忘れることわすれないこと分けあひて寒夕焼につつまれてゐる

 新人の歓迎会があったり、友人に結婚の御祝儀を送ったりで、今月のは金欠だ。給料日まではまだ何日もあるし、どう遣り繰りして乗り切ろうかと頭を痛めている。
 しかし出ていく金額はある程度決まっているもので、削れる部分というと食費くらいしかない。その食費も毎日自炊できれば良いのだが、仕事が忙しいとどうしても外食に頼ってしまうことになる。
 ということで、の最近の外食は立ち食い蕎麦だ。座席が無いというだけで、普通の蕎麦屋よりも安い。勿論味はそれなりだが、今月は贅沢を言える立場ではないのである。
 最初のうちは、女一人で暖簾をくぐるのも躊躇ったくらいだが、何日か通っているうちにそれも慣れた。慣れてしまえば後は気楽なもので、今では無料の葱や天かすを山盛りにするくらいだ。自分の適応能力には驚くばかりである。
 そんなわけで、今日の夕食はいつものように立ち食い蕎麦だ。いつものようにかけ蕎麦を注文して、無料の天かすでたぬき蕎麦にする。この手順も慣れたものだ。
 そうやって蕎麦を啜っていると、後ろから客が入ってきた。
「何やってるんだ、こんな所で?」
 聞き覚えのある声に振り返ると、そこにいたのは斎藤だった。蕎麦好きなのは知っていたが、こんな所で会うとは驚きである。
「けけけ警部補?!」
 驚きのあまり、声が裏返ってしまった。
 もっと良い店で会うならまだしも、立ち食い蕎麦屋である。しかも無料を良いことに天かすも葱も山盛りにしていて、みっともないことこの上ない。
 できることなら逃げ帰りたいところであるが、蕎麦は半分以上残っている。これでは帰りたくても帰れない。
「なっ……何でっ………?!」
「たまに寄るんだ。
 あ、かけ蕎麦一丁」
 顔を紅くしているに、斎藤はいつもと変わらぬ様子で応える。
 いつか斎藤と蕎麦を食べたいとは思っていたけれど、まさかこんな形で実現するとは思わなかった。初めての一緒の食事がこれだなんて、本当に間が悪い。
「それにしても女一人で立ち食い蕎麦なんて珍しいな」
 かけ蕎麦を受け取りながら斎藤が言う。
「ええ、まあ………」
 斎藤は全く気にしていないようだが、は恥ずかしくて顔を上げられない。
「蕎麦を食いたいなら、席のある店の方が入りやすいだろう」
「あ……新聞の随筆で、立ち食い蕎麦は金欠病と痔主に優しいって書いてあ……って………」
 世間話のつもりで話していたら、とんでもないことを口走っていることに気付いて、は固まってしまった。これではまるで、斎藤が金欠か痔主のようではないか。
 またいらぬことを言ってしまった、とが恐る恐る斎藤の方を窺うと、彼もこちらを見ていた。不機嫌ではないようだが、何か言いたそうな顔をしている。
「あ、えっと………」
「………痔主なのか?」
「………………っ!」
 あまりなことに、は言葉が出ない。
 何故よりにもよってそっちなのか。こういう時は普通、金欠を考えるものだろう。仮にもは若い女なのだ。そんな相手に痔だなんて、失礼にも程がある。
「ちがっ……違います! 今月は金欠だからっ………」
 は顔を真っ赤にして全力で否定するが、それがまた誤解に拍車をかけてしまったらしい。斎藤は心底哀れむような目をして、
「あれは辛いらしいからな。あまり酷いようなら手術をするのも―――――」
「だから違いますって!」
 立ち食い蕎麦屋で会った上に痔まで疑われるなんて、最悪すぎる。場所が場所なだけに見せるわけにもいかないし、否定すればするほど疑いは深まるのだから、どうしようもない。
「まああれだ。薬で治すのも大事だが、肛門周りの血行を良くするのも大事らしいぞ」
「だから痔じゃなくて金欠ですってば! 肛門は健康です!」
 気が付くと、周りの目がに集まっている。ただでさえ女の客は目立つのに、大声で痔だの肛門だの言っていたら注目されないわけがない。
 食事をしている時にそんな単語を大声で言うなんて、迷惑な客だ。今更ながら、穴あったら入りたい。
 ふと見ると、斎藤は笑いを堪えているようだ。他人のような顔で蕎麦を啜っていて、自分が話題を振ったくせに酷すぎる。
 ひょっとして、からかわれたのだろうか。よくよく思い返してみれば、会話の流れも一寸不自然だった。それにしって、ネタが酷いのだが。
 店中の好奇の視線に晒されながら、は顔を隠すように蕎麦を啜った。





「何だ、一緒の方向か?」
 店を出て暫く歩いたところで、斎藤がふと尋ねた。
「警部補は、どちらにお住まいですか?」
「ああ、うちは―――――」
 斎藤が言った地名は、の家の近所だった。これまで外で会わなかったのが不思議なくらいである。
 意外なところに共通点があったものだ。これなら近所のことを話題にしたり、上手くすれば一緒に帰ることもできるようになるかもしれない。
 先のことを想像したら楽しくなって、の声も弾む。
「私もあの辺りなんですよ。あそこから通ってる人って、結構いるんですね。この前の新人の子も、あの辺だって言ってました」
「この前の?」
「ほら、古田さんに絡まれてた―――――あ、警部補によろしくって言ってました」
