君が言う「告白すれば?」そんなことムリだよ相手は君なんだから
先日の一件以来、あの立ち食い蕎麦屋には行けなくなってしまった。困ったことに、給料日は来週。それまでどうやってやり繰りするか、切実な問題だ。毎日自炊ができれば一番いいのだが、それができれば苦労は無い。自炊できない日は外食となり、自炊より高い定食屋になってしまう。これも一回一回は安いものだが、回を重ねれば負担になってくるものだ。
今日の夕食はどうしよう、とは悩む。今から帰って夕飯を作るとなると時間も遅くなるし、何より身体が辛い。しかし定食屋となると懐が寂しいし、いっそのこと夕飯は抜きにしようかと考えていると、珍しく斎藤の方から声をかけてきた。
「最近、あの店には行ってないのか?」
あの店に行けなくなったのは斎藤にも責任があるというのに、本人は全く気付いていないようだ。自分のやったことをすっかり忘れているのかと呆れるが、行っていないことに気付いているということは一応のことを気にかけているのだと思うと一寸嬉しくて、気分は複雑だ。
「あんなことがあったら、恥ずかしくて行けません」
「あんなこと?」
記憶を手繰るように少し考えた後、漸く思い出したのか斎藤は意地悪くにやりと笑った。
「ああ、アレか。誰もそんなことは気にしないぞ」
「私が気にするんです!」
斎藤の言うとおり、誰ものことなんか覚えていないだろうし、気にしてもいないことは解っている。けれど自分が気になるのだ。本当に女心というのを解っていない。
何より、斎藤があのことを覚えているというのがいたたまれない。斎藤にこそ一番に忘れてほしいのに。
一応、斎藤はが痔ではないことは理解しているようだが、あんな会話があったという事実を覚えられているというのが、もう駄目だ。斎藤の中でのの印象は“痔の話をした女”で固まってしまっているだろう。せっかく市子に協力してもらって斎藤の部下になったというのに、このままではが想像していた関係と違うものになってしまうではないか。
予定では、仕事帰りに一緒に食事をするようになって、そこから少しずついい感じに発展するはずだったのに。それなのに現実はこれだなんて、はしょんぼりしてしまう。
「そうか。あの店は行きづらいか。一緒に晩飯でもと思ってたんだが、別の店がいいか………」
「へ?」
斎藤の意外な言葉に、はびっくりした。
どうやら斎藤は、あの蕎麦屋に一緒に行くつもりだったらしい。の方から誘わないといけないと思っていただけに、これには驚きだ。
斎藤がどういうつもりで誘ったのか分らないが、これは嬉しい。どんな心境の変化があったのか分らないけれど、斎藤がに関心を持ったのだ。このまま上手くいけば、の思う方に方向転換できるかもしれない。
「警部補があのお店がいいなら、そこで良いですっ!」
斎藤が誘ってくれるのなら、行きづらいなんて言っていられない。立ち食い蕎麦であれ、憧れの“斎藤とのお食事”なのだ。多少の恥なんてどうでもいい。
妙に力んでいるの様子に、今度は斎藤が引き気味だ。普通に誘ったつもりが、何だかおかしなことになったと思っているのかもしれない。
斎藤の様子に気付いて、は慌てて大人しめに言い直した。
「あ、私、あそこでも大丈夫です。給料日前でお金も無いですし………」
「いや、別の店にしよう。寿司はどうだ?」
金が無いと言っているのに、豪勢な提案である。斎藤はより高給とはいっても、給料日前なのは同じはずなのだが。
戸惑うを安心させるように、斎藤は言う。
「寿司といっても安いところだ。あんまり期待するなよ」
斎藤が連れて行ってくれたのは、寿司屋は寿司屋でも、立ち食い寿司屋だった。本当に立ち食いが好きな男である。
席が無いというだけで、出される寿司は普通の店と同じようだ。値段は勿論、格安である。
生ものだけに、この激安価格は一寸不安だったが、一口食べてみたら味は普通だった。食中りの心配も無さそうである。
「お寿司なんて久しぶりです。こんなに安く食べられるお店もあるんですね」
