序章  美しい人

 役人の仕事というのは思いの外煩わしいと、ナボコフは思う。
 若い頃は書類を相手にするだけで良かった。しかしこの歳になってそれなりの立場になると、接待だのパーティーだのに駆り出されることばかりだ。週の殆どが社交に費やされる日々に、正直うんざりしている。
 しかしこんな毎日でも、若い頃は羨ましいと思っていたのも事実。華やかな社交界に出かけ上司を横目で見つつ、遊んでばかりで気楽なものだと心の中で毒づいていたものだ。実際あの上司の立場になってみて、そう楽しいものでもない、それどころか気苦労の連続だと思い知らされたわけだが。
 こうやって毎日のように社交界に出て行く自分を、若い部下たちはかつての自分のように気楽なものだと思っていることだろう。それについてどうこう言う気は無い。かつての彼も、同じように思っていたのだ。こういうことは、同じ立場になってみなければ永遠に解らない。
 そして今日も、昼からパーティーである。今回は各国の国費留学生を招待しての気楽な席ではあるが、自分の子供と言っても良いような若者たちと話さなければならないのは、国賓を相手にするのとはまた違った疲れを感じる。
 今日はさっさと退散しようと思いつつ、ナボコフは馬車に乗った。





 簡単な歓迎の挨拶が終わり、パーティーが始まった。今回は立食パーティーであるから、いくらでも逃げ場はあるから楽なものだ。
 周りは当然のことながら、若者ばかりである。彼らは彼ら同士で勝手に交流を深めてくれるから他のパーティーに比べれば遥かに楽なものだが、自分の子供といっても良いような年代の若者に囲まれているというのは、居心地が悪い。
 主催者として留学生たちに適当に声を掛けながら会場を歩いていたナボコフだったが、変わった服を着た女子留学生を見つけて足を止めた。
 桜の柄をあしらった美しい布を使った服である。が、袖がだらりと垂れ、胴も太い帯で縛り上げられていて、ひどく動きづらそうな形をしている。日本の未婚女性が着るという、“振袖”というやつだ。話には聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。
 着ているものは拘束服のように動きづらそうだが、その代わりか髪は活動的に断髪している。最近は欧米でも断髪する女は増えているが、主流は長髪だ。留学をするくらいだから進歩的な女なのだろうが、後進国の女が断髪しているというのは驚きだった。
 物珍しさで凝視していると、娘も視線に気付いたらしい。ナボコフの方を見てにっこり微笑むと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「初めまして。日本から来ました、本条鎌足と申します」
 流暢なロシア語でそう言うと、鎌足と名乗る日本娘は深々と頭を下げた。
「あ………」
 娘の流暢なロシア語には驚いたが、それ以上に彼女の美しさにナボコフは目を瞠った。
 否、美しいだけの女なら、目を瞠るほどではなかっただろう。人形のような可憐な顔をした令嬢や芸術品のように美しい婦人は、職業柄よく見ることができる。しかし目の前の女子留学生は、人形のような可憐さと少年のような快活さを同時に持ち合わせた、今まで彼が会ったことの無い種類の娘だった。
 日本娘というのは大人しくて従順で、男の陰にひっそりと隠れていると、日本に行ったことのある同僚が評していたが、鎌足は一瞬にしてその言葉を覆した。自分からロシア語で話しかけたり、好奇心に輝く目でナボコフをじっと見上げる姿には、同僚が言うような消極的な様子は一切見られない。かといって先進的な女たちのような押しの強さを感じさせるわけでもなく、ほどほどの距離感というものを心得ているようだ。
「いかがなさいました?」
 何も応えずにじっと見詰めているナボコフを不審に思ったのか、鎌足は不思議そうな顔をして首を傾げた。その表情が子供のようにあどけなくて、ナボコフはまた驚かされる。
 が、そんな内心の動揺を悟られないように一旦表情を引き締めると、ナボコフは上級役人らしい品のある微笑を作って握手を求めながら言う。
「いえ、あまりにもロシア語がお上手なので驚きました。私はナボコフといいます。よろしく」
「まあ。てっきり私のロシア語が通じなかったのかと思いましたわ」
 ころころと笑って、鎌足も握手に応えた。そして手を離すと、
「他の留学生の方々とお話をしたくてロシア語を必死に覚えたんですけど、皆さん英語やフランス語ばかりで………。お話できる方もいらっしゃらなくて、どうしようかと思ってましたの」
「留学生はどうしても同じ国の者同士で固まってしまうものですからね。留学先の言葉を覚えないまま帰る者も多い。あなたのような熱心な方は珍しいですよ」
「そんな………同じ日本人が周りにいなかっただけで、私が特別熱心というわけではありませんわ」
 恥ずかしそうに頬を染めてはにかむ鎌足の姿がいじらしくて、ナボコフはまたどきりとする。
 鎌足の言う通り、日本人の留学生というのはモスクワにも殆どいない。女の身で、たった一人で留学するなど、並大抵の覚悟ではなかっただろう。こちらに渡ってからも頼れる知り合いがいるわけでもなく、心細い思いをしているに違いない。
 こんな可憐な少女がたった一人で異国で勉学に励んでいる姿を想像すると、ナボコフは何とか彼女の力になりたいと思ってきた。物質的な援助はできないだろうが、普段の話し相手や、困った時の相談相手くらいにはなれるだろう。領事館さえ無い国の留学生を保護するのも、彼の仕事の一つである。
「困ったことがあったら、いつでも此処に連絡してください。お力になれることがあれば協力します」
 名刺の裏に自分の連絡先を走り書きすると、ナボコフは鎌足に渡す。
「まあ、ありがとうございます。何だか申し訳ないですわ」
「いえいえ。あなたのように勉学に励む学生の援助も、私たちの大事な仕事ですから。どうぞお気になさらずに」
 嬉しそうに微笑む鎌足に、ナボコフも紳士的に微笑んだ。