 あの時のことが縁で、はあの新人と時々話すようになった。予想はしていたが、彼女の父親も幕府の御家人だったそうで、今は人力車の車夫をしているらしい。
 新人は、年毎に幕府側だった家の子女が増えているらしい。幹部になれるのはどうしても薩摩出身者に偏るけれど、もう若い世代には幕府だの官軍だのという感覚は無いのかもしれない。
 たちが入庁した頃は、まだそういうことに抵抗を感じるものが少なからずいた。採用が決まった時、の母親はあまり良い顔をしなかったし、市子など反対を押し切って来たのだそうだ。ほんの数年前のことなのに、なんだか遠い昔のことのようである。
「私の頃は、新政府の仕事なんて、って言われてましたけど、人の心って変わっていくんですねぇ」
 気が付けば、明治も十年が過ぎたのだ。生きている人間は、いつまでも古いことに拘ってはいられない。思うところはあっても、食べていくためにはいつまでも恨んではいられない、というのが正直なところだ。
 会津戦争まで戦って、よりも先に入庁した斎藤は、どんな思いでこの職に就いたのだろう。生々しい戦争の記憶があるだけに、よりも葛藤があったかもしれない。
「警部補は幕府の人だったって聞いたんですけど、警視庁に入るのに迷ったりしませんでしたか?」
「別に」
 斎藤は即答した。建前でも何でもなく、本当に迷わなかったのだろう。
 十年前は敵だった相手の下で働くことに躊躇いがなかったなんて、には信じられない。戦争の記憶があまり無いでさえ、母親のことを思って悩んだのに。
 新しい時代の到来と共に、古い時代のことは忘れてしまったのだろうか。さっさと気持ちを切り替えて新しい時代に馴染む者は確かに多かったけれど、最後まで戦った斎藤がそんなに簡単に気持ちを切り替えられるようには思えないのだが。
 もしかして、戦争には参加したけれど、早い時期から幕府に見切りをつけていたのだろうか。それなら斎藤の答えにも納得がいく。
 けれど斎藤の言葉は、の予想とは少し違っていた。
「上が変わっても、治安を守るという仕事には変わりは無い。それなら昔の仕事と同じだ」
 斎藤の言葉は力強くて、本当に心からそう思っているようだ。幕府とか新政府とかそんなことは彼にはどうでもよくて、仕事の内容が何よりも大事だということか。
 斎藤の今の仕事は、治安を守る最前線だ。新選組時代の仕事がどんなものだったかには分からないけれど、今と変わらず人々の生活を守る仕事だったのだろう。どんなに世の中が変わっても、斎藤の仕事は変わらない。
 新政府の下で働いてはいるけれど、斎藤は昔のことを忘れてしまったわけではないのだと思う。昔のことを覚えているからこそ、今の仕事を選んだのかもしれない。
「警部補は、今も昔も変わらないんですね」
 は、昔のことは忘れなければならないと思っていた。新しい時代になったのだから、考え方を変えなければ生きていけないと思い続けていた。市子もそう言っていたし、他の者もそう言っていたからだ。
 けれど斎藤は違う。新しい時代に馴染む努力もしているだろうが、昔のことも忘れないでいる。昔の斎藤がいるから、今の斎藤がいる。
 斎藤はきっと、周りに流されない“自分”というものがある人なのだろう。頑固なのとは違う、本当に強い人だ。もそういう強い人間になりたい。
「私もそういう強い人になりたいなあ………」
「お前も相当強いと思うぞ」
 何かを思い出すように、斎藤は小さく笑った。
「新人を守ろうとして頑張ってたじゃないか」
「あっ……あれはっ………!」
 あの時のことを思い出して、は顔を紅くした。
 あれは強いとかそういうのではなくて、自分がやられて嫌だったから、新人にも同じ思いをさせたくなかっただけだ。後半は頭に血が上って冷静な判断ができなくなっていたし、斎藤の強さとは全然違う。
「知らんふりもできたのに、そうしなかったのは強いだろ。お偉いさんの親戚を相手にあそこまで言ってやるなんて、弱い人間にはできない」
 またからかわれているのかと思ったけれど、斎藤の口調は普段からは考えられないほど優しい。こんな声は初めて聞いたような気がする。
 そういう風に言われると、何だか斎藤に認められたようで嬉しい。斎藤が言ってくれている“強い”が彼と同じ種類の強さなら、一歩近付けたような気がする。
「あの、私―――――」
「あ、俺は此処で。じゃあな」
 が言いかけると同時に、斎藤は角を曲がって行ってしまった。もう少し話したかったのに、の声に気付かなかったのだろうか。
 いつかも斎藤のようになれるか、訊いてみたかった。そう言ったら、斎藤は何と答えてくれただろう。
 が本当に強い人間なら、いつか斎藤のようになりたい。そうしたらきっと、彼に釣り合う人間になれるだろう。今はまだまだだけど、斎藤に相応しい女になりたい。
 斎藤の後ろ姿を見送りながら、は強く思った。
<あとがき>
 前半はどうなることかと思ったけれど(笑)、後半で巻き返しました。主人公さん、結構強い人だと思うよ。斎藤レベルになったら一寸怖いかもしれないけれど(笑)。
 この調子で二人の距離が縮まっていくといいですね。
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