激安でも寿司は寿司だ。このところずっと金欠で、最後に寿司を食べたのはいつだったのか思い出せないくらい、久し振りの御馳走である。しかも隣には斎藤がいるのだから、は嬉しくてたまらない。
「この辺りは市場が近いから、安い店が多いんだ」
のはしゃぎっぷりに比べ、斎藤は淡々としている。は“斎藤との初めてのお食事”のつもりでいたのだが、斎藤にとってはいつもの夕飯と変わらないらしい。
立ち食い寿司で“特別なお食事”気分のが浮かれすぎなのだろう。斎藤くらいの年齢の男なら、もっといい店に女を連れていくはずだ。
ということは、斎藤はを女として見てくれていないということか。一緒に夕食というだけでも大きな前進だが、女として見られていないのだとしたら、微妙だ。
けれど、こういうことを重ねていったら、もしかしたら部下から更に前進できるかもしれない。雑誌で読んだが、高い店ばかり行きたがる女は長続きしないそうだ。斎藤は年齢的に、堅実な女を好むだろう。財布に優しい女だということを前面に押し出せば、ひょっとしたらいい感じに進展するかもしれない。
「こういう安いお店、詳しいんですか?」
「まあな。仕事中は、こういうすぐ食えてさっさと出られる店じゃないと都合が悪い」
安い店の良いところは、時間を取らせないことだ。立ち食いの店は、忙しい斎藤には最適な店なのだろう。
外回りの人間は、適当に怠けたり、茶店で時間を潰している者もいると聞くが、斎藤は休み時間を削ってまで仕事をしているらしい。密偵という仕事柄、そうなることは仕方ないことなのかもしれないが、が思っていたより大変な仕事だ。
斎藤の下について一カ月以上経つが、は彼の仕事について何も知らされていない。市子の話では、機密性の高い仕事を専門にしているから、直属の部下にも話せない事件に関わっているのだろうということだった。
が知ることができるのは、斎藤から渡された領収書を見て、どの辺りを行動しているのかということくらいだ。事件に関する書類は斎藤が全て管理していて、が探る隙も無い。
斎藤は今、どんな仕事をしているのだろう。に何かできるわけではないけれど、彼が何をやっているのか知っておきたい。
「警部補って、外では何をなさっているんですか?」
「巡回だ」
斎藤の答えはそっけない。それだけに、大きな秘密があるような気がしてきた。
きっと斎藤は、大きな事件に関わっているのだろう。政治に関することなのか、大きな犯罪組織を相手にしているのか判らないけれど、きっと命がけの仕事をしているに違いない。斎藤のそっけない対応は、の想像力を強く刺激した。
怪しい男を尾行したり、時には刀を交えることだってあるだろう。他の警官は三尺棒か洋刀を携帯しているのに、斎藤だけは日本刀なのだ。それだけでもどんなに危険な仕事なのか判る。
そんな凄い仕事をしているのに、斎藤は偉ぶるわけでもなく普通にしている。だったら、自分がどんなに凄い仕事をしているのか語らずにはいられないだろうに。そんなところが他の警官たちと違って格好良い。
「やっぱり尾行とか潜入捜査とかするんですか?」
警察の密偵の仕事はよく分らないけれど、小説に出てくる密偵はそんな感じの仕事をしていた。斎藤は単独行動ばかりだと聞いているから、きっと一人で敵地に潜入するのだろう。敵は凶悪な組織に違いないから、命懸けの仕事だ。もう想像しただけで痺れるほど格好良い。
目をキラキラさせるをちらりと見て、斎藤は少し鬱陶しそうな顔をした。これくらいなら答えてもらえるかと思っていたら、それさえも答えてはいけないことだったらしい。
過去のことといい、今の仕事といい、斎藤には他人に言えないことが多すぎるようだ。これでは会話もままならない。斎藤のことをもっと知りたいと思っているのに、この調子では表面的な会話しかできない。困ったものである。
斎藤が無口だとか孤高の人だとかいうのは、話せることが無さ過ぎて黙らざるを得ないだけのような気がしてきた。本当はが想像しているような格好良い人ではないのかもしれない。