 自宅に戻ると、それまでの緊張が一気に解けたように、鎌足はベッドに身を投げた。
「はー、疲れた」
 外国人が好む可憐な日本娘を演じるのは疲れる。ああいう何処ぞのご令嬢のような真似事は柄ではないのだ。
 しかし努力の甲斐あって、上手い具合にロシアの役人が引っかかってくれた。いかにも善人ぶって「いつでも力になる」などと言っていたが、鎌足を見詰めるあの目には下心が見て取れた。こちらから連絡を取るまでもなく、あちらから動いてくるだろう。そのために、鎌足が通う大学とこの家を教えたのだ。
 紳士ぶっているからすぐには動かないかもしれないが、気長に待てば良い。慌てて動けばボロが出るというものだ。時間ならまだたっぷりある。
「ミハイル・ナボコフか………」
 渡された名刺をじっと見詰める。下心を上手に隠せるくらい紳士的な男であったし、歳の割には見栄えの良い男だった。鎌足にとっても悪いようにはならないだろう。
 紳士的な男ほど落とし甲斐がある。さて、どう料理してやろうかと、鎌足はにやりと口の端を吊り上げた。
<あとがき>
 とあるチャットで話しているうちに思いついた二次創作です。“女スパイ(?)鎌足”の活躍を見てみたいというところから始まったのですが、さて、どれだけ活躍させることができるか問題です。私、スパイものって読んだこと無いんですよねぇ。
 とりあえず鎌足は女スパイなんで(女スパイなんですよ!)、上手にナボコフ氏をたらし込んでいただきたいものです。ちなみに私の中でのナボコフ氏のイメージは、ジェレミー・アイアンズ。女で転落するのがよく似合う素敵なおじさまです。
 どれだけ長くなるのか全く予想が立ちませんが、気長にお付き合いいただければ幸いです。
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