にいた者は、恋敵の由美でさえ、ありのままの鎌足を受け入れてくれた。そんな仲間たちも、今はもういない。
 露西亜に来てナボコフに出会い、彼に女として愛されて、やっと自分が求めていたものを得られたような気がした。嘘で固められたものであっても、女として扱ってくれるナボコフの気持ちは本物だ。それが、“露西亜に帰る”という発言に繋がったのだろう。
 そんな人を、鎌足は陸軍に売ろうとしている。この後に待っているのは地獄だ。それでもナボコフと一緒なら―――――いや、それはないな、と冷静に思い直す。彼は鎌足の本当の姿を知らないのだ。知ったら、きっと掌を返すだろう。
「でも日本にはあまり良い思い出がないから、ずっと露西亜にいても良いかな………」
 自分の育ちのこと、志々雄のこと―――――日本での生活は、悲しいことの連続だった。今だって、陸軍に籍を置いてはいるが、所詮は他所者。この件で手柄を立てたとしても、何処まで報われるか分かったものではない。それならばいっそ、ナボコフを死ぬまで騙し続けて、露西亜で暮らすという手もある。
 鎌足の人生で、こんなに優しくされたのは初めてのことだ。“女の幸せ”というのは、こういうものなのかもしれない。由美も、志々雄相手にこんな気持ちを感じていたのだろうか。
「君が望むなら、歓迎するよ」
 ナボコフの言葉は、今だけのものかもしれない。帰りの汽車の中で現実に立ち戻って後悔するような戯れ言だろう。そんな軽薄な優しさだったとしても、今の鎌足には縋りたくなる言葉だった。
 もうこんな生活は嫌だ。最初から騙すつもりで近付いたはずなのに、今は後悔しかない。こんな出会いではなく、ただの男と女として出会えていたら、本当に幸せな未来が拓けていただろうに。
「私、本当は―――――」
 この人を守りたい。この人を売国奴になんかしたくない。
 発作的にすべてを告白してしまいそうになって、鎌足は慌てて口を噤んだ。ここで全てを話してしまったら、二人ともこの場で始末される。
「どうした?」
 ナボコフは怪訝な顔をした。
「………何でもない」
 ここまできたら、騙せるところまで騙すし続けるしかないのだ。今更引き返すことはできない。
 何も知らないナボコフは、自分の中で勝手な解釈をしたのだろう。少し辛そうな、暗い顔をした。





 ナボコフの滞在は本当にあっという間で、鎌足の様子を見に来ただけで終わったようなものだった。別荘には一晩泊まっただけで、早朝の列車で慌ただしく帰っていった。
 それでも行きと帰りは車内泊なのだから、職場や家庭を騙すにはぎりぎりの時間だ。鎌足の顔を見るためだけに、危険を冒して時間を割いてくれたことに、感謝している。その優しさが、ナボコフを更なる窮地に追い込むことになるのだが。
「いい写真が撮れたみたいだな。出来上がりが楽しみだ」
 部下からの報告を聞いてやって来た宮崎は、見たこともないくらいに上機嫌だ。これで自分の出世は約束されたと思っているのだろう。
 他人を陥れることを喜ぶなんて、最低な男だ。何より最低なのは、直接手を下した鎌足自身なのだが。
「あの男、腕なんか組んで、鼻の下を伸ばしてたみたいだな。いい歳して、阿呆な奴だ」
「………やめてよ」
 浮かれて饒舌になるのは分からないでもないが、言って良いことと悪いことがある。鎌足は感情を押し殺した声で制した。
 あのナボコフの姿が、宮崎の部下たちには鼻の下を伸ばしているように見えたのか。何という下司な輩なのだろう。そういう人間だから、平気で盗撮もできるのか。
「何だ? あの露助を庇うのか? お前も共犯のくせに。いや、あいつから見たら、主犯かな?」
 鎌足の反応が面白かったのか、宮崎はからかうようににやにや笑う。その顔に、鎌足は吐き気さえ覚えた。
「やめてよ!」
 こんな男の声は聞きたくもない。鎌足は思わず金切り声を上げた。
 あの優しい人を“露助”だなんて、この男はどんな感性をしているのか。宮崎と同じ空気を吸っていると思うだけで、体の中が汚染されそうだ。
 宮崎が険しい顔で、鎌足に一歩踏み込んだ。鎌足が身を引く前に強引に顔を掴み、脅しをかける。
「いいか、任務を忘れるなよ? もし裏切ったら、陸軍諜報部の総力を挙げてお前を潰してやる」
「………………」
 宮崎なんか怖くはないが、陸軍諜報部は恐ろしい。裏切った諜報員は、それこそ地の果てまで追いかけるだろう。どうやっても鎌足は逃げられない。
 そう、どうやっても逃げられないのだ。ナボコフとの幸せな未来も、どう足掻いても手に入らない。
 今更ながら、鎌足は絶望した。
<あとがき>
 ロシアは広いから、鎌足の保養地に行くまでに何泊車内泊するのかな………。ちなみに明治時代の東京―青森間は26時間かかったそうです(みのもんたが朝の番組で言っていたのをうろ覚え)。
 しかしナボコフ、そろそろ気付けよ(笑)。どう考えてもおかしいだろ、これ。
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