考えてみたら痔ネタでを弄っているし、若い女を連れていくのにこんな店を選ぶとか、冷静に考えてみたら何かおかしい。よく知らない相手だから勝手に想像を逞しくしていたけれど、ひょっとしたらただの変な人なのではないかと思えてきた。
実は壮大な勘違いをしていたのではないかとが考えていると、斎藤がぽつりと言った。
「想像に任せる」
「………そうですか」
言外にこれ以上質問するなと言われると、も深くは追求できない。けれど否定しないところを見ると、の想像は大体当たっているのだろう。
やはり斎藤は凄い人なのだろうか。には訳が分らなくなってきた。
「領収書見たら、いろんなところに行かれてるんですね。そりゃあお店にも詳しくなりますよねぇ」
「安い店ばかりだけどな」
これは話してもいい話題だったらしい。斎藤の反応は普通である。
斎藤との会話は話題を選ばないといけないから疲れる。じゃあ黙ってろということになってしまうが、それでは一緒に食事をする意味が無い。“お付き合い”に持っていくには、会話が大事なのだ。
「私、そういうお店、あんまり知らないんですよ。警部補、教えてくださいよ」
我ながら、これはいい方向に持って行けたと思う。仕事には関係無い話題だし、何より次に繋ぐことができる。
今日は斎藤の方から誘ってきたのだから、のことを嫌ってはいないはずだ。こういう言い方をすれば、「じゃあ今度………」という流れになるはずである。
ところが―――――
「そういうのは好きな男に連れて行ってもらえ」
これは大きく空振りである。そういう断り方があったのかと思う前に、その言葉にがっかりだ。
の気持ちが斎藤に伝わっていないのは仕方がない。けれどこの言い方では、斎藤が自ら対象外になっているようではないか。
好きな男に連れて行ってもらうのなら、ますます斎藤に連れて行ってもらわないといけないのに。互いのことを知るには食べ歩きが一番だと、市子も言っていた。
萎れているを見て何を勘違いしたのか、斎藤は考え直したように言った。
「ああ、好きな男とは、もっと洒落た店に行くか」
「あ、いや……別にそんな店じゃなくても………」
斎藤と一緒なら、立ち食いでも屋台でも何でもいいのだ。そりゃあ洒落た店にも行ってみたいけれど、斎藤が一緒なら別に拘らない。
「好きな人と一緒なら、何処でもいいです」
自分で言っておきながら、健気な台詞だとは感動した。これは誰が聞いても可愛い台詞だろう。斎藤も可愛いと思うに違いない。
が、斎藤は特に関心を持っていないようで、
「現実味の無い台詞だな。好きな男がいないのか、片思いなのか………」
と、にやりと笑った。何とも人の悪そうな笑い方である。
現実味の無い台詞とは失礼な言い種だ。好きな人はいるし、本当に好きな相手となら安い店でも全然構わないと思っているのに。
は興奮気味に、
「好きな人くらいいます! 本当にお洒落な店じゃなくてもいいと思ってますし!」
現に、この店でも連れて行ってもらえただけ嬉しいと思っているのだ。斎藤と一緒なら、立ち食い寿司でも立ち食い蕎麦でも嬉しい。これで会話が弾めば、もっと嬉しいだろう。
「ふーん………」
斎藤は面白そうににやにや笑う。痔ネタに続き、面白いネタを見つけたと思ったようだ。ネタの相手は自分なのだが。
「まだ片思いか。で、相手は誰だ? 何なら橋渡ししてやってもいいぞ?」
「そんなの………」
好きな相手から「橋渡ししてやってもいいぞ」なんて、絶望的だ。完全に自分は対象外だと思われているではないか。食事に誘ってもらえて浮かれていたけれど、純粋に“部下”としか見られていないということなのか。
確かにと斎藤は歳が離れているけれど、そういう対象に見られてもおかしくない年齢だと思う。斎藤もも独身だし、そうなる可能性はあるのに。
「そういうの、結構ですから………」
そう言って、は泣きそうになるのを堪えながら寿司を押し込む。
これは振られたということなのだろうか。告白もしていないし、はっきりと言われてもいないけれど、こういうことを言われているなんて、振られたとしか思えない。
「どうした?」
の気持ちを知らない斎藤は、怪訝そうな顔をした。
あれからも斎藤は、「好きな男は誰だ」だの、「何処の部署の男だ」だのからかってきた。痔ネタの次はこれがお気に入りのネタになったらしい。
あまりにも言われすぎて、「好きなのは警部補です!」と叫びそうになったけれど、それはどうにか堪えた。それを言ってしまったら空気がおかしくなることくらい、にだって解る。
斎藤がの告白を受け入れてくれれば問題は無いのだが、あの様子では完全に振られてしまいそうだ。振られても、違う部署の相手なら数日やり過ごして無かったことにすることもできるだろうが、二人きりの部署だから逃げ場も無い。
かといって、違う男が好きだと思われるのは困る。今日のところは適当にはぐらかしたが、またこれをネタにからかわれるかもしれないと思うと、気が重い。
「何だか元気が無いな。どうした?」
とぼとぼと歩くを振り返り、斎藤が尋ねた。
元気が無いのは斎藤のせいだ。けれどそんなことは言えなくて、は黙りこくっている。
いつもと違うの様子に斎藤も反省したのか、一寸気まずそうな顔をした。
「まあ、あれはアレだ。お前なら上手くいくと思うぞ?」
本人は励ましているつもりなのだろうが、対象が斎藤でないという時点で、にとってはもう駄目だ。他の男ではなく、斎藤が相手でないと、上手くいっても意味は無い。
それに斎藤は、場を和ませるために口から出任せを言っているのだろう。こういう時は、だって同じことを言うと思う。友人に言われるのは少しは励みになるかもしれないが、好きな相手に言われるのは絶望感倍増だ。
「そういう気休め、いいですから」
自分で思っている以上に、は凹んだ声を出してしまった。
「気休めじゃないけどな」
何か言い訳めいたことを言うかと思いきや、斎藤は驚くほどきっぱりと断言した。
「お前に好かれる男なら、いい男だと思うぞ。告白してみたらどうだ?」
「えっ………?!」
何と言っていいか分らずに、は絶句した。
自分のことだと思っていないからそう言っているのだと思うが、斎藤はにとっては確かに“いい男”だ。知る限りでは、署内の誰にも負けない男だと思う。そこには反論は無いのだが、問題はそこからだ。
女から告白するなんて、の周りでは聞いたことが無い。市子も、最初に狙ったのは市子だが、告白したのは飯島からだったらしい。そう持ち込むのが、女の技術だ。女から告白するなんて、はしたないと思う。
けれど斎藤はそうは思っていないようで、
「昔は女から積極的に言ってたもんだ。好きだと言われたら、男も悪い気はしないしな」
「はあ………」
斎藤はきっと、そういう経験があるのだろう。昔の女は積極的に男に迫っていたと聞いたこともある。
けれど今は時代が違うのだ。それに斎藤も他人事だからそう思えるのであって、自分のこととなったら違う反応をするかもしれない。
「でも、やっぱり………」
斎藤がどんな反応をするか想像できないからこそ、には怖くて言えない。
告白したら、状況が大きく変わるのは確実だ。どう転ぶかは、その時になってみないと分らないが。
いい方向に転べば言うことは無いのだが、そうとは限らない。上手くいかなかった時、斎藤に他に好きな女がいた時のことを考えると、とても言えない。
斎藤には好きな人はいるのだろうか。いるとしたら誰だろう。いないとしたら、どんな女が好きなのだろう。
それだけで頭が一杯になって、はそのまま黙り込んだ。
世の中うまくいかないもんです。「告白すれば?」なんて気楽に言う奴が、告白したい相手だったり(笑)。いやお前のことだし、って(笑)。
友達とか変に近い関係だと、そういう時は困りものだと思います。自分から告白する相手は、自然にフェードアウトできる相手に限る!(笑)